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『日本式 正道論:第十五章 道の思想型・道義』

【目次】
第一節 道の義(ただ)しさ
 第一項 日本の我
 第二項 仁と愛
 第三項 仁義
第二節 道への帰還
 第一項 道理
 第二項 道徳
 第三項 終わりなき道
第三節 正しい道
 第一項 外道
 第二項 邪道
 第三項 非道
 第四項 無道
 第五項 義へ至る道
第四節 武士道の式
第五節 武士道の死
 第一項 死心
 第二項 死習
 第三項 死狂
 第四項 死身
 第五項 至誠
第六節 道義

 


『第十五章 道の思想型(しそうがた)・道義』
 前章までで、道の思想型における道筋および求道と修道が示されました。
 日本の道の思想では、道筋に沿って、求道と修道が両義的に行われます。そこにおいて、日本の道と我が道が重なり合うことで、道義が芽生えます。そこで本章では、道の思想型における「道義」を見ていきます。

 


第一節 道の義(ただ)しさ
 道義とは、道の義(ただ)しさのことです。道の義(ただ)しさには、道を求め、道を修めることで近づくことができます。

 

 第一項 日本の我
 日本の道の思想においては、道筋に沿って、求道と修道が互いに共鳴し合っています。そこに、次のような求道と修道の関係を考えることができます。

 15_01.bmp

[図15-1] 求道と修道の関係

 

 求道の型と修道の型は、密接に結びついています。
 「道の理想」は「目的としての道」と結びつき、「道の現実」は「手段としての道」と結びつきます。「道の時間」は「自(おの)ずからの道」と結びつき、「道の空間」は「自(みずか)らの道」と結びつきます。そして、それぞれの結びつきの中心軸として、「求道」と「修道」が結びつきます。
 求めた理想の道は、それぞれの状況における目的としての道を指し示します。道の現実を求めることで、手段としての道の選択肢が広がります。道の時間を意識することで、歴史の積み重ねによって生まれた自(おの)ずからの道が現れてきます。道の空間を意識することで、その状況における条件が理解できるようになるため、自(みずか)らの道として行うべきことが仄見えてきます。そして、求道によって日本の道が現れ、修道によって我が道に至り、求道と修道が出会うことで、日本と我の重なる場所へとたどり着きます。

 15_02.bmp[図15-2] 日本と我

 

 日本に道を求め、我が道を修めることにおいて、道は、友の道に至ります。
 『南方録』には、〈自他の差別なく、道に於て只親切なりければ、交る人いづれむつまじからぬはなかりしなり〉とあります。道において親切を心掛ければ、人と睦まじく交わることができるのです。
 『百姓分量記』には、〈唯得がたきは善師・心友也。是を得るに道あり。道を聞て過を改行(は)んと思ふ時は、世界皆師也、友也〉とあります。
 橋本左内(1834~1859)の『啓発録』には、〈吾が身を厳重に致し付合ひ候て、必ず狎昵致し吾が道を褻さぬやうにして、何とか工夫を凝して、その者を正道に導き、武道学問の筋に勧め込み候事、友道なれ〉とあります。吾が道をけがすことのないように工夫することで、正しき友の道へと繋がるというのです。友の道は、日本における友の道であり、日本を通した友の道でもあります。つまり、国内の友および国外の友の両方にかかります。
 そして友の道は、仁や愛と呼ばれるものへと至ります。

 

 第二項 仁と愛
 日本の道の思想では、道筋に沿って求道と修道がともに関連し合いながら、我と日本が出会うことで、仁や愛と呼ばれるものが芽生えます。
 『十七条憲法』の[六条]には、〈君に忠なく、民(たみ)に仁(じん)なし。これ大乱の本(もと)なり〉とあります。
 道元(1200?1253)の『正法眼蔵』の[菩提薩埵四摂法]には、〈愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり〉とあります。愛の言葉は、衆生を慈しむ愛の心によってなされることが示されています。また、〈愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり〉とあり、愛の言葉は愛の心よりおこり、愛の心は慈しみの心を種子としてなると語られています。
 黒田長政(1568~1623)の『黒田長政遺言』には、〈凡国主ハ常ニ仁愛ニシテ讒ヲ信ゼズ、善ヲ行フヲ以務トスベシ〉とあります。仁愛が必要とされています。
 藤原惺窩(1561~1619)の『寸鉄録』には、〈仁者は、その愛する所を以て、その愛せざる所に及ぼし、不仁者は、その愛せざる所を以て、その愛する所に及ぼす〉とあります。
 山崎闇斎(1618~1682)の『仁説問答師説』には、〈私ヲ克去レバ、未発本然忍ビザル心ガ、親ヲ愛スル心トナリ、君ヲイトヲシム心トナルユヘ、公ガ仁ニ近ヒト仰ラルル〉とあります。愛することや愛おしむことで、仁に近づくというのです。
 山鹿素行(1622~1685)の『聖教要録』には、〈仁は人の人たる所以、己れに克ちて礼に復るなり。天地、元を以て行なはれ、天下、仁を以て立つ〉とあります。
 伊藤仁斎(1627~1705)の『童子問』には、〈仁の徳為る大なり。然れども一言以て之を蔽う。曰く、愛のみ〉とあります。また、〈仁は愛を主として、徳は人を愛するより大なるは莫し〉ともあります。『古学先生文集』には、〈仁者は愛をもって心とす〉とあります。
 貝原益軒(1630~1714)の『大疑録』には、〈「天下仁に帰す」とは、ただ公なれば、己私の間隔なく、天下広濶なりといへども、愛せざる所なきを言ふなり〉とあります。
 荻生徂徠(1666~1728)の『弁道』には、〈礼楽刑政は、先王これを以て天下を安んずるの道を尽くせり。これいはゆる仁なり〉とあり、〈仁なる者は、人に長となり民を安んずるの徳を謂ふなり〉とあります。
 伊藤東涯(1670~1736)の『古今学変』には、〈道とは何ぞ。仁是れなり〉とあります。
 徳川宗春(1696~1764)の『温知政要』には、〈古より、国を治め民を安んずるの道は、仁に止る事也とぞ〉とあります。善の極致に止って他に移らない状態が大事だというのです。
 山片蟠桃(1748~1821)の『夢ノ代』には、〈仁ハ人ナリ。天下ノ知ヲ大成シタルハ、人情ヲツクシタルナリ。天下ノ人情ヲアツメツクス、コレコレヲ仁ト云〉とあります。
 海保青陵(1755~1817)の『稽古談』には、〈自国ノ土ヨリ物ノ生ズルコト多クナルハ、王道ニテ仁ノ株シキ也〉とあり、〈仁トハ人ノ天地ノ理ニ合ヒタル人ノコト也〉とあります。
 『大日本史本紀賛藪』には、〈仁徳は百姓の心を以て心と為し、一も其の所を得ざること有れば、己れ推して諸を溝壑に納るるが若し〉とあります。つまり仁の徳は、百姓と心を同じくできなければ、自分が相手を谷間に突き落としかのように心を痛めるほどだというのです。
 『百姓分量記』には、〈仁は道の根本なれば、忠孝・慈恵・温和・謙譲・悉く籠れり〉とあります。
 日本と我が重なり、日本の我となったとき、仁が、仁愛が芽生えます。仁や愛は、人々の間において、つまり人間において問題となります。

15_03.bmp[図15-3] 人間における仁愛

 

 

 第三項 仁義
 仁は義へと向かい、仁義となります。仁義を伴わない我が道は、欲望に堕ちて日本の道を害します。仁義を伴う我が道は、信念を持って日本の道を護持します。
 夢窓疎石(1275~1351)の『夢中問答集』には、〈仁義の道を学びて、物を殺さず理を曲げずは、これ又正直の人なり〉とあります。日本と我が重なることで、我は友と出会い、仁が芽生え、そして、義へと向かうのです。
 中巌円月(1300~1375)の『中正子』には、〈聖人の道は大なり。仁義なるのみ〉とあり、〈仁義の道は、世を治むるの大本なり〉とあります。
 中江藤樹(1608~1648)の『翁問答』には、〈文は仁道の異名、武は義道の異名なり。仁と義はおなじく人性の一徳なるによつて、文武もおなじく一徳にして各別なるものにあらず。仁義の徳をよくさとりて、文武のさたをあきらむべし〉とあります。
 伊藤仁斎(1627~1705)の『語孟字義』には、〈仁義相行なわるる、これを人道と謂う〉とあります。〈道とは、天下の公共にして、一人の私情にあらず。故に天下のために残を除く、これを仁と謂う。天下のために賊を去る、これを義と謂う〉ともあります。『古学先生文集』には、〈すなわち愛その愛するところにあらずして、かえって愛せざるところ有ることを免れず。故に真仁は必ず義有り、真義は必ず仁有り〉とあります。
 貝原益軒(1630~1714)の『五常訓』には、〈五常ノ和訓、仁ハイツクシミ、義ハヨロシ、礼ハウヤマフ、智ハサトル、信ハマコトトヨム〉とあります。和訓とは、日本よみのことです。また、〈利ハ仁義ノウラ也〉とあります。
 『大日本史本紀賛藪』には、〈忠臣・義士に、生を舎って義を取り、身を殺して仁を成す者有り〉とあります。
 横井小楠(1809~1869)の『夷虜応接大意』には、〈我国の万国に勝れ世界にて君子国とも称せらるるは、天地の心を体し仁義を重んずるを以て也〉とあります。
徳竜(?~?)の『僧分教誡三罪録』には、〈戒律ノ作法ヲモテ、悪ヲ制シタマハズ、タヾ王法仁義ノ道ニ順ジテ、此世ヲスゴセヨト教ヘタマフガ、浄土真宗ノ掟ナリ〉とあります。
 道筋が求道と修道を経ることで、日本と我が出会い、日本の我において仁愛が芽生えます。仁は義へと向かいますから、道は道義に近づくことができるのです。

15_04.bmp[図15-4] 道義へ至る仁義


 

 

第二節 道への帰還
 道が仁において道義を得たとき、その道は、正しい道だということができます。
 しかし、それは難しいことです。とても難しいことです。なぜなら、求道と修道の間には葛藤や齟齬があるからです。

 

15_05.bmp

[図15-5] 道における葛藤と齟齬

 

 現実と理想、目的と手段には葛藤があります。理想と目的、現実と手段にも葛藤があります。空間意識と時間意識、おのずから得られるものとみずから得るものには齟齬があります。時間意識とおのずから得られるもの、空間意識とみずから得られるものにも齟齬があります。
 これらの葛藤や齟齬は、試行錯誤を通じて調整して調和させる必要があります。そのためには、堅実であることが重要です。貝原益軒(1630~1714)は、〈卑近に始まつて高遠に終るは、実に従ふなり。蓋し遠きに行くは、必ず邇きよりし、高きに登るは、必ず卑きよりするが如し。これ序に循ひて道に漸進するなり(『大疑録』)〉と述べています。卑近から始めて高遠に達するのは、堅実な方法だというのです。思うに遠くに行くには身近から踏み出し、高山に登るには低地から踏み出すように、順序どおりに一歩一歩進むことが大切だとされています。そうしなければ、葛藤や齟齬が次第に大きくなり、正しい道から離れて行くからです。ある分度を超えると道から外れ、外道に墜ちてしまう場合もあります。
 そのときには、試行錯誤を通じて正しい道へ帰還する必要があります。帰還とは、一般的には故郷へ帰ることを意味します。ここでいう道への帰還は、精神の故郷へ帰り着くことです。歩んでいる今現在が、正しい道から隔たってしまったとき、道理と道徳によって正しい道へと帰り着くことをいうのです。
 北畠親房(1293~1354)の『神皇正統記』には、〈唯我國ノミ天地ヒラケシ初ヨリ今ノ世ノ今日ニ至マデ、日嗣ヲウケ給コトヨコシマナラズ。一種姓ノ中ニヲキテモヲノヅカラ傍ヨリ傳給シスラ猶正ニカヘル道アリテゾタモチマシマシケル〉とあります。日本の始まりから今にいたるまで、天照大神の神意を受けて皇位の継承は正しいというのです。時として傍流になっても、おのずからに本流に戻る道が保たれ続くのだと語られています。
 正しい道から外れないために、正しい道に居続けるために、たとえ正しい道から外れたとしても再び帰還できるために、いずれの場合にも道理と道徳が必要です。道理と道徳は、神道・仏道・儒道などのそれぞれの道が、道筋・求道・修道という型を経て、仁と愛によって道義へ向かうことでもたらされます。道徳を用いて、道理に適うように道を正しく行うという当たり前の話です。

 

 第一項 道理
 道理は、道の思想に現れる理(ことわり)です。正しい道に至るために、または正しい道へ帰還するために、道理が必要になります。
『正法眼蔵随聞記』には、〈只、時にのぞみて、ともかくも、道理にかなふやうに、はからふべき也〉とあります。その時々に応じて、道理に適うようにすべきことが語られています。
 慈円(1155~1225)の『愚管抄』では、〈道理ニヨリテ先例ノサハサハトミユルト、コレヲ一々ニヲボシメシアハセテ、道理ヲダニモコ丶ロヘトヲサセ給ヒナバメデタカルベキ也〉とあります。つまり、道理によって先例を理解し、それを事に当たって考え合わせ、道理を理解し、その筋を通せば、たいへん立派な世となるであろうというのです。ここから分かることは、過去からもたらされる権威により、不確かな未来に対処する、それが道理の重要な役割の一つだということです。
 道理物語とも称される『愚管抄』には、他にも様々な道理が語られています。例えば、それぞれの場合や状況における道理があります。それらを基礎づける道理があります。世の移り変わりにより変化する道理があり、その変化の基準となるさらに高次元の道理もあります。世の中は移り変わり、状況や状態が遷移しますから、道理もそれに伴い多様に現れるのです。
 無住(1226~1312)の『沙石集』にも、〈人は物の道理を知り、正直なるべき物なり。失を犯しても、物の道理を知りて我がひが事と思ひて、正直に失を顕はし恐れ慎めば、その失許さるるなり〉とあり、道理が語られています。人は物の道理をわきまえた上で、正直であるべきだとされています。
 私たちは道理によって、道の正しさにいるのか、それとも道の正しさから外れているのかが分かるのです。

 


 第二項 道徳
 道徳は、道の思想に現れる徳です。正しい道に至るために、また正しい道へ帰還するために、道徳が必要になります。
 『十訓抄』には、〈道徳あるを天子といひ、道徳なきを少人とす ともいひたれば、たとひ国の主なりとも、その心愚かならば、この名をはなれ給ふべからず〉とあります。道徳ある人が天子で、道徳のない人が少人ならば、たとえ一国の王であっても愚かなら少人であるというのです。
 北畠親房(1293~1354)の『神皇正統記』には、三種の神器について記されています。三種の神器とは、歴代天皇が皇位の印として受け継いだ三つの宝物のことです。八咫(やたの)鏡(かがみ)と八尺瓊(やさかにの)勾玉(まがたま) と天(あまの)叢(むら)雲(くもの)剣(つるぎ)の三つです。天叢雲剣は、草薙(くさなぎの)剣(つるぎ)という名で呼ばれることもあります。この三種の神器について、〈此三種ニツキタル?勅ハ正ク國ヲタモチマスベキ道ナルベシ。鏡ハ一物ヲタクハヘズ。私ノ心ナクシテ、萬象ヲテラスニ是非善悪ノスガタアラハレズト云コトナシ。其スガタニシタガヒテ感應スルヲ徳トス。コレ正直ノ本源ナリ。玉ハ柔和善順ヲ徳トス。慈悲ノ本源也。劍ハ剛利決断ヲ徳トス。智恵ノ本源也。此三徳ヲ翕(アハセ)受ズシテハ、天下ノヲサマランコトマコトニカタカルベシ〉と記述されています。鏡が正直に、玉が慈悲に、剣が智恵に対応しています。正直・慈悲・智恵という三徳が示されているのです。
 林羅山(1583~1657)の『神道伝授』では、〈此三ノ内証ハ鏡ハ智也、玉ハ仁、剣ハ勇、智仁勇ノ徳ヲ一心ニタモツ義也。心ニ有テハ智仁勇也〉とあります。ここでは鏡と玉と剣の三種の神器を、智仁勇の三徳を象徴したものと見ています。
 熊沢蕃山(1619~1691)は、〈知・仁・勇は心の一徳也(『集義和書』)〉と述べています。
 伊藤仁斎(1627~1705)は、〈徳とは仁義礼智の総名(『語孟字義』)〉と述べています。
荻生徂徠(1666~1728)は、〈聖人の徳は、その大なる者を挙ぐれば、仁・智これを尽くせり。しかるにまた勇を挙げて以てこれを参にする者は、君子は武備なかるべからざるを以てなり(『弁名』)〉と述べています。
このように、徳には「正直・慈悲・智恵」や、「智仁勇」、「仁義礼智」などの道徳を挙げることができます。これらの道徳により、道が正しさから外れて傍流に逸れたとしても、正しさの本流に戻ることができるのです。また、本流に居続けることもできるのです。

 


 第三項 終わりなき道
 道の思想では、道筋を立て、求道と修道を行い、そこに道理と道徳があることで、道義に近づくことができます。そこでは、日本の道と我が道が重なり、仁や愛が育まれます。
 以上から、道の型の全体像が次図のように出揃います。

 
15_06.bmp[図15-6] 道の型の全体

 

 図の中央の道には、仁と愛が備わっています。
 道の思想では、あらゆる状況において、この型が適用されます。道は、道筋・求道・修道・道理・道徳・道義の間において、平衡・均衡・調和を取り続けます。
このとき注意が必要なのは、時代によって状況や条件は移り変わりますから、道に終わりはないということです。平衡・均衡・調和が取れていれば仁や愛があると言えますが、それらはいつまでも続けていく必要があるのです。
 道に終わりがないということは、慈円(1155~1225)の『愚管抄』で〈サダメナキ道理〉が語られ、親鸞(1173~1262)が〈道に登るにこれ極(きはま)りなし(『教行信証』)〉と述べていることからも分かります。
 『正法眼蔵随聞記』では、〈道は無窮なり。さとりても、猶行道すべし〉とあります。道は極まることがなく、たとえ悟ったとしても、なお修行しなくてはならないとされています。
 熊沢蕃山(1619~1691)は『集義外書』において、〈時・所・位に応ずるとは、日をかさねて熟し、時に当て変通すべし〉と述べ、〈時處位の至善に叶はざれば道にはあらず〉と語っています。時所位は、時とともに移り変わり、道はその刻々でそれに対応する必要があると言うのです。ですから、道はいつまでも続いて行くのです。
 伊藤仁斎(1627~1705)の『童子問』には、〈己が性は限り有って、天下の道は窮まり無し〉とあります。
 山本常朝(1659~1719)は、〈修行に於ては、是迄、成就といふ事はなし。成就といふ所、其まま道に背なり。一生の間、不足ふそくとおもひて、思ひ死する所、跡より見て成就の人也(『葉隠』)〉と述べています。道は、死ぬまで成就することがないのだと語られています。
 富永仲基(1715~1746)は『翁の文』で、〈誠の道〉を〈唯物ごとそのあたりまへをつとめ〉るものとして述べています。つまり、〈只今日の人の上にて、かくすれば、人もこれを悦び、己もこゝろよく、始終さはる所なふ、よくおさまりゆき〉とされる、〈人のあたりまへより出来たる事〉が語られているのです。その当たり前のことにより、誠の道が可能になるとされています。時代ごとに状況や条件が異なりますから、単なる過去の模倣ではうまくいきません。この時代の状況や条件を考慮した、今日の人の上における誠の道が必要だというのです。
 佐藤一斉(1772~1859)は、〈道は固より窮り無く、堯舜の上善も尽くること無し(『言志四録・言志後録』)〉と述べています。道は、極まり尽くせるようなものではないというのです。
 山岡鉄舟(1836~1888)は、〈武士道は、本来心を元として形に発動するものなれば、形は時に従ひ事に応じて変化遷転極りなきものなり(『剣禅話』)〉と述べています。武士道は、その時々の状況に応じるため、極まることがないというのです。
 このように、先人たちが述べているように、道に終わりはないのです。

 


第三節 正しい道
 道の型では、道筋を立て、道を求め、道を修め、道徳を用いて、道理に適うように、正しい道へ向かいます。そこにおいて、道は、義に近づきます。

 
15_07.bmp[図15-7] 道の調和

 

 道は筋に沿って、正しい道となります。そこでは道筋の型で示したように、「経?権」の関係と「活?統」の関係と「文?武」の関係において、程々・中道・中庸となることが必要なのです。道の中(なか)で、程々にことに中(あた)るのです。その道は、求・修・理・徳による平衡・均衡・調和であり、終わりなき道です。
 これが、正しい道なのです。仁と愛が備わった道なのです。正しい道を示すことで、正しくない道、間違った道も考えることができます。

 

 第一項 外道
 正しい道を歩むことは、非常に難しいことです。道を行くとき、往々にして仁や義を見失い、道から離れていきます。それが度を越すと、道を外れます。つまり、外道に墜ちます。
 仏語での外道は、仏教の信者からみて仏教以外の教えや、仏教者以外の者を指しますが、ここでいう外道は仏語の意味に限定しません。諸々の道において、道が調和の状態から外れることを外道と呼ぶことにします。

 15_08.bmp[図15-8] 外道

 


 第二項 邪道
 次は、邪道について述べます。
 邪道は、正当でないこと、本来あるべきではないこと、本筋から外れていることを言います。邪道は道の型に関わることがあるとはいえ、筋・求・修・理・徳・義の均衡や平衡を顧みず、仁や愛という調和を保てない道のことです。ですが邪道は、道の正しさと触れることもあるため、一種の魅力を持つことがあります。

15_09.bmp[図15-9] 邪道

 


 第三項 非道
 次は、非道です。
 非道とは、残酷で惨(むご)いことを言います。非道は、常識では考えられないようなひどいことを意味しているため、道の型など慮ることなく、自分勝手に進んでいきます。その進んでいく先が、正しい道と交わることはありません。ですから、非道は残酷で惨(むご)いのです。

15_10.bmp[図15-10] 非道

 


第四項 無道
 次は、無道です。
 無道とは、道が無いことです。そのため無道は、道の型の背いた、ある固定化された考えによって定義されます。一種の原理主義のことです。無道は、正しい道ではないところに、つまりは道から離れたところで考えを固定し、それを押し通します。それゆえ、融通が利かず、世の中との軋轢を高め、崩壊するまで突き進みます。

15_11.bmp[図15-11] 無道

 


第五項 義へ至る道
 正しい道と比較したとき、外道・邪道・非道・無道は、間違った道だと分かります。道の型における調和から、逸脱しているからです。
 道の型において義に近づき、道が道筋・求道・修道・道理・道徳の間で平衡・均衡・調和の状態を保って仁と愛を備えているならば、それで十分正しい道だと言えるでしょう。ただし、日本史には、その先が既に語られています。『盤珪禅師語録』には、〈侍は常に義理を第一といたし、一言にても相違あればとがめ、間のぬからぬ所が、侍の道でござる〉とあります。義に近づくだけではなく、義に達するという先があるのです。

15_12.bmp[図15-12] 義へ達する道

 

 その先については、山本常朝(1659~1719)が『葉隠』で詳しく述べています。〈中道は物の至極なれども、武篇は平生にも人に乗越したる者にてなくば、成まじく候〉とあります。中道は過不足のないことですが、武においては人を乗り越えて先へと進む者でなければならないとされています。そのため、中道を乗り越えるという境地が述べられているのです。そこでは、〈理を付て不義を行ふは、重々の悪事也。理を付ては道は立たざる也〉と語られています。理屈をこねくり回して不義を行うのは、悪しき事だというのです。理屈をこねくり回すようでは、道は立たないと考えられています。なぜなら、〈我人(われひと)、生る方がすき也。多分すきの方に理が付べし。若(もし)図に迦(はず)れて生たらば、腰ぬけ也。此境危き也。図に迦れて死たらば、気違にて恥には成らず。是が武道の丈夫也〉というわけです。誰でも死ぬよりも生きることの方が好きなため、生きる方に理を付けてしまうというのです。立派な振舞い方から外れて生き残るなら、腰抜けです。理を付けるという、この考え方は危ういものだというのです。立派な振舞い方から外れても、死ぬ方を選ぶなら、気違いかもしれませんが、恥とはならないとされています。これが武道の堅固なありようだというのです。
 正しい道において、道は義に近づきます。その正しい道で調和を保つためには、理や徳が必要です。しかし、極限状況において、下手な理屈が義へ向かうことを妨げ、不義を招いてしまう場合があるのです。いざというときには、理屈を付けず、気違いとなることが必要となる場合があるのです。その極限の場所は、武士道において示されています。武士道において、過不足のない状態をさらに上回ることで示される、義へと達する道がありえるのです。そこでは、小賢しい理を投げ捨てることによって、より高い道理が仄見えて来るのです。

 


第四節 武士道の式
 道の思想型における道義は、複雑で困難な秩序の上に成り立ちます。その道義が、どのような場所にあるか、それは武士道によって示されています。武士道における武士の規範は、武士道の式によって、すでに用意されています。その式は、道義が、他の言葉とどのような関係にあるのかを示しています。武士道の式で示される言葉の優劣を、武士の道をたどることで明らかにしていきます。
 まずは、武士が名誉を重んじるというのは、広く認められる事実です。
 『万葉集』において既に、名誉の尊重が高らかに詠い上げられています。[巻第三・四四三]では、〈天雲の 向伏す国の 武士(ますらを)と いはゆる人は 皇祖の 神の御門に 外の重に 立ち候ひ 内の重に 仕へ奉り 玉葛 いや遠長く 祖の名も 継ぎゆくものと母父に 妻に子等に 語らひて 立ちにし日より〉とあります。「武士(ますらを)」は、「祖の名も継ぎゆくもの」とされています。 [巻第十九・四一六五] では〈大夫は名をし立つべし後の代に聞き継ぐ人も語り継ぐがね〉とあり、 [巻第二十・四四六七] では〈剣大刀いよよ研ぐべし古ゆ清けく負ひて来にしその名そ〉とあります。いずれも名誉に対して言及されています。
 この名についてですが、武士においては、名は勝つということに支えられています。『宗滴話記』には、〈武者は犬ともいへ、畜生ともいへ勝事が本にて候事〉とあります。『五輪書』では、〈剣術実の道になつて、敵とたゝかひ勝つ事、此法聊か替る事有るべからず〉と示されています。大道寺友山(1639~1730)の『武道初心集』では、〈大身小身共に武士たらんものは勝と云文字の道理を能心得べきもの也〉と語られています。その関係は『甲陽軍鑑』において、〈武士はたゞ剛強なるばかりにても勝ちはなきものにて候。勝ちがなければ名は取られぬものにて候〉とされています。ここにおいて、「名⇔勝」という関係が成り立っていることが分かります。
 名に関連する言葉としては、恥も外せません。『将門記』では、〈現在に生きて恥有らば、死後に誉れなし〉とあり、恥が名と関連していることがわかります。つまりは、「名⇔恥」という関係です。
 恥については、大道寺友山(1639~1730)の『武道初心集』で示されている考え方が重要です。善い人間を、〈誠によく義を行ふ人〉、〈心に恥て義を行ふ人〉、〈人を恥て義を行ふ人〉という順で述べています。これは、見事な分類です。「義>恥」という式の基で、義を行う人を最上にし、その次に恥じることができる人が続いています。恥じることができる人に対しても、二つに分類し、上位の恥を己の心に恥じることとし、下位の恥を他人に恥じることとしています。
 この恥は、日本の思想史においても武士道においても、重要な位置を占めています。『陸奥話記』では、〈故を以て免ることを得たり。武士猶以て恥と為すなり〉とあります。また、〈臆しぬれば、恩禄欠くるのみならず、生きては恥辱をいだき、死しては謗りを残すといへり。能々思慮を廻らすべきは、兵の道なるべし〉ともあります。『平治物語』では、〈弓矢取る身は、敵に恥を与へじと互ひに思ふこそ、本意なれ〉と示されています。
 恥について特筆すべきことは、『太平記』で〈軍の習ひ、負くるは常の事なり。ただ戦ふべきところを戦はずして、身を慎むを以て恥とす〉と語られているところです。名は勝つということに重きを置きますが、恥は、勝ち負けを超えた、より高い規範を示しているのです。そこで、「名⇔(恥>勝)」という関係が成り立ちます。
 また、恥については、『源平盛衰記』では〈弓矢取身は我も人も死の後の名こそ惜けれ〉とあります。『平家物語』では〈恥ある者は打死し、つれなき者はおちぞゆく〉とあります。『太平記』では、〈弓矢取りの死ぬべき所にて死なねば恥をみる、と申し習はしたるは、理にて候ひけり〉とあります。『葉隠』では、〈図に迦れて死たらば、気違にて恥には成らず〉とあります。立派な振舞い方からはずれて死んでも、恥にはならないと語られています。ここでは、「恥>命」という式が成り立ちます。恥は、命よりも上位にあるのです。
 そして、それは名についても言えます。名の尊重と対になる考えは、命の軽視です。『宇治拾遺物語』では、〈日本人は、我命死なんをも露をしまず。大なる矢にていれば、其庭にいころしつ。なを兵の道は、日本の人にはあたるべくもあらず〉と語られています。
 命よりも名が優先するということは、『太平記』で大いに語られています。例を挙げれば、〈たとひ尸を戦場に曝すとも、名を子孫に伝へん〉や〈弓馬の家に生れたる物は、名をこそ惜しめ、命をば惜しまぬ物を〉とあり、また、〈死を軽んじ名を重んずる者をこそ人とは申せ〉や〈弓矢取る者は名こそ惜しめ、命をば惜しまぬものを〉とあります。「名>命」という式が成り立つのです。その理由はというと、〈古より今に至るまで、武士の家に生るる人、名を惜しみて命を惜しまず。皆これ妻子に名残を惜しみ、父母に別れを悲しむと云へども、ただ家を思ふによつて名を愧づる故に、惜しかるべき命を捨つる物なり〉というわけです。つまり、人はみな妻子と名残を惜しみ、父母との別れを悲しむとはいっても、もっぱら家の存続を思って名誉を失うことを恥じるからこそ、惜しいはずの命を捨てるというのです。そのためには戦闘に際して、〈されば、今度の合戦に、相構へて身命を軽んじて、先祖の名を失ふべからず〉という心構えが必要なのです。
 宮本武蔵の『独行道』には、〈身を捨ても名利はすてず〉とあります。ここでは、命より上位に名を置いていると同時に、利という文字も見ることができます。名誉と利益は命よりも重いのです。そこで、「(名、利)>命」という関係が成り立ちます。
 名誉と利益は、国や家が存続するための条件であるが故に、個人の命よりも重いとされています。ですから『太平記』では、〈まづ弓矢取りと成らば、死を善道に守り、名を利路に失はじとこそ思ふべきに〉と語られているのです。
 名誉や利益に限らず、命よりも上位に置かれている言葉は、意外に多く日本史の中に見つけることができます。『平家物語』では〈命を軽んじ、義を重んじて〉とあり、「義>命」という関係が示され、『太平記』では〈官軍も武士も諸共に義によつて命を軽くし、名を惜しんで死を争ふ〉とあり、「(義、名)>命」という関係が示されています。『独行道』には、〈道においては、死をいとはず思ふ〉ともあり、『風雅和歌集』には、〈命をばかろきになして武士の道より重き道あらめやは〉とあるので、「道>命」という関係も成り立ちます。
 『池田光政日記』では、〈義を見て利を見ざる者は士の道なり〉とあり、「義>利」という関係が示されています。
 吉田松陰の『講孟余話』では、〈道を明にして功を計らず、義を正して利を計らずとこそ云へ、君に事へて遇はざる時は、諫死するも可なり。幽囚するも可なり、饑餓するも可也。是等の事に遇へば其身は功業も名誉も無き如くなれども、人臣の道を失わず、永く後世の模範となり、必ず其風を観感して興起する者あり。遂には其國風一定して、賢愚貴賤なべて節義を崇尚する如くなるなり〉と語られています。つまり、「(道、義)>(勝(功)、利、命、名)」という関係が語られているのです。松陰の『士規七則』においても、〈士の道は義より大なるはなし。義は勇に因りて行はれ、勇は義に因りて長ず〉とあり、義の重要性が記されています。
 義と利の関係は、公と私という関係と密接に結びついています。『山鹿語類』では、〈私を去て正大公道ならん事を専とするは義にして、私を立て身の欲を全くすることは利也〉とあります。「道⇔義」という関係に加え、「義⇔公」および「利⇔私」という関係が成り立っています。また、〈義は必ず他人の間にあることにして、なしても為さずとものことあるを、我心の内に顧みて、久しく恥かしき所あるを改め正す、是義也、内に愧る所あれども、富分の利用を専として其利に従が故に、義を欠くになれる也〉とあります。恥は、義と利の間に関わり、「義>恥>利」という関係を示しています。
 貝原益軒の『大和俗訓』においても、〈善を行ふに、その心に義と利とのわかちあり。義とは我が行ふべき公の理なり。私なくして我が為にせざるなり。わが身のためにするは義にあらず。利とはわが身のためにする私の心なり。公ならざるをいふ。萬づの事を行ふに、まづ義か不義かをかへりみて、義にしたがひ行ふべし。その行ふこと善なりとも、その心義にしたがはずして、わが身の利分のためにせば、是れ私なり〉とあります。「義⇔公」および「利⇔私」という関係が、ここでも言及されています。
 これらの式の中でも、道は最上位に位置しています。西郷隆盛の『南洲翁遺訓』では、〈命もいらず、名もいらず官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり〉とあり、また〈道を行うものは、天下挙ってこれを毀るも足らざるとせず、天下挙って誉むるも足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故なり〉とあります。そこから、「道>(命、名、利(金))」という関係式が成り立ちます。
 また、大東亜戦争においては、陸軍大臣である阿南惟幾の豪北時代の日誌[十九年一月十二日]に、〈名ヲ惜シムノ言葉ガ、ヤヤモスレバ、武士道ヲ辱シメザルコト、道ニ違ハザルコトヨリモ、名誉ニコダハル憾ナカリシカ。名モ命モ惜マズ一途君国ニ殉ズル無垢清浄ノ心コソ大切ナレ。唯一誠奉公ニ帰ス〉と記されています。終戦直後の阿南は、命を捨てる覚悟の上に、名を捨てる覚悟も為していたことが分かります。ここには、「道>(名、命)」という関係が示されています。
 以上から、武士の道の上に示された関係式をまとめると、次のように定式化できます。

15_13.bmp  [図15-13] 武士道の式

 

 

第五節 武士道の死
 武士道は、神道・仏道・儒道の三道から影響を受けて成立しました。神道からは潔さを、仏道からは諦めを、儒道からは覚悟を、それぞれ継承しています。それらは、死への潔さ、死への諦め、死への覚悟として結実しています。そのため、武士道には、死の思想があります。
 武士道における死の思想を、武士道関連書からまとめると、以下のような関係を示すことができます。 

15_14_kai.bmp

 [図15-14] 武士道における死

 


 第一項 死心
 まずは「死心」です。「死心」とは、常に死を心掛けることを言います。
 大道寺友山の『武道初心集』には、〈武士たらんものは正月元旦の朝雑煮の餅を祝うとて箸を取初るより其年の大晦日の夕に至る迄日々夜々死を常に心にあつるを以本意の第一とは仕るにて候〉とあります。
 『山鹿語録』には、〈能く勤めて命を安んずるは大丈夫の心也。されば疋夫は死を常に心にあてて物をつとめ、つとめて命を安んずるにあり〉とあります。
 このように、死を常に心掛けるのが、武士の道における死心なのです。


 第二項 死習
 次に「死習」です。「死習」とは、死を習うことで、つまり死を想像することで死に慣れ、死への恐れを克服することを言います。
 鈴木正三の『驢鞍橋』では、〈萬事を打置て、唯死に習わるべし。常に死習つて、死の隙を明、誠に死する時、驚ぬやうにすべし〉とあります。その方法は、〈只土に成て、念佛を以て死習わるべし〉とあります。土に帰ることを想い、念仏をもって死に慣れるのです。
 山本常朝の『葉隠』では、〈武道は毎朝まいあさ死習ひ、彼に付、是に付、死ては見みして切れ切て置一也。尤大義にてはあれ共、すれば成事也。すまじきことにてはなし〉とあります。毎朝死を想い、死に慣れるのです。それが、死を習うということだというのです。
 このように、死を想い、死に慣れ親しむのです。それが、武士の道における死習ということなのです。

 

 第三項 死狂
 次は「死狂」です。「死狂」とは、生か死かを問う選択の場面において、死への突入を奨める思想のことです。
 「死狂」は、山本常朝の『葉隠』において示される思想です。〈武士道と云は、死ぬ事と見付たり。二つふたつの場にて、早く死方に片付ばかり也〉とあり、生と死の二つに分かれる場面で、死の方を選び取れという思想です。ですから、〈無二無三に死狂ひするばかり也〉とあり、わき目もふらずに死を選べと言われます。そこでは、〈武士道は死狂ひ也。一人の殺害を数十人して仕かぬるもの也〉と語られています。そこにおいて、〈士道におゐては死狂ひ也。此内に忠・孝は自こもるべし〉とされています。そこでは、〈死狂に劣るべき謂(いわれ)なし〉と語られています。〈武士たる者は武勇に大高慢をなし、死狂ひの覚悟が肝要也〉というわけです。この覚悟は、〈何事にてもあれ、死狂ひは我一人と内心に覚悟仕(つかまつり)たる迄にて候〉と語られています。
 このように、生か死かを問う場面に備え、死ぬ覚悟を決めておくというのです。それが武士の道における死狂なのです。


 

 第四項 死身
 最後は「死身」です。「死身」とは、生きるという未練を捨て、死んだ身となって生きるということです。
 鈴木正三の『驢鞍橋』では、〈我は死がいやなに因て、生通にして死ぬ身と成たさに修行はする也〉と語られています。死は嫌なものであるからこそ、生を通じて死ぬ身となっておくのです。そのために修行するのです。ですから、〈常住死で居也〉と語られているのです。
 山本常朝の『葉隠』では、〈毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく家職を仕(し)課(おお)すべき也〉とあります。常に死と一つになり切っている時は、武道に自在な境地を得ることができ、定められた職務を全うできると言うのです。また、〈常住死打の仕組に打部り、得と死身に成切て、奉公も勤、武篇も仕候はゞ、恥辱あるまじく候〉ともあります。心構えを決めて少しも動ずることなく、死と一つになれたなら、奉公も武道も恥じることなく行うことが出来るというのです。
 このように、生という未練を諦め、死んだ身となって動ずることなく何事にも望むというのです。それが武士の道における死身ということなのです。


 

 第五項 至誠
 武士道における死の思想を見てみると、誠という言葉が関わっているのが分かります。
 「誠」とは、接尾語の「真(ま)」に、言葉や事柄を示す「言・事(こと)」を合わせた言葉です。嘘や偽りでないこと、本当であること、本物であることを意味しています。
 『正法眼蔵随聞記』には、〈只、誠の道理を存ずべき也〉とあります。
 山鹿素行(1622~1685)の『聖教要録』には、〈已むことを得ざる、これを誠と謂ふ。純一にして雑はらず、古今上下易ふべからざるなり〉とあります。
 伊藤仁斎(1627~1705)の『語孟字義』には、〈誠は、実なり〉とあります。
 山本常朝(1659~1719)の『葉隠』には、〈常住死人に成たるを、誠の道に叶ひたると云也〉という文章が見られます。死の思想は、誠の道へと導かれるのです。
 荻生徂徠(1666~1728)の『弁名』には、〈誠なる者は、中心より発して、思慮勉強を待たざる者を謂ふなり〉とあります。
 農民から武士となった二宮尊徳(1787?1856)は、『二宮翁夜話』において〈我が道は至誠と実行のみ〉と語っています。
 勝海舟(1823~1899)の『氷川清話』には、〈男児世に処する、たゞ誠意正心をもつて現在に応ずるだけの事さ。あてにもならない後世の歴史が、狂といはうが、賊といはうが、そんな事は構ふものか。要するに、処世の秘訣は誠の一字だ〉とあります。
 西郷隆盛(1828~1877)の『南洲翁遺訓』には、〈事大小となく、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用うべからず〉とあります。
 そして、死の思想を考える上で、吉田松陰の誠の思想を外すことはできません。安政六年の『書簡』から、吉田松陰の死に対する考え方と誠の関わりを見ていきます。
 まずは死に対して、〈死を求めもせず、死を辞しもせず、獄に在ては獄で出来る事をする、獄を出ては出て出来る事をする。時は云はず勢は云はず、出来る事をして行当つれば、又獄になりと首の座になりと行く所に行く〉という立場を取っています。
 この立場に立つ松陰は、〈然共よく思て見よ、自ら死ぬ事の出来ぬ男が決て人を死なす事は出来ぬぞ〉と考えています。その上で、死すべし順位を、〈是れ今日宜しく幕府の為めに死すべし。一なり〉、〈是れ今日宜しく吾が公の為めに死すべし。二なり〉、〈是れ今日宜しく天子の為めに死すべし。三なり〉と並べています。〈三つの宜しく死すべきありて死す。死すとも朽ちず。亦何ぞ惜しまん〉と松陰は述べています。
 死の間際における書簡では、〈吾れの将に去らんとするや、子遠吾れに贈るに死の字を以てす。吾れ之れに復するに誠の字を以てす〉とあります。入江杉蔵(子遠)が師である松陰に死の字を贈ったときに、松陰はそれに誠の字をもって応えたのです。死の思想は、誠の思想と繋がっていることが分かります。

 


第六節 道義
 以上から、道の型が明らかになりました。
 道の思想方は、道筋・求道・修道・道理・道徳の間で、秩序だった仁と愛の調和を築いています。そこで、後は、道を歩み義へ向かうだけです。道が義に達するには、武士道の高みが必要となります。
 親鸞(1173~1262)の『正像末浄土和讃』には、〈つねに自然(じねん)をさたせば義なきを義とすといふことはなを義のあるべし〉とあります。ここでの義は、計らいや理由を意味しています。別に自分で計らいのないことが、本当の計らいになるというのです。親鸞が法然(1133~1212)から聞いた言葉で、晩年の作品に多く見ることができます。
 近松門左衛門(1653~1724)の『国性爺合戦』には、〈小國なれども日本は男も女も義は捨てず〉とあります。
 本多忠勝(1548~1610)について述べた『本多平八郎書』によると、〈武士たるものは道にうとくしてはならず、道義を第一心懸べし〉とあります。武士道には、道義があるというのです。
 大道寺友山(1639―1730)の『武道初心集』では、〈武士たらんものは義不義の二つをとくと其心に得徳仕り専ら義をつとめて不義の行跡をつゝしむべきとさへ覺悟仕り候へば武士道は立申にて候。義不義と申は善悪の二つにして義は即善不義は即悪也〉とあります。ここでは、義と善が同じものとして語られています。
 『百姓分量記』にも、〈道を論じて善に就を互に義理とす。是則天の理・人の義也〉とあります。道において、善が義理へと繋がっています。
 義と善の微妙な相違については、貝原益軒(1630~1714)が『大和俗訓』で述べています。〈萬づの事を行ふに、まづ義か不義かをかへりみて、義にしたがひ行ふべし。その行ふこと善なりとも、その心義にしたがはずして、わが身の利分のためにせば、是れ私なり〉とあります。ここでは、私(わたくし)の利益のために行うならば、それは善ではあっても義ではないとされています。私(わたくし)の利益に反しても、善を行うならば、それが義となるのだと語られています。
 沢庵(1573~1645)の『玲瓏集』においても、〈欲念を離れて岩木の如くにては、万事を作す事ならざる也、欲をはなれすして、無欲の義に叶ふは道也〉とあります。欲望を離れるといっても、岩や木のようになってしまえば何もできません。欲をただ離れるのではなく、義に叶うために無欲になるのが道だとされているのです。
 林子平(1738?1793)の『学則』には、〈義は勇の相手にして裁断の心なり。道理に任せて決定し猶ほ予せざる心をいふなり、死すべき場にて死し討つべき場にて討つ事なり〉とあります。義は勇において、死に向き合います。
 義に適うか、否か。武士道を行くならば、それが問われます。日本の道における義は、道義です。佐藤一斉(1772~1859)の『言志耋録』には、〈義は宜なり。道義を以て本と為す。物に接するの義有り。時に臨むの義有り。常を守るの義有り。変に応ずるの義有り。之を統ぶる者は道義なり〉とあります。義が宜しくなるためには、道義が必要なのです。
 西郷隆盛(1828~1877)の『南洲翁遺訓』には、〈国事に及びし時、慨然として申されけるは、国の凌辱せらるるに当りては、縦令国を以て斃るるとも正道を践み、義を尽すは政府の本務なり〉とあります。
 日本の道の思想では、道義というものを想定しておかなければ、道の調和が崩れます。どのような道においても、義に達せずとも、義が仄見えて来なければなりません。道には、義がどうしても必要だからです。もちろん、より高い位置には、道義へと達する武士道があります。義を意識することで、道を行くことができるのです。そこにおいて、一欠片でも道義心が有るか否かが問われます。

 

 

 

 

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