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『日本式 正道論:最終章 一欠片の道義心』

【目次】
第一節 道の跡
第二節 道の残日
第三節 道の残照
第四節 道の残影
あとがき 道連れと道を行く


『最終章 一欠片の道義心(どうぎしん)』
 日本の道の伝統を追い、日本の道の思想を見て来ました。後は、一欠片でも道義心が有るか否かが問われます。


第一節 道の跡
 日本人は、日本史において、悲劇を生き、そして死んでいった人物に関心を寄せてきました。悲劇的英雄に情を寄せる判官贔屓の歴史が、日本史を貫いています。その足跡において、我々は日本における義を見出すことができます。そこで日本史において、日本人が関心を寄せた人物たちの歩んだ跡を見ていきます。
 まずは、日本武尊(やまとたけるのみこと)の名を挙げることができます。日本武尊は、日本神話における伝説上の英雄で、景行天皇の皇子です。『古事記』には、日本武尊の最期が示されています。武尊は、過酷な東征の帰途で、〈嬢子の 床の辺に 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや〉と詠い、死にます。宮簀姫(みやずひめ)のもとに草薙の剣を預けたため、剣の加護を失い死に至ったと解釈されています。
 続いては、『平家物語』です。『平家物語』には、無常観が語られ、多くの美しい悲劇が示されています。[木曽最期]では、今井兼平(?~1184)の見事な自害が語られています。今井兼平は、平安末期の武将で木曾義仲(1154~1184)の部下です。兼平は、木曾義仲が討ち取られたことを知ると、〈「今は誰をかばはむとてかいくさをもすべき、これを見給へ、東国の殿原、日本一の剛の者の自害する手本」とて、太刀のさきを口にふくみ、馬よりさかさまにとび落ち、つらぬか(ッ)てそうせにける〉と自害します。まさに、日本一の剛の者の自害です。
 [敦盛最期]では、一ノ谷の戦いで、熊谷次郎直実(1141~1208)が平敦盛(1169~1184)を討った話が語られています。生年十七の敦盛が〈「ただとくとく頸をとれ」〉と言い、熊谷が〈「あはれ、弓矢とる身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生れずは、何とてかかるうき目をばみるべき。なさけなうもうち奉るものかな」〉と言って首を切り取ります。その後、熊谷は仏門に入ります。
 [内侍所都入]では、平安末期の武将である平知盛(1152~1185)の自害が語られています。知盛は壇ノ浦の合戦で平氏滅亡の様を見届けた後、〈「見るべき程の事は見つ。いまは自害せん」〉と言い、海へ身を投げました。
 そして、判官贔屓といえば源義経(1159~1189)です。源義経は、平安末期・鎌倉初期の武将です。兄である源頼朝の挙兵に応じて木曾義仲を討ち、平氏を滅亡させました。しかし、後に頼朝と不和になり、反逆を企てましたが失敗し、奥州に逃れます。『平家物語』の[判官都落]では、〈判官頸共きりかけて、戦神にまつり、「門出よし」と悦(ン)で、大物の浦より船に乗(ッ)て下られけるが、折節西の風はげしくふき、住吉の浦にうちあげられて、吉野の奥にぞこもりける〉と舞台から姿を消します。そして語り部は、〈去二日は義経が申しうくる旨にまかせて、頼朝をそむくべきよし、庁の御下文をなされ、同八日は頼朝卿の申状によ(ッ)て、義経追討の院宣を下さる。朝にかはり夕に変ずる、世間の不定こそ哀れなれ〉と、世の不条理を奏でます。『義経記』によると、義経は頼朝方の圧迫に耐えかねた藤原泰衡に襲われ、〈「早々宿所に火をかけよ。敵の近付く」とばかりを最期の言葉にてこと切れ果てさせ給ひけり〉という最期を遂げています。
 『太平記』には、楠木正成(1294~1336)の最期が語られています。楠木正成は、後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐計画に応じて奮戦した南北朝時代の武将です。湊川で足利尊氏の軍に敗れて自害しました。その時、弟である楠木正季(?~1336)と有名な会話を交わしています。正季が〈「ただ七生までも同じ人間に生れて、朝敵を亡ぼさばやとこそ存じ候へ」〉と言い、正成が〈「罪業深き悪念なれども、我も左様に思ふなり。いざされば、同じく生を替へて、この本懐を遂げん」〉と応えて共に自害しています。
 忠臣蔵で有名な赤穂浪士の大石内蔵助良雄(1659~1703)は、浅野長矩の家老です。同志とともに吉良邸に討ち入り、主君の仇を討ち、切腹しました。その際に、〈極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人〉という辞世の句を残しています。それとは別に、大石内蔵助良雄の墓に託された句は、〈あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし〉です。
 大塩平八郎(1793~1837)は、江戸後期の陽明学者です。飢饉に際して奉行所に救済を請いましたが容れられず、蔵書を売って窮民を救いました。翌年、幕政を批判して大坂で兵を挙げましたが、敗れて自殺しました。その際の檄文には、〈去りながら此度の一挙は、日本では平将門、明智光秀、漢土では劉裕、朱全忠の謀反に類してゐると申すのも是非のある道理ではあるが、我等一同心中に天下国家をねらひ盗まうとする欲念より起した事ではない、それは日月星辰の神鑑もある事、詰るところは湯武、漢高祖、明太祖が民を弔ひ君を誅し、天誅を執行したその誠以外の何者でもないのである。若し疑はしく思ふなら我等の所業の終始を人々は眼を開いて看視せよ〉とあります。
 明治維新に伴う王政復古の直後には、堺事件が起こりました。1868 年(慶応 4)に和泉国堺で起きた、フランス水兵殺害の責を負って土佐藩士が切腹した事件です。当時の国力差から、日本側は無念極まりない要求を受け入れました。切腹に赴いた土佐藩士たちは、美しい辞世の句を残しています。

  風に散る露となる身は厭はねど 心にかかる国の行末
  我もまた神の御国の種ならば、猶いさぎよき今日の思ひ出
  皇国の御為となりて身命を 捨つるいまはの胸の涼しき
  かけまくも君の御為と一すぢに 思ひ迷はぬ敷島の道
  塵(ちり)泥(ひじ)のよしかかるとも武士(もののふ)の 底の心は汲む人ぞ汲む
  人こころ曇りがちなる世の中に 浄き心の道ひらきせん
  身命はかくなるものと打捨てて とどめほしきは名のみなりけり
  時ありて咲きちるとても桜花 何か惜しまん大和魂
  魂をここにとどめて日の本の 猛き心を四方に示さむ

 幕末には、多くの志士たちが死へと誘(いざな)われていきました。
 吉田松陰(1830~1859)は、長州藩士で幕末の尊王論者です。安政の大獄で刑死します。その際に、〈身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂〉という辞世の句を残しています。
 会津藩(あいづはん)は陸奥国(後の岩代国)会津郡、現在の福島県西部を治めた藩です。戊辰戦争が勃発した際に、会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、先帝より授かった御宸翰があったにも関らず、新政府軍により朝敵とされました。会津藩の白虎隊の悲劇は有名です。白虎隊は、戊辰戦争時に会津藩が十六、七歳の藩士子弟によって組織された少年決死隊です。新政府軍との戦いに敗れて飯盛山まで後退したとき、若松城の方角に黒煙のあがるのを見て落城と思い誤り、二十人が自刃しました。会津藩の家老・西郷頼母(1830~1903)の妻である西郷千恵子は、〈なよたけの 風にまかする 身ながらも たわまぬ節は ありとこそ聞け〉という辞世の句を残し、会津藩の婦女子・中島竹子は、〈もののふの 猛き心に うらぶれば 数にも入らぬ わが身ながらも〉という句を残しています。
 西郷隆盛(1828~1877)は、薩摩の武士で倒幕の指導者です。薩長同盟・戊辰戦争を遂行し、維新の三傑の一人と称されました。西南戦争に敗れ、城山で自害しています。『南洲翁遺訓』では、〈正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かるべからず、彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順するときは、軽侮を招き、好親却って破れ、終に彼の制を受くるに至らん〉と記されています。また、〈国の凌辱せらるるに当りては、縦令国を以て斃るるとも正道を践み、義を尽すは政府の本務なり〉ともあります。
 福沢諭吉(1835~1901)は『瘠我慢の説』で、幕府軍の最期について述べています。次の一連の文章は、日本史上屈指の名文だと思われます。

 伝え聞く、箱館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)開城(かいじょう)のとき、総督(そうとく)榎本氏より部下に内意を伝えて共に降参せんことを勧告(かんこく)せしに、一部分の人はこれを聞(きい)て大(おおい)に怒り、元来今回の挙(きょ)は戦勝を期したるにあらず、ただ武門の習(ならい)として一死以(もっ)て二百五十年の恩に報(むくい)るのみ、総督もし生を欲せば出でて降参せよ、我等(われら)は我等の武士道に斃(たお)れんのみとて憤戦(ふんせん)止(とど)まらず、その中には父子諸共(もろとも)に切死(きりじに)したる人もありしという。

 明治維新を通して、日本は激動の時代を駆け抜けます。日清戦争・日露戦争と戦争の時代が続きます。
 乃木希典(1849~1912)は、日露戦争で旅順を攻略した陸軍大将です。明治天皇の死に際し、妻とともに殉死しました。辞世の句には、〈神あがり あがりましぬる 大君の みあとはるかに をろがみまつる〉と、〈うつし世を 神さりましゝ 大君の みあとしたひて 我はゆくなり〉があります。妻である乃木静子(1859~1912)の辞世の句は、〈出でまして かへります日の なしと聞く けふの御幸に 逢うぞ悲しき〉とあります。
 以上のように、日本史には、非業の死を遂げながらも義に殉じ、道を示した人たちが居ました。明治維新による急激な変化は、日本人から、日本の道の真髄を殺いでいきました。しかし、その激動の中にも、日本の道は、日本の魂は残り続けました。日本人は、偉大な敗者の死を見届け、そこに敬意を表すのです。そしてその果てに、大東亜戦争が日本史と人類史の上に刻まれます。


第二節 道の残日
 大東亜戦争とは、第二次大戦のうち、アジア・太平洋地域で行われた、日本と、米国・英国・オランダ・中国などで構成された連合国との戦争のことです。それは、勝算の見込める戦いではありませんでした。それでも日本人は戦ったのです。大東亜戦争において、日本人は何を想い、如何にして戦ったのでしょうか。圧倒的な戦力差によって沈み行く日本の道は、それでも残日の輝きを発しています。
 靖国神社では、社頭に掲示された英霊の遺書や書簡が『英霊の言乃葉』としてまとめられ、刊行されています。中には、特攻隊員の遺書も残されています。特攻とは、日本軍の特別攻撃隊に冠した名称で、日本陸海軍が体当たり戦法のために特別に編制した部隊です。残された遺書や書簡を読むとき、そこには先人たちの想いが記されています。『英霊の言乃葉』から、先人たちの想いを見ていきます。
 元帥海軍大将である山本五十六(享年五十九)は、真珠湾攻撃・ミッドウェー海戦を指揮したことで有名です。〈益良雄の ゆくとひ道を ゆききはめ わが若人ら つひにかへらず〉という句を残しています。この句で詠われているように、生還を期すことなく死へと向き合った若人たちがいました。
 古川正崇(享年二十四)海軍少佐(神風特別攻撃隊振天隊)は、『死の覚悟』と題して〈求道〉について述べています。〈子供の無邪気さ、それは知らない無邪気さである。哲人の無邪気さ、それは悟り切つた無邪気さである。そして道を求める者は悩んでゐる。死ぬ為に指揮所から出て行く搭乗員、それは実際神の無邪気さである〉と語られています。
 岡部平一(享年二十二)海軍大尉は、『ああ同期の桜 特攻隊員の手記』において、〈死ぬる為の訓練が待つてゐる。美しく死ぬる為の猛特訓が〉と述べています。その覚悟の上で、〈われらは常に偉大な祖国、美しい故郷、強い日本女性、美しい友情のみ存在する日本を、理想の中に堅持して敵艦に粉砕する。今日の務は何ぞ、戦ふことなり。明日の務は何ぞ、勝つことなり。すべての日の務は何ぞ、死ぬことなり〉と述べています。
 若麻績隆(享年二十三)海軍大尉(神風特別攻撃隊第十八幡護皇隊)は、『武名に非ず』において、〈國なくして何の人間ぞ、人間として生活は國家故にである〉と述べています。
 板倉震(享年二十二)陸軍大尉(陸軍特別攻撃隊第一○三振武隊)は、『絶筆 特攻出撃に際し』と題し、〈私は必ず艦船を轟沈させます。敵艦を沈めなくとも身命を賭して最善の努力を尽せばよいのです。現在の私には生も死もありません。あるものは只皇国の安泰のみです〉と述べています。
 ああ、彼等の人生のなんと短く、美しく、そして尊いことでしょうか。彼らの置かれた状況と、その状況に向かい合った彼らの精神は、想像を絶します。彼等と、現代の我等の、この比べることすらおこがましいほどの隔たり。この圧倒的な違い。人間という種の精神における、文字通りの、桁違いな差。
 飯沼孟(享年二十四)海軍大尉(神風特別攻撃隊第二魁隊)は、『今朝、特別攻撃隊の申渡しあり』において、〈―――人生五十年、その半分の二十五年を無事に生き抜いたことを思へば不思議なくらゐだ。子供の頃が思ひ出される〉と述べています。
 相花信夫(享年二十)陸軍少尉(陸軍特攻第七十七振武隊)は、『母上、お許し下さい』と題し、〈人生五十年、自分は二十歳迄長生きしました。残りの三十年は父母上に半分づつさしあげます〉と述べています。
 人生五十年。この言葉は、幸若舞「敦盛」に見ることができます。織田信長(1534~1582)が、死ぬ間際に舞ったという伝説があります。人生わずか五十年。しかし、この時代の青年たちには、その五十年すら与えられてはいなかったのです。
 牧野おさむ[「卸」の左に「亥」が右](享年二十三)海軍大尉(神風特別攻撃隊第六神剣隊)は、出撃の前日に『人生二十年』と題して、〈御父上様、御母上様人生わづか五十年とは昔の人の言ふ言葉、今の世の我等二十年にしてすでに一生と言ひ、それ以上をオツリと言ふ。まして有三年も永生きせしはゼイタクの限りなり。いささかも惜しまず、笑つて南溟の果てに散る。また楽しからずや〉という言葉を残しています。
 人生二十年という時代があったのです。そして、それ以上をオツリといい、二十三まで生きたことをゼイタクと言う、そのような精神が、かつて、あったのです。
 この言葉を前にして、果てして、どのような態度が取れるのでしょうか。
 何も感じずに通り過ぎるのでしょうか。
 そんな時代に生まれなくてよかったと安堵するのでしょうか。
 涙を流し、少し感傷に浸ってから日々の暮らしに戻るのでしょうか。
 それとも.........。


第三節 道の残照
 大東亜戦争において、日本の道が、その魂が咆哮します。そして、大東亜戦争の敗戦時、日本の道は、敗戦という暗闇において、残照の輝きを残しています。
 敗戦後、自決した日本人がいました。その数、少なくとも599柱。その記録は、『改訂版 世紀の自決』という本にまとめられています。この自決者たちを称え、数学者の岡潔(1901~1978)は〈貴方がたは最早や戦争が済んだと云う時に自殺出来ますか、何と云う崇高さであろう。私は再び解脱した人の行為を見せて貰ったと云う気がする〉という言葉を残しています。
 それでは、自決者の残した言葉を見ていきます。
 大西瀧治郎(享年五十四)海軍中尉は、〈特攻の英霊に曰す。善く戦いたり、深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。然れどもその信念は遂に達成し得ざるに到れり、吾死を以て旧部下とその遺族に謝せんとす〉という言葉を遺書に残しています。特攻隊員に詫びるため、割腹自決に際しては敢えて介錯を付けず、医者の手当てを拒み、半日以上苦しんで死をむかえました。
 芳賀毅(享年二十九)陸軍主計曹長は、〈微なりと雖も身軍籍に在る者何を以てか罪を天下に謝せむ 唯一死あるのみ 後に続く者を信じ莞爾として征ける英霊よ 我を待て〉と残しピストル自決をしています。
 近藤巌(享年二十四)陸軍憲兵軍曹は、〈本日復員の命下り帰郷の余儀なきに至りました。真に無念に存じます。多くの戦友に先立たれ、軍人の本分を完ふせず、今更何んで帰られませう。巌の胸中お察し下され度。武人として、又自己の信念の大道を進むべく此処に死を決します。お許し下さい〉と言い残し、靖国神社の社頭にて自決しています。
 堀江正章(享年二十七)陸軍憲兵中佐は、〈小官の至らざるに拠り、敗戦の辱めを受け陛下に対し奉り申訳なし、慙愧に堪へず、死して御詫びす。もし靖章生ありせば五十年後に鬼畜米英を倒し必ず敵を打て〉と、当時一年六ヶ月の長男靖章に想いを託して自決しています。
 金原重夫(享年三十二)陸軍少尉は、〈今日はもとより日本男子の覚悟だった。僕は満足です。長い間、育てて頂き何の恩返しもなく孝養することも出来ず死んで行きます。只、国の為めに死んだことを孝行として下さい。それで満足して笑って死んで行く〉という遺書を残し、拳銃自決しています。
 銕尾隆(享年二十八)陸軍中佐は〈国家最大の悲局に際会し、種々考えてみましたが、小生としては玉憙と共に自決するのが最良の道であるとの不動の信念に到達しましたので潔く決行します〉という遺書を残し割腹しています。夫人である玉憙(享年二十三)も、〈夫を通じての御奉公、銕尾 武人として御奉公至らざりしを一死を以て御報いせんとの覚悟、私も妻としてこの身を捧げて銕尾の最期を見とどけ自決致します〉という遺書を残し拳銃自決しています。
 長瀬武海軍大尉も、夫人である外志子と共に自刃しています。武は〈有難き陛下の大御心、一点の疑もなし、涙もて排す、余りにも大君の恵多く幸福すぎし余の三十年、我が行くべき道は只一つあるのみなり、強がりにもあらず、余にとりて只一つの道なり、妻の一徹亦固きものあり。僅か二年の余の教育による妻の決意如何ともなし難し、御厚情を深謝す〉と言葉を残しています。外志子は〈佐世保にも敵が参ります。上陸致しましてからはどんな目にあわされるか判りません。貞操をやかましく言われ教育されて参りました私にはどうしても耐えてゆかれません。これが私の思いすごいでございましたらどんなに嬉しいでしょう。私は只それのみ念じて行きます〉と言い、〈今まで幸福に暮らして参りまして私はほんとに幸福だったと喜んでおります。嫁ぎましてから二年間も本当に幸福に暮らしました。今は決心どおり身を処しましても私は幸福な人間です〉という言葉を残しています。
 満州では、井上鶴美(享年二十六)陸軍看護婦、以下二十二名が満州の地で自決しています。〈二十二名の私たちが、自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ、婦長にもさぞかし御迷惑と深くおわび申上げます。私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死をえらびます。たとい生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の地に止り、日本が再びこの地に還って来る時、御案内致します。その意味からも、私どものなきがらは土葬にして、ここの満州の土にして下さい〉という遺書を残しています。
 この件に対し、同僚の元満赤看護婦長である堀喜身子の記録が残っています。その記録では、〈二十二名の若い日本の女性が死をもってした抗議は、ひどくソ連の人たちを驚かせたとみえ、その翌日、すぐさま、私ども日本人の宿舎にお布命がまわって来ました〉とあります。そのことに対し、〈これで少しはよいにちがいないが、そのために、私どもは余りにも大きすぎる代償を支払ったわけで、その犠牲となった二十二名の人たちが実に可哀そうでなりません。終戦後外人の腕にぶら下って歩いている女を見るにつけても、純情そのものの、このような女性も、また同じ日本人だと考えると、全日本の女性にその死を物語りたい衝動にかられるのです〉という言葉を残しています。
 自決した人たちの死は、どんな意味を持つのでしょうか。入院により戦力となれなかったことを恥じ、新子堅司(享年十八)陸軍生徒は敗戦時に割腹自決しました。その弟である新子文男が、〈ある者は言う。侵略戦争の走狗の死と。滔々たる濁流。その濁流に棲むものにどうして清流の心が分かろう〉という言葉を残しています。その言葉の重みを、考えてみるべきです。


第四節 道の残影
 大東亜戦争における敗戦、その時に煌いた自決者たちの精神。そして、その後に、日本には欺瞞と卑劣があふれました。生き抜くためには、それも止むを得なかったという面もあります。ただしそれは、止むを得なかったという想いを抱いている限りでのことです。戦前・戦中世代が世の中の趨勢を占めていたときにはまだ、この止むを得なかったという感覚が残っていました。生き残ってしまったことへの疚しさという感情が残っていました。
 しかし、大東亜戦争の記憶が薄れるとともに、日本の道の面影は消え去っていきました。戦前・戦中世代が退き、戦後世代が表舞台に出てくるにつれ、止むを得なかったという感覚や疚しさという感情が失われていきました。戦後世代は、前の世代を見捨て、裏切りました。そして、自分たちより前の世代を断罪し、自分たちは綺麗な人間だと振る舞い始めました。人間は、ここまで醜くなれるものなのです。
 人間が醜くなれることは、人類史がすでに数限りない実例を残しています。ですが、こうまで醜くなった人間を、日本人だと認めるわけにはいきません。ここで云う日本人とは、日本国の国制下に置かれた人々という意味ではありません。精神的な意味での日本人です。つまり、日本の歴史と伝統の上に立った、日本の思想を持った人々という意味です。儚く無常な世の中で、日本語の歌を詠い、道を行く者たちが、日本人なのです。その意味での日本人は、減少の一途をたどりました。
 三島由紀夫(1925?1970)の『反革命宣言』には、〈生死を賭けた闘いのあとに、判定を下すものは歴史であり、精神の価値であり、道義性である〉とあります。昭和45年(1970年)11月25日、三島は、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内で演説を行ったのち割腹自殺を行いました。その時の『檄文』には、〈生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ〉とあります。この自決をもってして、立ち上がることのなかった者たち。この時をもって、日本の道が、おそらく、日本列島に生息する人々からほとんど見えなくなってしまったのです。
 そして、十年と少し後、私が生まれました。
 道は、ほとんどわずかしか感じられませんでした。日本の道を意識し、道を志すことなくして、日本の道に触れることができなくなっていました。
 本居宣長(1730~1801)の『鈴屋答問録』には、〈まことの道は、いざなぎいざなみの神の始めたまひつる道にして、皇國に傳はれり〉とあります。この記述の前に、〈天照大御神の正道は、盛衰こそあれ、とこしなへに存して滅ぶることなし〉と示されています。
 私は、途切れかけた道を歩もうとしています。独り我々の道を往く。ただ、それだけのことです。その先は、道連れ次第です。
 独り、共に、我々の道を往く。独り、共に、日本の道を往く。


あとがき 道連れと道を行く
 『日本式 正道論』を読んでくれた皆さん、ありがとうございます。
 本書では、日本の道を思想として考えてきました。日本の道を図形によって示してきましたが、簡略化して一言でまとめると、次のように言うことができます。

 日本の道は、「イキカタ」のことである。

 「イキカタ」とは、行き方であり、それゆえ往き方のことです。これは生き方でもあり、それゆえ活き方でもあります。それは逝き方でもあり、それゆえ死に方のことでもあります。あるいは良き型や善き型であり、それゆえ粋型や意気型だとも言えるものです。
 日本の道は、素晴らしいものです。それが分かった今、私は、正しい道を歩めるとはとても言えないにしても、私が道を外れたとき、自分で自分を許せなくなる、その立ち位置には居ると言えると思うのです。
 蛇足ですが、私のことについて少し述べておきます。私自身は、一言でいうと、臆病な偽善者かつ偽悪者です。だらしなくて、いい加減で、性根が腐っていて、悪魔なんじゃないかと思うようなことを考えたり行ったりします。決して褒められた人間ではないですし、ばれたらまずいこともたくさん抱えています。ただし、一欠片だけ道義心を持っている、と思っている、そんな人間です。
 私は物心が付いた時から、この世界が怖くてたまりませんでした。この世界は、恐ろしい世界だったのです。私は、どうしようもなく怖がりでした。特に未知の存在に対する恐怖心は強かったので、今でも子供時代に戻りたいと思うことはありません。未知のものに対する恐怖は、未知が既知になることで薄らぐからです。
 もちろん、未知の存在が既知になったからといって、既知の知識が確実である保障はありません。ですが、その存在に対している時間が長いと、その存在に慣れるという側面もあります。慣れも、恐怖を和らげてくれます。
 知識を得ることと慣れることで、恐怖は薄らぎます。ただ、臆病者はそう簡単に直らないため、その振る舞いは偽善的であり、また、偽善者であることの後ろめたさから偽悪的にもなります。だから、私は臆病な偽善者かつ偽悪者なのです。
 そんな人間は、普通の人とは考えることが違っているのでしょうか。私自身は、普通であるということがどういうことか、常々考えてきましたが、そんなことを考える時点で普通とは言えないのだと思います。普通になろうとして、人から普通とは見なされない人物、それが私という人間です。それはそれで良いのですが、ただ、そのような人間は、どうも平均的な人とは違うことを、心に抱えているようなのです。
 私の人生を方向付けている大本は、大きく二つです。その内の一つが、日本の道なのです。ですから私は、日本の道の跡を追って行ったのです。なぜなら、ある特攻隊員の言葉にあるように、人生二十年という時代があったからです。そして、それ以上をオツリといい、二十三まで生きたことをゼイタクと言う、そのような精神が、かつて、あったからです。
 この言葉を前にして、果てして、どのような態度が取れるのでしょうか。つまり、この言葉を前にして、平均的な反応ではなく、普通の反応をするにはどうしたらよいのかを考えてみたのです。
 私は、彼等の精神の、せめて一欠片にでも触れなければ、私の人生に意義などありはしないと思いました。そこで私は、彼等を育んだ日本の伝統を、つまりは日本の道を行くことを決めたのです。その歩みはおぼつかないものではありましたが、何とか納得のいく形でまとめることができました。少なくとも、命を削って、魂を込めて書きました。この本は、そのような経緯の上で書かれた本なのです。自分自身が、何とかまともに生きて、そして死ぬために、どうしても書く必要があったのです。
 そのような本ですが、この本に少しでも同意してくださる方がいましたら、これほど嬉しいことはありません。なぜなら、「旅は道連れ世は情け」だと思うからです。

 

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