『日本式 正道論』第十三章 道の思想型・求道


 前章において、道の思想型における道筋が示されました。

 その道筋に沿って、求道が行われます。そこで本章では、道の思想型における「求道」を見ていきます。



第一節 道を求める

 求道とは、道を求めることです。道を求めるということは、道とは何なのか、道とはどういうことなのかを問うということです。

 空海(774~835)は、〈古人、道の為に道を求む。今の人は名利の為に求む。名の為に求むるは求道の志とせず、求道の志は己を忘るる道法なり(『遍照發揮性靈集』)〉と述べています。古人に習い、名利のためではなく、道のために道を求めることが語られています。

 夢窓疎石(1275~1351)の『夢中問答集』には、〈道のために福を求むることは、まことに世欲に異なりといへども、求め得たる時は喜び、しからざる時は嘆く〉とあります。仏道のために福を求めることは世俗の欲とは異なりますが、求め得たときは喜びになり、そうでなければ嘆きになるというのです。

 山本常朝(1659~1719)は、〈只「是も非也非也」と思ひて「何としたらば道に叶うべき哉」と一生探捉し、心を守て打置ことなく、執行仕えるべき也。此内に即道有也(『葉隠』)〉と述べています。探捉とは探し求めることで、探し求めることがすなわち道だというのです。不足不足と思い、道を心に守って探し求めるべきであり、この内に道が有るのだとされています。

 そこで問われるべきことは、どのように道を求めるかということです。その方法は、日本史の上に示されています。和辻哲郎(1889~1960)は、〈根源的空間性時間性が明らかにせられる時に、初めて実践的行為的連関はその具体的な構造を示してくる。すなわち人間の行為はここに至ってその充分なる規定を得ることができるのである。そこでこの行為の立場において、信頼及び真実と呼ばれる人間の道が、真によく把握せられる(『倫理学』)〉と述べています。

 日本史を参照するということは、日本という時空をたどるということです。時空をたどる旅において、私たちは日本における時間意識と空間意識を垣間見ることになります。その関係において、日本における理想(信頼・真実)と現実(実践・行為)が交わります。日本における求道は、時間と空間、理想と現実の交差において立ち現れて来るのです。


13_01.bmp[図13-1] 求道の型



 道を求める行為は、「時間-空間」という軸と「理想-現実」という軸の交わりにおける求道の型として示されます。




第二節 道の時間

 まず、日本史における道の時間意識を見てみましょう。

 日本における道の時間意識の代表格は、松尾芭蕉(1644~1694)だと思われます。『笈の小文』で芭蕉は、〈西行の和歌における、宗祗の連歌における、雪舟の繪における、利休が茶における、其貫道する物は一なり〉という言葉を残しています。この言葉から、道は日本史の各時代(平安、室町、安土桃山など)を通じて、一貫して続いていることがわかります。


13_02.bmp[図13-2] 時代を貫いて続く道



 慈円(1155~1225)の『愚管抄』には、〈加様ノ次第ヲバ、カクミチヲヤリテ正道ドモヲ申ヒラクウヘハ、ヒロクシラント思ハン人ハカンガヘミルベキ事也〉とあります。つまり、正しい道を申し開くために幅広く知識を得ようとする人は、順々に移り流れる歴史を参照し反省してみるべきだと語られているのです。また、〈コレニツキテ昔ヲ思ヒイデ今ヲカヘリミテ、正意ニヲトシスエテ邪ヲステ正ニキスル道ヲヒシト心ウベキニアヒ成テ侍ゾカシ〉とも語られています。昔のことを思い出し、現在のことを顧みて、世の中を正しい考えにもとづくように帰着させ、邪を捨てて正に帰する道をしっかりと理解すべきだというのです。

 道元(1200~1253)は、〈古仏の道を参学するは、古仏の道を証するなり。代代の古仏なり。いはゆる古仏は、新古の古に一斉なりといへども、さらに古今を超出せり、古今に正直なり(『正法眼蔵』)〉と述べています。古き仏の道を学ぶということは、古き仏の道を証することだというのです。だから、代々すべて古仏とされています。古仏の古は、新古の古に他ならないのですが、その古仏とは古今を超越したもの、古今を貫いてまっすぐ続いているものだと語られています。

 『甲陽軍鑑』には、〈学は啻身を潤すのみにあらず、国家を興隆し、子孫を栄茂するの本なり。本立つて道生る則ば、乾坤を掌握に運し、古今を胸中に通ず。亦道ならずや〉とあります。つまり、学問は自身に利福をもたらすにとどまらず、国家興隆、子孫繁昌の基本であるというのです。基本が定まってこそ道が成就するとされています。そのために天地を掌中に収め、古今を明らかに知ることが道だと記されています。

 貝原益軒(1630~1714)は、〈聖賢の書をよみ、人に道をききて、古今を考へて道理を求むるなり(『大和俗訓』)〉と述べています。今と昔を考えることで道理を求めるというのです。

 伊藤東涯(1670~1736)は、〈道 万世に易わらずして、学に古今の異有り(『古今学変』)〉と述べています。学には古今で違いがありますが、道に古今の相違はなく、変わらずに在り続けているのだと考えられています。

 平田篤胤(1776~1843)は、〈うべなうべな我が皇大御国の、古伝の正実にして、真の道の伝はり、また古語の麗く、世人の声音も言語も雅にして、万国に比類なきことよ(『霊の真柱』)〉と述べています。古から内実ある正しさが伝わっている我が国は、真の道が伝わっており、誇るべきことが語られています。また、〈眞ノ道ヲ行ク人ト云モノハ、其ノ先祖ノ美ヲ撰ビ論メ、其事ヲ明カニシテ、後世ニ著レルヤウニ為モノジヤ(『古道大意』)〉とも述べています。真の道とは、先祖の美しいところを後世に残すところにあるというのです。

 伊達千広(1803~1877)は、〈人とうまれては、おのおの其身を保ち其時事をつとむるを職とす。これ神道なり、人道なり。まづ其時事をつとむるには、天下の大勢をしらずんばあるべからず。其大勢をしらんには、古来の沿革をしらずんばあるべからず(『大勢三転考』)〉と述べています。神道であれ人道であれ、己の身を保ち、時に応じた職をつとめるには、天下の大勢を知らなければならず、そのためには古来の知恵が必要だと語られています。

 以上のように、日本史の上に、道の時間意識が展開されています。道の時間意識では、(いにしえ)の事柄や、古の人に学び、今を考え、道の正しさや道理を求めるという基本が示されています。その基本の上で、道が時間を貫いて続いているという考え方が示されています。先祖から子孫へと道は続いて行くのです。ですから道の時間意識では、日本の道の連続性・一貫性・持続性があらわれているのです。




第三節 道の空間

 次は、日本史における道の空間意識を見ていきます。道の空間意識は、世界に対して、世界の中で道を立てることによって確認できます。様々な道が自身の内側と外側を分けることで、個々の道が一定の幅を持つ空間として認識できるからです。

 最澄(767~822)は、〈道心あるの人を名づけて国宝となす(『山家学生式』)〉と言い、道と国を結びつけて論じています。

 道元(1200~1253)は、『正法眼蔵随聞記(1235~1238)』において、〈人、其の家に生れ、其道に入らば、先づ、其の家の業を修べし、知べき也。我が道に非ず、自が分に非ざらん事を知り修するは即非也〉と述べています。人がある家に生まれ、その家業の道に入るなら、まず、その家業を修めなくてはならないと知るべきだというのです。自身に分不相応なことを知ったり修めたりするのは、心得違いであり道ではないというわけです。道が、家と結びついた人の生き方に関わって語られていることが分かります。

 『八幡愚童訓』では、〈誠にも悲法を旨とし正道を捨る時は、其国必滅亡する事なれば、邪をすて正に帰せよとなり〉とあり、道と国の衰退が関係するものとして述べられています。

 『朝倉始末記』では、〈国を治むる者は道を以て欲する時は能く(たも)ち、政を務むる者は徳を以て欲する時は能く収む〉と、治国と道との関わりが述べられています。ここでの国は、藩を指しています。

 『甲陽軍鑑』では、〈何の道も家職を失なはんこと勿躰なし〉とあり、家職に道が対応しています。

 山鹿素行(1622~1685)の『山鹿語類』では、〈人君の誠と云はん所は、天下国家人民のために至大至公の道を行ひとげん所、是則誠なり〉とあります。誠は、天下・国家・人民のための最も公共的な正しい道を実現することだと述べられています。また、〈人既に我職分を究明するに及んでは、其職分をつとむるに道なくんばあるべからざれば、こゝに於て道といふものに志出來るべき事〉ともあります。人が自分の職分を明らかにした段階で、道というものに対する志が出てくるはずだというのです。

 貝原益軒(1630~1714)は、〈人の見になすわざ、何事にも道あらずといふことなし(『大和俗訓』)〉とあり、人の営みの全てに道があることを語っています。

 西川如見(1648~1724)は、〈自慢によつて其國の作法政道立たり(『町人嚢』)〉と述べています。各国は、その自慢する所によって、政治の道を立てているのだと語られています。

 山本常朝(1659~1719)は『葉隠』で、〈その道々にては、其家の本尊をこそ尊び申候〉と述べ、道と家が結びつけられて捉えられています。また、〈士は諸傍輩に頼もしく寄合、中にも智恵有人に、我身の上の異見を頼み、我非を知て一生道を探捉するものは、御国の宝と成候也〉とも語られています。ここでの国は藩のことですが、道が国(藩)の特性として論じられています。道は、家と国(藩)に関係するものとして語られているのです。

 荻生徂徠(1666~1728)は『答問書』で、〈聖人の道は、國家を治め候道〉と述べています。

 賀茂真淵(1697~1769)は『国意考』で、〈国につきたる道のさかえ〉について述べています。

 富永仲基(1715~1746)は、〈言に物あり。道、これがために分かる。国に俗あり。道、これがために異なり(『出定後語』)〉と述べ、言語や国ごとの風俗・習慣により、道に相違が現れることを語っています。

 石田梅岩(1685~1744)は、〈摠テイヘバ道ハ一ナリ。然レドモ士農工商トモニ、各行フ道アリ(『都鄙問答』)〉と述べています。一般的に言えば道は一つですが、士・農・工・商のそれぞれの職業に応じて道があると語られています。

 和泉真国(1765~1805)は、〈万国とも、各其国には、必、自然に、其国に付たる道ある事をさとるべき也(『明道書』)〉と述べ、国には国ごとの道があると語っています。

 佐藤一斉(1772~1859)は、〈茫茫たる宇宙、この道只これ一貫す(『言志録』)〉と述べ、道が宇宙すべてに及んでいることを論じています。茫茫とは、ひろく果てしなく、さだかでないさまです。

 平田篤胤(1776~1843)は、〈青海原、潮の八百重の、八十国に、つぎて弘めよ、この正道を(『霊の真柱』)〉と述べ、道がたくさんの国に弘まることを願っています。

 頼山陽(1780~1832)は、〈道は一のみ。道の天下に在るや、猶ほ日月のごときなり。日月は天下の日月なり。一国の私有する所に非ざるなり(『日本政記』)〉と述べ、道を天下に在るものとして論じています。

 渡辺崋山(1793~1841)は、〈西洋諸国の道とする所、我道とする所の、道理に於ては一有て二なしといへども、其見の大小の分異なきに非ず(『慎機論』)〉と述べています。日本も西洋も、道とすべきところは一つですが、見解に多少の相違がないわけではないと語られています。

 西郷隆盛(1828~1877)の『南洲翁遺訓』には、〈忠孝仁愛教化の道は、政事の大本にして、万世に亘り、宇宙に弥り、易うべからざるの要道なり。道は天地自然のものなれば、西洋と雖も決して別なし〉とあり、道が万国に及ぶと言われています。そこでは、〈節義廉恥を失いて国を維持するの道決してあらず、西洋各国同然なり〉とあり、万国に及ぶものであるからこそ、各国が道に適うようにすべきだと語られています。

 大久保利通(1830~1878)は、〈治国ノ道タル、其政府ノ体裁ニ於テハ各其国古来ノ風習人情ニ従ヒ(『立憲政体に関する意見書』)〉と述べています。国を治める道は、国ごとの風習や人情によるのだと語られています。

 以上のように、日本史の上に、道の空間意識が展開されています。日本の道は、様々な仕方で、家(職)・国(藩)・国家・天下・宇宙などの区切りを指し示しています。


13_03.bmp[図13-3] 道の空間関係



 これらの区切りにおいて、その区切りに特有の性質が示され、日本の道の空間意識が形作られています。そのため道の空間意識では、日本の道の限定性・限界性・特異性があらわれているのです。




第四節 道の理想

 日本史を眺めてみると、理想としての道が語られてきたことが分かります。その営みは、道が理想へ向かっていること、理想に叶っていることとして綴られています。

 空海(774~835)は、〈仏法存するが故に、人皆眼を開く。眼明らかにして正道を行じ、正路に遊ぶが故に、涅槃に至る(『秘蔵宝鑰』)〉と述べています。正道は涅槃に至るとされています。

 親鸞(1173~1262)の『教行信証』には、〈道は則ちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり〉とあります。本願一実の直道とは、ただ一つのまことなる道ということです。大般涅槃とは、すぐれて完全な大乗の仏果(仏の悟り)のことです。つまり、大乗の仏の悟りは、最上でただ一つのまことの道だと語られているのです。

 道元(1200~1253)の『正法眼蔵』の[発菩提心]では、〈菩提は天竺の音、ここには道といふ〉とあります。菩提というのは、天竺のことばを音写したもので、中国ではそれを道と訳すというわけです。菩提(悟りの知恵)という理想が道だというのです。また、[三十七品菩提分法]での八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)も、八つの正しさという点で、道という理想を述べたものと言えます。

 無住(1226~1312)の『沙石集』には、〈真実対治して、身心二つながら清浄にして、解脱の道に入るべき者なり〉とあります。

 中巌円月(1300~1375)は、〈聖人の道は大なり。仁義なるのみ(『中正子』)〉と述べています。

 熊沢蕃山(1619~1691)の『集義外書』には、〈道は三綱五常これなり〉とあります。三綱五常とは、三綱は君臣・父子・夫婦の道で、五常は仁義礼智信の徳のことです。また、〈それ道は大路のごとしといへり。衆の共によるべき所なり。五倫の五典十義是なり〉ともあります。五典十義の五典とは、人のふみ行なうべき五つの道を言い、『孟子』では〈父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有り〉とあり、『左伝』では〈父の義、母の慈、兄の友、弟の恭、子の孝〉を指しています。十義とは、人のふみ行なうべき十の道を言いますが、これも諸説あり、蕃山は『心法図解』の人道の図に、〈父慈、子孝、君仁、臣忠、夫義、妻聴、兄良、弟悌、朋友、交信〉を記しています。

 伊藤仁斉(1627~1705)の『童子問』では、「人」という言葉は「人倫」という意味で使われている場合と、「個人」という意味で使われている場合があります。〈道とは人有ると人無きとを待たず、本来自ら有るの物、天地に満ち、人倫に徹し、時として然らずということ無く、処として在らずということ無し〉というとき、人が個人の意味で使われ、道の理想たる人倫が示されています。その理想は、個人的なものではないことが語られているのです。具体的には、〈道は仁義禮智に至って極まり、教は孝弟忠信に至って盡く〉とあるように、仁義礼智という道の理想が示されています。

 仁斎の息子である伊藤東涯(1670~1736)は、〈道とは何ぞ。仁是れなり(『古今学変』)〉と述べています。仁斎は道を仁のみに限定していませんが、東涯は仁に限定して語っています。

 このように日本史における道の理想は、涅槃や八正道や解脱、仁義礼智信などとして語られています。

 ここで注意が必要なのは、理想は、単なるきれいごとではないということです。文字通り、(ことわり)を想うことが理想なのです。ですから、理を想うための現実が必要となります。理を想っていない考えは、理想ではなく妄想です。そうならないためには、現実から理想を生成する必要があるのです。

13_04.bmp[図13-4] 現実の道の理想



 日本史においては、現実から理想が生成されているのです。

 『正法眼蔵随聞記』には、〈善知識に随て、衆と共に行て、私なければ、自然に道人也〉とあります。高徳の賢者に従って、私心なく皆と一緒に修行すれば、おのずとそのまま仏道の人に成ると言われています。高徳の賢者に従って皆と共に行くという現実から、無私や道人という理想に至るとされています。

 山鹿素行(1622~1685)は、〈道は日用共に由り当に行なふべき所、条理あるの名なり。天能く(めぐ)り、地能く載せ、人物能く云為す。おのおのその道ありて違ふべからず(『聖教要録』)〉と述べています。道は、毎日使用するところを根拠に持ち、行うべきことを示すというのです。その現実において、条理という名の道の理想が見えて来るとされています。

 伊藤仁斉(1627~1705)は、〈道の天下に在るや、処として到らずということ無く、時として然らずということ無く、聖人の為めにして存せず、小人の為にして亡びず、古今に亙って変ぜず、四海に放って準有り、日用彝倫の間に行なわれて、声も無く臭も無き理に非ず。其の目四有り。曰く仁義禮智(『童子問』)〉と述べています。道が、日常における常の仲間の間という現実における、仁義礼智という理想として語られています。『語孟字義』には、〈道とは、人倫日用当に行くべきの路、教えを待って後有るにあらず〉とあります。

 浅見絅斉(1652~1711)は、〈道ト云ヘバ、常行平易ノ行ヲ主トシテ、夫ノ孝弟忠信ノ筋ニ能合故也(『劄録』)〉と述べています。常行平易ノ行という現実において、孝弟忠信という理想の道が語られています。

 荻生徂徠(1666~1728)は『弁道』で、〈それ道は、先王の道なり〉と宣言し、〈孔子の道は、先王の道なり〉という現実を踏まえ、〈先王の道は、天下を安んずるの道なり〉と道の理想を語っています。

 鈴木朖(1764~1837)は、〈凡テ、内外古今ノ道、皆ソノ道理ヲ以テ主トスル事ナガラ、ソノ道理ハ皆事実ノ中ニコモレリ。事実ヲ疎ニシテ、理ヲノミ好ム者ハ、其理必アヤマリアリ(『離屋学訓』)〉と述べています。理想としての道理が、事実としての現実に根付いていることの重要性が語られています。現実を無視した理想は誤りがあるからです。

 柳宗悦(1889~1961)は、〈煮つまる所まで煮つまった時、ものの精髄に達するのである。それが型であり道である(『茶道を想う』)〉と述べています。現実において熟成したとき、道は理想の型を得るのです。

 以上のように、日本では現実を基にして、理想の道が生成されているのです。日本における道では、現実を無視して理想が成り立つことはないのです。それが、日本の道の理想なのです。




第五節 道の現実

 日本史を眺めてみると、現実としての道が語られてきたことが分かります。その営みは、道が現実に根付いていること、現実に適っていることとして綴られています。

 道元(1200~1253)の『正法眼蔵』の[遍参]では、〈仏祖の大道は、究竟参徹なり〉とあります。仏祖の大道は、徹頭徹尾、高徳の賢者を訪ねて参学することに尽きるというのです。

 林羅山(1583~1657)の『羅山先生文集』では、〈それ道は人倫を教ふのみ。倫理の外、何ぞ別に道あらんや〉と道の現実が語られています。道は、人と人との間柄や、共同体における人と人との関係にあり、その外にはないというのです。

 『彝倫(イリン)抄』には、〈道はこれを日用彝倫(いりん)の外に求むることを待たず。これを()てて何ぞ他に求めんや。思はざるの甚しきなり〉とあります。

 山鹿素行(1622~1685)の『山鹿語類』でも、〈今日日用の外に道あるべからず〉とあります。毎日使用するところにおいて道があるというのです。道を勝手な妄想で作ってはならないからです。

 伊藤仁斉(1627~1705)の『童子問』では、「人」が「人倫」と「個人」という二つの意味で使われていますが、〈人の外に道無く、道の外に人無し。人を以て人の道を行う、何んの知り難く行い難きことか之れ有らん〉というとき、人が人倫の意味で使われ、道の現実である人倫が示されています。その現実は、人と人との間柄である人倫において、知ることと行うことを基にして語られています。特に〈俗の外に道無く、道の外俗無し〉という表現において、道が俗という現実に根差していることが示されています。

 貝原益軒(1630~1714)は、〈博く学ぶの道は、見ると聞くとの二をつとむ(『大和俗訓』)〉と述べ、現実に見たり聴いたりすることに則して学びの道が提示されています。

 大塩中斉(1793~1837)は、〈道の外に事無く、事の外に道無し。道理は只だ是れ眼前の道理(『洗心洞劄記』)〉と述べ、道と事とは一体であることが語られています。

 橋本左内(1834~1859)は、〈聖人の道と申も、畢竟人倫日用之外には之れ無く候得ば、物外之道にてはなし(『学制に関する意見劄子』)〉と述べています。物外之道という言い方で、具体的な事物以外に道理はないと述べているのです。

 このように、日本史における道の現実は、事実の上に備わっているものとして語られています。

 ここで注意が必要なのは、道の現実は、単なる状況への安易な妥協ではないということです。文字通り、(あらわ)れた実が、現実なのです。ですから実を現すための理想が必要になります。実が現れることのない現実など、何の意義もありません。理想は、現実における経験を積み重ねることによって、そもそも実を宿せる理想であるのかどうかを確認する必要があります。実を宿す可能性のない考えなど、理想ではなく妄想です。理想なき現実では、為していることが現状のやみくもな肯定か、むやみやたらな否定へと墜ちていきます。そうならないためには、理想を現実における経験によって確認する必要があるのです。

13_05.bmp[図13-5] 理想の道の現実



 日本史では、理想は現実の経験によって確認されるのです。

 道元(1200~1253)の『正法眼蔵』の[全機]では、〈諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり〉とあり、諸々の仏の大道を究め尽くしたところが、まったく透きとおって、眼前に隠れることなく、ありのまま現れることが語られています。究め尽くしていく現実において、大道の理想が透き通るように現れているか確認されるのです。

 貝原益軒(1630~1714)の『大和俗訓』には、〈此の五倫の道は、仁義禮智信の五常の性にしたがひて、人倫にまじはる時に行ひ出せるなり。わが本性の外に求むる道にあらず〉とあります。理想としての仁義禮智信を、現実としての人倫に交わる時に適用することが述べられています。人々の交際において適合する仁義礼智信でなければならないのです。ですから、〈行ふべき道とするは五倫なり〉という確認が必要になるのです。

 浅見絅斉(1652~1711)は、〈道ト理ト両ツナシ。道ハ日用ノ則ヨリ云、理ハ其道ノ道タル真実ヲ云ヘバ、理ニ非レバ道ニ非ズ、道ニ非レバ理ニ非(『劄録』)〉と述べています。道は日用に則した理でなければならず、真実という理想の道は理であります。ですから、道たる真実は、日常生活の視点から現実の道である必要があるのです。

 佐藤一斉(1772~1859)の『言志四録』の[言志耋録]では、〈義は宜なり。道義を以て本と為す。物に接するの義有り。時に臨むの義有り。常を守るの義有り。変に応ずるの義有り。之を統ぶる者は道義なり〉とあります。理想としての道義は、現実において事物に接し、時代に臨み、常識を守り、変化に対応する必要があるというのです。その過程で経験を積み重ねることで、義が宜しいことが確認されるのです。

 大原幽学(1797~1858)は、〈道を能行はんと欲する者は、一理を能味ひ知るべし。数を見聞くは、唯一理を知る為めにすべし。見聞きたる事をもて行はんとすれば、見聞かざる事は行ひ難し(『微味幽玄考』)〉と述べています。道の現実における適用には、理を想うことが必要だとされています。なぜなら見聞きしたことだけにこだわれば、現実において見聞きしたことにしか対処できなくなるからです。見聞きしたこと以外にも対処するために、理を想うことが必要になるというのです。ですから、未経験の現実にも対処できれば、その理は本物だと確認できるのです。

 以上のように、日本では理想を、現実の道における経験によって確認するのです。日本における道では、理想を無視して現実が為されることはないのです。現実に実践されたことが、単なる妥協や折衷ではなく、道理に基づいていなければならないのです。それが、日本の道の現実なのです。




第六節 日本の道

 求道において、「時間-空間」という軸と、「理想-現実」という軸が示されました。その軸の交わりにおいて、求道の型が展開されています。求めるべき日本の道は、日本史の上に示されています。

 道の時間における一貫性・持続性・連続性と、道の空間における限定性・限界性・特異性から、日本史(日本の歴史)という意識が芽生えます。その歴史では、現実から理想を生成し、理想を現実で確認するという循環により、理想と現実が共に修正されながら受け継がれていきます。理想も現実も、完全になることはありえませんが、その不完全さを認めながらも、試行錯誤していくしかないのです。そうした努力の中で、道は続いていくのです。

 つまり、求道の型において、日本の道が立ち現れ、仄見えてくるのです。

13_06.bmp[図13-6] 求道における日本の道



 道を求める行為は、日本史をたどる営為に至ります。ですから、道を求める営為で、日本が意識できるのです。

 日本史をたどる営為は、様々な仕方が考えられます。その中でも、言葉による営為は非常に重要です。日本史をたどる営為は、日本語で行われるからです。そのとき、言葉と道の関係が浮かび上がります。辞書上において、道(どう)は、〈言葉〉や〈言う〉という意味を持ちます。道という言葉は、言葉に関わるのです。例えば、道破とは、言い切ることです。唱道とは、ある思想や主張を人に先立って唱えることです。報道とは、告げ知らせることです。仏語における言語道断は、奥深い真理は言葉で表現できないことを言います。

 道元(1200~1253)の『正法眼蔵』などでも、「道」は条理であるため、動詞では「いう」の意味になり、名詞では「ことば」の意味になります。ですから、[仏教]で〈諸仏の道現成、これ仏教なり〉とあるのは、諸々の仏のことばが実現したものが仏教だという意味になります。

 荻生徂徠(1666~1728)は『答問書』において、〈言葉を巧にして人情をよくのべ候故、其力にて自然と心こなれ、道理もねれ、又道理の上ばかりにては見えがたき世の風儀國の風儀も心に移り、わが心をのづからに人情に行わたり〉と述べています。言葉をうまく使って人情を解したなら、自然と心に道理が宿り、世の中や国家の習慣や慣わしが自然と心の中で理解され、自分の心が自然と人情に行き着くというのです。ですから、〈聖人の道國の治めは、其國の風俗に従ひ候事ニ候〉と語られているのです。

 本居宣長(1730~1801)は『排蘆小船』において、〈和歌は言辞の道也。心におもふことを、ほどよくいひつゞくる道也〉と述べています。〈てにをはと云ふもの、和歌の第一に重んずる所也〉とされ、〈吾邦の言語万国にすぐれて、明らかに詳らかなるは、てにはあるを以て也〉と語られています。道が言葉であり、何かを言うことであるなら、日本語で道を求める営為は、日本という国へと導かれていきます。『石上私淑言』には、〈殊に言の葉の道におきては、古語をむねとして考ふべき事なれば、古事記は又たぐひもなくめでたき書にて、此道にこゝろざゝむ人は、あけくれによみならふべき物也〉とあります。そこで、日本史における、日本の道が立ち現れて来るのです。


13_07.bmp[図13-7] 日本語による日本の道



 道を求めることにおいて、日本史における日本の道に出会います。日本国家における最初の歴史書である『日本書紀』には、「神道」の文字があり、また、その中の『十七条憲法』では「臣の道」があります。日本の神道、および、日本の臣の道が示されています。

 最澄(767~822)の『山家学生式(天台法華宗年分学生式)』では、〈国宝とは何者ぞ。宝とは道心なり。道心あるの人を名づけて国宝となす〉とあり、国と道が結びつけられた上で、〈今、我が東州、ただ小像のみありて、未だ大類あらず。大道未だ弘まらず、大人興り難し〉と語られています。今の日本(我が東州)には、小乗の形だけで大乗の人が居ないと嘆いています。

 栄西(1141~1215)は、〈日本国において、祖道すなはち大いに興ることを得んと欲す(『興禅護国論』)〉と述べて、日本に道を求めています。

 日蓮(1222~1282)は『顕謗法抄』で、〈月支・尸那には外道あり、小乗あり。此日本には外道なし、小乗の者なし〉と語っています。インドは外道であり小乗で、日本は違うと述べています。また、『撰時抄』では、〈日蓮が法花経を信始しは、日本国には一渧一微塵のごとし。法花経を二人、三人、十人、百千万億人唱え伝うるほどならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるべし。仏になる道は此よりほかに又もとむる事なかれ〉と述べています。日蓮一人が仏の教えを信じても、日本という国から見ればその力は脆弱です。しかし、仏の教えを唱える人の数が多くなれば、仏の道も大きくなると言うのです。仏になる道は、これより他に求めるべきではないと語られています。

 北畠親房(1293~1354)の『神皇正統記』には、〈應神天皇ノ御代ヨリ儒書ヲヒロメラレ、聖徳太子ノ御代ヨリ、釈教ヲサカリニシ給シ、是皆権化ノ神聖ニマシマセバ、天照大神ノ御心ヲウケテ我國ノ道ヲヒロメフカクシ給ナルベシ〉とあります。日本の道が、受け継がれてきた神道、および受容されてきた儒道や仏道として示されています。

 『八幡愚童訓』には、〈御託宣に「神吾正道を(あがめ)行はんと思ふは、国家安寧の故也」とある。誠にも悲法を旨とし正道を捨る時は、其国必滅亡する事なれば、邪をすて正に帰せよとなり〉とあります。正道は吾が神の国である国家の安寧のためであり、正道を捨てるなら国は滅びるとされています。

 『大日本史本紀賛藪』では、〈天地の間、我が祖宗・君父より尊きは莫し。之を敬し之を愛するを道と謂ふ〉とあります。ご先祖様を敬い、愛することが、すなわち道なのだとされています。このような考え方は、当然ながら日本という国を読み手に意識させます。

 熊沢蕃山(1619~1691)は、〈日本は神国なり。むかし礼儀いまだ備らざれ共、神明の徳威、厳厲なり。いますがごとくの敬を存して、悪をなさず。神に詣でては、利欲も亡び邪術もおこらず。天道にも叶ひ、親にも孝あり、君にも忠あり(『集義和書』)〉と述べています。日本を偉大な国とする考え方が示されています。

 賀茂真淵(1697~1769)は、〈我すべら御国の、古への道は、天地のまにまに丸く平らかにして(『国意考』)〉と述べています。天地のままに丸く平らであるという日本の古道について語られています。

 本居宣長(1730~1801)の『鈴屋答問録』には、〈日神の道にてあれば、日本の道は何れの筋より云ても、神道と云べきこと也〉と示された上で、〈日本は日本の道、西土は西土の道、天竺は天竺の道〉と語られています。

 原念斎(1774~1820)の『先哲叢談』では、山崎闇斉(1618~1682)について語られています。孔子と孟子が軍隊を率いて日本に攻めて来たらどうするかという問いに対し、闇斎が〈之れと一戦して孔孟を擒にし、以て国恩に報ず。此れ即ち孔孟の道なり〉と述べたというのです。道が、日本という国に対応するものであることが分かります。

 山崎闇斎の弟子である浅見絅斉(1652~1711)の『浅見先生学談』では、日本に攻めてくるのが孔子と朱子になっていて、〈異国ノ人ノマネヲスル事、正道ヲ知ラザルガ故ナリ〉と語られています。

 吉田松陰(1830~1859)の『講孟余話』では、〈経書を読むの第一義は、聖賢に阿ねらぬこと要なり。若し少しにても阿る所あれば、道明ならず、学ぶとも益なくして害あり。孔孟生國を離れて、他國に事へ給ふこと済まぬことなり〉とあります。歴史的な著作を読む上で重要なことは、そこに書かれていることに迎合しないことだと語られています。迎合しては道が明らかにならないからです。学んでも有益ではなく、有害となってしまうというのです。道が明らかにならなければ、生まれた国から離れ、他国へ仕えることになってしまいます。ここでは、道が、生まれ育った国のものとして論じられています。そのため、〈人と生れて人の道を知らず。臣と生れて臣の道を知らず。子と生れて子の道を知らず。士と生れて士の道を知らず。豈恥づべきの至りならずや。若し是を恥るの心あらば、書を読道を学ぶの外術あることなし〉と語られています。人はそれぞれ、道を歩むのです。道を知らないことは恥ずべきことだというのです。恥を知るならば、書を読み、道を学ぶべきだとされています。

 そして、〈國體の最も重きこと知るべし。然ども道は惣名也。故に大小精粗皆是を道と云。然れば國體も亦道也〉と語られているのです。ここにおいて、日本の国体が、道という名で呼ばれていることが分かります。

 西郷隆盛(1828~1877)の『南洲翁遺訓』では、〈正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かるべからず、彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順するときは、軽侮を招き、好親却って破れ、終に彼の制を受くるに至らん〉とあります。また、〈国事に及びし時、慨然として申されけるは、国の凌辱せらるるに当りては、縦令国を以て斃るるとも正道を践み、義を尽すは政府の本務なり〉ともあります。正道は、日本の国の誇りと関わるというのです。

 橋本左内(1834~1859)の『書簡』には、〈実に尚武の風を忠実の心にて守り候はば、風俗もますます敦重に相成り、士道もますます興起仕り、国勢国体万邦に卓出仕るべく候事〉とあります。尚武の気風を忠義と実直の精神で守り伝えて行けば、風俗は情味篤く質朴になり、武士道も盛んに興り、日本国の勢いが優れたものになることが述べられています。

 西田幾多郎(1870~1945)の『日本文化の問題』では、〈西洋文化を単に個人主義と云ってしまうのも無造作に過ぎると思うと共に、全体主義と云うのは往々ファッショやナチスに類するものの如くである。之に反し我国自身の立場に於て考えようとする人は皇道と云う〉とあります。日本の道が、皇道として示されています。

 『国体の本義』には、〈我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる〉とあります。日本人たるの道が示されています。

国民は、国家の大本としての不易な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによつて、維れ新たなる日本を益々生成発展せしめ、以て弥々天壌無窮の皇運を扶翼し奉らねばならぬ〉と語られています。

 以上のように、道を求めるという求道において、「時間-空間」と「理想-現実」という交わりを経るならば、日本の道が現れてきます。求道の営為において、日本の道を辿り、「日本」に出会うのです。





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