『日本式 正道論』第二章 神道

 神道は、天皇を祭祀とし、日本固有の神々を崇拝する信仰名です。日本土着の民族的な信仰を加えて広くとらえる場合もあります。無土器文化や縄文時代の信仰を基盤とし、稲作文化の伝来に伴って多様化した神々の神話を統合することによって誕生しました。それが神道であり、本居宣長が『古事記伝』で示した「物にゆく道」なのです。『鈴屋答問録』には、〈神道に教への書なきは、これ眞の道なる證(シルシ)也〉と語られています。

 神道では、自然も人間も神々から生まれたと考えられています。神道は、あらゆる万物自然は神々であるという八百万神を信仰する道です。神道は文字通りに「神の道」ですから、神道関連の書物には、「物にゆく道」としての「神の道」の伝統が展開されています。日本語の古語では、「道(ミチ)」の「ミ」は神のものにつく接頭語であり、「チ」は方向を意味しています。

 古代には、人の通路にあたる道には、それを領有する神や主がいると考えられていました。悪霊が侵入するのを防ぎ、通行人や村人を災難から守るために祭られる神を道祖神と呼びます。『万葉集』の〔巻第十七・四00九〕では、〈玉桙の道の神たち〉と、道祖神の存在が示されています。鴨長明(1155~1216)の『発心集』には、〈君の御ためにはたかき大神とあらはれ、民のためにはいやしき道祖神となり、知恵の前には本地をあらはし、邪見の家には仏法をいましめ給ふ〉とあります。君主のためには大神が現れ、人民のためには道祖神が現れるというのです。

 本章では、日本の神道における神の「道」の伝統を見ていきます。




第一節 日本書紀

 「神道」という言葉が日本史上で初めて登場するのは『日本書紀』(720)です。『日本書紀』は、日本国家における最初の歴史書であり、「神道」の文字を三箇所で見つけることができます。



① 天皇、仏法を信けたまひ神道を尊びたまふ。[巻第二十一 橘豊日天皇 用明天皇]

② 天万豊日天皇は、天豊財重日足姫天皇の同母弟なり。仏法を尊び、神道を(あなづ)りたまふ。[巻第二十五 天万豊日天皇 孝徳天皇]

③ 惟神は、神道に随ふを謂ふ。亦自づからに神道有るを謂ふ。 [巻第二十五 天万豊日天皇 孝徳天皇]

 ただし、最後の惟神は分注で、平安時代の竄入とする説や義注か訓注かの議論があります。ここでいう「神道」とは、日本において古くから伝えられて来た民族的風習としての宗教的信仰を指しています。




第二節 神皇正統記

 北畠親房(1293~1354)は、鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍した公卿です。著書である『神皇正統記』は、日本の神代から後村上天皇までを叙述した史書です。

 『神皇正統記』の〔神代〕では、〈唯我國ノミ天地ヒラケシ初ヨリ今ノ世ノ今日ニ至マデ、日嗣ヲウケ給コトヨコシマナラズ。一種姓ノ中ニヲキテモヲノヅカラ傍ヨリ傳給シスラ猶正ニカヘル道アリテゾタモチマシマシケル〉とあります。ただ我が国のみが天地開闢の初め以来今日に至るまで、天照大神の神意を受けて皇位の継承はすこしも乱れがなく、時として一種姓のなかで傍流に伝えられることがあっても、またおのずからに本流にもどって連綿と続いて来ていると語られています。

 [天津彦々火瓊々杵尊]においては、〈應神天皇ノ御代ヨリ儒書ヲヒロメラレ、聖徳太子ノ御代ヨリ、釈教ヲサカリニシ給シ、是皆権化ノ神聖ニマシマセバ、天照大神ノ御心ヲウケテ我國ノ道ヲヒロメフカクシ給ナルベシ〉とあります。天照大神から受け継がれてきた日本の道には、儒教や仏教も含まれていることが分かります。

 〔人徳〕では、〈天地アリ、君臣アリ。善悪ノ報影響ノ如シ。己ガ欲ヲステ、人ヲ利スルヲ先トシテ、境々ニ對スルコト、鏡ノ物ヲ照スガ如ク、明々トシテ迷ハザランヲ、マコトノ正道ト云ベキニヤ〉とあります。天あって地あり、君あって臣があるというのです。善悪の応報は影響として確実に現れるというのです。己の欲を捨て、人を利することを先とし、外物に対しては鏡が物を照らすように、清明で迷わぬ境地こそ、真の正道というべきだと語られています。

 〔嵯峨〕では、〈且ハ佛教ニカギラズ、儒・道ノ二教乃至モロモロノ道、イヤシキ藝マデモオコシモチヰルヲ聖代ト云ベキ也〉とあります。仏教にかぎらず、儒教・道教をはじめ様々の道、卑しい芸までも盛んにし、取り上げてこそ聖代と言えるというのです。ですから、〈サマザマナル道ヲモチヰテ、民ノウレヘヲヤスメ、ヲノヲノアラソヒナカラシメン事ヲ本トスベシ〉となります。さまざまの道を取り上げ、人民の困苦をなくし、お互いに争いごとのないようにするのが国を治める根本であるというわけです。また、〈一氣一心ニモトヅケ、五代五行ニヨリ相克・相生ヲシリ自モサトリ他ニモサトラシメン事、ヨロヅノ道其理一ナルベシ〉とあります。天地の根源たる一気一心にもとづき、五大(地・水・火・風・空)五行(木・火・土・金・水)が相互にかかわりあっている世の中の法則を解し、人にも悟らせることは、よろずの学芸すべてに通ずる道の理だとされています。

 〔後醍醐〕では、〈オヨソ政道ト云コトハ所々ニシルシハベレド、正直慈悲ヲ本トシテ決断ノ力アルベキ也〉とあり、政治の道では、正直や慈悲を根本として、決断力が大事だと説かれています。




第三節 唯一神道

 吉田兼倶(1435~1511)は、卜部兼倶ともいい、室町時代後期の神道家で、吉田神道(唯一神道)の創唱者です。

 吉田兼倶の『唯一神道名法要集』は、唯一神道の根本教理書です。その中で〈吾国開闢以来、唯一神道是れ也〉と述べられています。吾国開闢以来とは、日本国が始まって以来という意味です。

 道については、〈道トハ、一切万行の起源也。故ニ道ハ常ノ道ニ非ずト謂ふ〉と述べられています。ここで〈道ハ常ノ道ニ非ず〉という部分は、『老子』の冒頭で見られる言葉であり、老荘思想からの影響がうかがえます。

 兼倶は、吉田神道に儒教・仏教・老荘思想の要素を巧みに取り入れ、この神道こそが万教の根本であり、儒教・仏教は神道の分化であるとする説を唱えました。〈吾ガ日本ハ種子を生じ、震旦は枝葉ニ現はし、天竺は果実を開く。故ニ仏教は万法の果実たり。儒教は万法の枝葉たり。神道は万法の根本たり。彼の二教は皆是れ神道の分化也〉というわけです。震旦は中国で、天竺はインドのことです。この考え方は、三教枝葉果実説と呼ばれます。この説からも分かるように、兼倶の考えでは、日本国は神が基本とされています。そこで、〈国は是れ神国也。道は是れ神道也。国主は是れ神皇也。太祖は是れ天照大神也〉という基本原則が立てられています。




第四節 国学の系譜

 国学は、記紀(古事記、日本書紀)などの古記や古文献に新たな方法意識をもって対した学問的立場と、それに伴った思想運動をいいます。江戸中期に成立し、日本という自覚を巡る言説が展開されています。

 国学の代表者は、「国学の四大人」として荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤の名が挙げられます。この系譜の先駆者として契沖がいます。この五名の思想をたどることで、神道と国学における「道」の伝統を見ていきます。




 第一項 契沖

 契沖(1640~1701)は、真言宗の僧で、古典学者です。徳川光圀の依頼により、『万葉集』の注釈を執筆し、『万葉代匠記』を献上しました。その研究態度は、古書によって古書を証するという方針が貫かれていて、後の国学者たちに大きな影響を与えました。

 契沖は『万葉代匠記総釈』において、〈本朝ハ神国ナリ。故ニ史籍モ公事モ神ヲ先ニシ、人ヲ後ニセズト云事ナシ〉と述べています。神国とは、神意によって開かれた国のことで、日本の美称です。日本は神意によって開かれた国であることが述べられています。史籍とは、日本書紀以下の六国史などを指します。公事とは、神祇官が太政官に優先している管制などを指します。日本では、史籍も公事も、神が先で人が後なのだとされています。

 続いて、〈上古ニハ、唯神道ノミニテ天下ヲ治メ給ヘリ。然レドモ、淳朴ナル上ニ文字ナカリケレバ、只口ヅカラ伝ヘタルママニテ〉と述べられています。昔は神道のみで治まっていたことが述べられ、ただ文字がなかったので、口による伝承だけだったということが語られています。そこで注目すべきが、文字として残された『万葉集』になるのです。この『万葉代匠記総釈』の中では、「此道」として和歌の道が、「此集」として万葉集が捉えられています。『万葉集』の研究において、日本という自覚をうながした国学の伝統が始まります。




 第二項 荷田春満

 荷田春満(1669~1736)は、江戸時代前期の和学者にして神道家です。国学の先駆者の一人です。

 『創学校啓』では、〈痛ましいかな、後学の鹵莽(ろもう)、誰か能く古道の潰たるを嘆かん〉と語られています。鹵莽とは、軽卒、不用意で、事を為すに疎略であることを指します。後世が至らないために、古学の道が潰えないかと嘆いているのです。

 続いて、〈この故に異教彼の如くに盛に、街談巷議至らざるところなく、吾が道かくの如く衰へ、邪説暴行虚に乗じて入る〉と述べています。街談巷議とは、市中に行われている低級な論議のことで、いにしえの教えを知らない者のために、古学の道が衰えていることを憂いています。虚とは、古学の行われぬ隙のことで、その隙に乗じて虚言や暴言が幅をきかせているということです。

 そこで、〈臣が愚衷を憐み、業を国学に創め、世の倒行を鑑みて、統を万世に垂れためへ〉と述べられています。愚衷とは、自分の真心をへりくだっていう語で、臣下として対策を提言しています。〈統を万世に垂れためへ〉とは、万世の後まで子孫が継承すべききっかけを残すことです。そのためには、世間で間違って行われていることを考慮して、国学を創るということが必要なのだと語られています。




 第三項 賀茂真淵

 賀茂真淵(1697~1769)は、江戸中期の国学者です。荷田春満に入門し、荷田門の有力和学者として活動を行いました。晩年までに、『文意』・『歌意』・『国意』・『語意』・『書意』の五意が著され、真淵学が成立します。

 『歌意考』では、〈なほく清き千代の古道には、行立がてになむある〉と、唐土の思考や文化にゆがめられていない日本古来のもののよさを正しく伝える道が語られています。〈皇神の道の、一の筋を崇むにつけて、千五百代も、やすらにをさまれる、いにしへの心をも、こころにふかく得つべし〉とあり、日本では天照大神以来の道を一筋に崇めることで、長い間、心安らかに治まったのだと語られています。ですから、古道の心を深く自得すべきだとされています。

 『国意考』では、〈凡世の中は、あら山、荒野の有か、自ら道の出来るがごとく、ここも自ら、神代の道のひろごりて、おのづから、国につきたる道のさかえは、皇いよいよさかえまさんものを、かへすがへす、儒の道こそ、其国をみだすのみ、ここをさへかくなし侍りぬ〉とあります。荒山や荒野におのずから道が出来るように、日本にも神代の道がおのずから広がって国が栄えていることが語られています。ですが、儒教は国を乱し、日本の繁栄を乱してしまうと述べられています。

 さらに、〈唐国の学びは、其始人の心もて、作れるものなれば、けたにたばかり有て、心得安しと〉あります。儒教は人の心が作るものなので角張っていて理屈っぽいことばかりなので心得るのは簡単だとされています。ですが、〈我すべら御国の、古への道は、天地のまにまに丸く平らかにして、人の心詞に、いひつくしがたければ、後の人、知えがたし〉と、日本の古道は天地のままに丸く平らで言葉に言い尽くすのが難しいため、後世の人には概念としてとらえにくいのだと語られています。

 ですが、〈されば古への道、皆絶たるにやといふべけれど、天地の絶ぬ限りは、たゆることなし〉ともあります。日本の古学が知りにくいものなら絶えてしまいそうですが、天地の終わらない限り、絶えることはないのだと語られているのです。




 第四項 本居宣長

 本居宣長(1730~1801)は、江戸時代中期の国学者です。京都に出て医学を勉強する一方、源氏物語などを研究しています。34歳のとき、「松坂の一夜」として知られる賀茂真淵との歴史的な出会いをします。真淵の手引きで、宣長は『古事記』の注釈作業を開始し、国学史上最大の業績『古事記伝』を著します。

 本居宣長の著書である『直毘霊』、『玉勝間』、『うひ山ぶみ』では道について詳細に言及されています。これらの著作から、道の記述を見ていきます。




  『直毘霊』

 本居宣長が41歳のときの作品である『直毘霊』において、神の道が語られています。〈神の道に随ふとは、天の下治め給ふ御行為は、ただ神代より有りこしまにまに物し給ひて、いささかも賢しらを加へ給ふことなきをいふ。さて、然神代のまにまに大らかに治ろしめせば、おのづから神の道は足らひて、他に求むべきことなきを、「自づから神の道有り」とはいふなりけり〉とあります。人の小賢しい浅知識の交わらない、神代から続く大らかな、おのずからの神の道で十分だと言うのです。

 ですが、『古事記』について、〈古の大御世には、道といふ言挙げもさらになかりき。故れ、古言に、葦原の瑞穂の国は、神ながら言挙げせぬ国といへり。其はただ物にゆく道こそ有りけれ。美知とは、此の記に味し御路と書ける如く、山路野路などの路に、御てふ言を添へたるにて、ただ物に行く路ぞ。此をおきては、上つ代に、道といふものはなかりしぞかし〉とあるように、日本の古代には道を特別視する見方は希薄でした。それは、〈かの異し国の名に倣ひていはば、是ぞ上もなき優れたる大き道にして、実は道あるが故に道てふ言なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり〉とあり、秩序が実現されていたが故に、道を道々しく説くことがなかったというのです。

 では何故、わざわざ言う必要のなかった道を、道として述べる必要が出てきたのでしょうか。それは、〈然るを、やや降りて、書籍といふ物渡り参ゐ来て、其を学び読む事始まりて後、其の国の手風をならひて、やや万づのうへに交へ用ゐらるる御代になりてぞ、大御国の古の大御手風をば、取り別けて神の道とは名づけられたりける。そは、かの外つ国の道々に紛ふがゆゑに、神といひ、また、かの名を借りて、ここにも道とはいふなりけり〉というわけです。つまり、海外からの書籍に習い、古の神々の御代を神の道と名付けたのです。

 その神の道に対し、どう接するのかというと、〈故れ、古語にも、当代の天皇をしも神と申して、実に神にし座しませば、善き悪しき御うへの、論ひをすてて、ひたぶるに畏み敬ひ奉仕ふぞ、まことの道にはありける〉と、善悪に関わらず、ひたすらに神の道に従うことがまことの道だと説かれています。これは一見すると暴論のようですが、中国の王道が覇道に転落した歴史を鑑みると、この皇道にも大きな知恵が含まれていることが分かります。天皇の権威により、歴史の連続性を保つことができるからです。

 この日本の神の道は、〈そも、此の道は、いかなる道ぞと尋ぬるに、天地のおのづからなる道にもあらず。是をよく弁別へて、かの漢国の老荘などが見と、ひとつにな思ひ紛へぞ。人の作れる道にもあらず。此の道はしも、可畏きや高御産巣日の神の御霊によりて、世の中にあらゆる事も物も、皆悉に此の大神の御霊より成れり。神祖伊邪那岐の大神・伊邪那美の大神の始め給ひて、世の中にあらゆる事も物も、此の二柱の大神より始まれり。天照大神の受け給ひ、保ち給ひ、伝へ給ふ道なり。故れ、是を以て神の道とは申すぞかし〉と語られています。神の道は、天地自然の道でもなく、老荘思想の道でもなく、人の作った道でもないのです。神の道は、日本の神々によって現れ始まった道なのです。天照大神により受け継ぎ、保ち、伝え行く道なのです。

 この神の道は、〈其の道の意は、此の記を始め、もろもろの古書どもをよく味はひみれば、今もいとよく知らるるを〉と述べられ、『古事記』や『日本書紀』などの古書を見れば分かる道だとされています。

 そこでは、臣下が天皇の道に従うことが説かれます。〈あな可畏、天皇の天の下治ろしめす道を、下が下として、己が私の物とせむことよ〉と、私心が否定されています。〈下なる者は、かにもかくにもただ上の御趣けに従ひ居るこそ、道には叶へれ〉とあり、私心ではなく道に従うことが諭されているのです。〈貴き賤しき隔ては、うるはしくありて、おのづからみだりならざりけり。これぞこの神祖の定め給へる、正しき真の道なりける〉というわけで、貴賤は麗しく、おのずからあるのです。貴賤が麗しくあるということから、貴賤が単なる階級意識なのではなく、神々への信仰を基にした概念であることがわかります。

 その神髄は、〈程々にあるべき限りのわざをして、(おだ)ひしく楽しく世を渡らふほかなかりしかば、今はた其の道といひて、(こと)に教へを受けて、行ふべきわざはありなむや〉と表現されています。程々にあるべき限りを尽くして、穏やかに楽しく世を渡ればよいのだとされています。それが、日本の道なのだというのです。




  『玉勝間』

 本居宣長が63歳のときの作品である『玉勝間』においても道が語られています。

 まずは学問にて道を知ることについて、〈がくもんして道をしらむとならば、まづ漢意をきよくのぞきさるべし、から意の清くのぞこらぬほどは、いかに古書をよみても考へても、古の意はしりがたく、古のこころをしらでは、道はしりがたきわざになむ有ける〉とあります。中国的なものの考え方を取り除かなければ、学問をして日本の古書を読んで考えてみても、日本古来の心や道は知ることができないのだと語られています。

 続いて、〈そもそも道は、もと学問をして知ることにはあらず、生れながらの真心なるぞ、道には有ける、真心とは、よくもあしくも、うまれつきたるままの心をいふ〉とあり、道とはそもそも学問で知るものではなく、生まれたままの真心にこそ道が有ることが述べられています。ここでいう道とは、人智による浅知恵を行わずに、人々が素直に神々を信頼することで偽善的な教えがなくとも世の中が治まるという日本古来の考え方です。

 ですが、〈然るに後の世の人は、おしなべてかの漢意にのみうつりて、真心をばうしなひはてたらば、今は学問せざれば、道をえしらざるにこそあれ〉と述べられています。中国的なものの考え方が蔓延したために、日本古来の真心を失ってしまったため、学問により道を知るしかないのです。この状況は、西欧近代の考え方に毒された現代日本の現状に似た側面があります。

 この日本古来の道については、〈そもそも道は、君の行ひ給ひて、天の下にしきほどこらし給ふわざにこそあれ、今のおこなひ道にかなはあらむからに、下なる者の、改め行はむは、わたくし事にして、中々に道のこころにあらず〉とあります。道に対しては、下々の者が勝手に改革してはならないものなのです。そこで『直毘霊』でも言及されていたように、道の心は、下々の者が善悪に関わらず従うべきものとされているのです。〈下なる者はただ、よくもあれあしくもあれ、上の御おもむけにしたがひをる物にこそあれ〉と述べられ、〈古の道を考へ得たらんからに、私に定めて行ふべきものにはあらずなむ〉と、私心の否定が述べられています。

 宣長にとって〈道は天照大神の道〉なのです。遡ると〈道は、高御産巣日神産巣日御祖神の産霊によりて、伊邪那岐伊邪那美二柱の神のはじめ給ひ、天照大神の受行はせ給ふ道なれば、必万の国々、天地の間に、あまなくゆきたらふべき道也、ただ人の、おのがわたくしの家のものとすべき道にはあらず〉という系譜を辿ります。つまり、神々の道は、個人的なものでも、私的なものでもないのです。

 その道は、宣長の時代においても希薄なものとなってしまっています。〈神の道は、世にすぐれたるまことの道なり、みな人しらではかなはぬ皇国の道なるに、わづかに糸筋ばかり世にのこりて〉いると語られています。神の道は、優れたまことの道です。それは知らないではいられない日本の道ですが、僅かに糸のように細い一筋だけが世に残っているのだと語られています。




  『うひ山ぶみ』

 最後に、本居宣長の68歳のときの作品である『うい山ぶみ』における道を見てみます。

 道について、〈まづ神代紀をむねとたてて、道をもはらと学ぶ有、これを神学といひ、其人を神道者といふ〉とあります。神々の時代を学ぶことを神学と言い、学ぶ人は神道者と呼ばれています。

 学ぶべき道は、〈そもそも此道は、天照大神の道にして、天皇の天下をしろしめす道、四海万国にゆきわたりたる、まことの道なるが、ひとり皇国に伝はれるを、其道は、いかなるさまの道ぞといふに、此道は、古事記書紀の二典に記されたる、神代上代の、もろもろの事跡のうへに備はりたり、此二典の上代の巻々を、くりかへしくりかへしゆおくよみ見るべし〉とあります。日本に伝わる天照大神の道は、『古事記』と『日本書紀』を繰り返し読むことで得られるのだとされています。

 道を学ぶことについては、〈さて道を学ぶにつきては、天地の間にわたりて、殊にすぐれたる、まことの道の伝はれる、御国に生れ来つるは、幸とも幸なれば、いかにも此たふとき皇国の道を学ぶべきは、勿論のこと也〉とあります。日本にはまことの道が伝わっている幸運があるのだから、道を学ぶのだと宣長は言います。

 道について、『直毘霊』や『玉勝間』と同様に、下の者が善悪によらずに従うことと私心の否定が語られています。〈そもそも道といふ物は、上に行ひ給ひて、下へは、上より敷施し給ふものにこそあれ、下たる者の、私に定めおこなふものにはあらず〉ということです。ただしそこでは、〈されば神学者などの神道の行ひとて、世間に異なるわざをするは、たとひ上古の行ひにかなへること有といへども、今の世にしては私なり〉と述べられています。昔をそのまま、今に適用するということではないのです。ここで、道は私心ではなく公心であるという考えが述べられています。〈道は天皇の天下を治めさせ給ふ、正大公共の道なるを、一己の私の物にして、みづから狭く小く説なして、ただ巫覡などのわざのごとく、或はあやしきわざを行ひなどして、それを神道となのるは、いともいともあさましくかなしき事也〉とあり、道は正しく公共のもので、巫女などの怪しい業などを神道というのは間違いだと語られています。正しい公共の道は、その時々に適う必要がありますから、〈すべて下たる者は、よくてもあしくても、その時々の上の掟のままに、従ひ行ふぞ、即古の道の意には有ける〉とあり、時代ごとの上のおきてに従うべきことが語られています。そこにおいて、〈学者はただ、道を尋ねて明らめしるをこそ、つとめとすべけれ、私に道を行ふべきものにはあらず〉という牽制がかかります。上のおきてには、私心が入ってはならないのです。

 要は、〈古をしたひたふとむとならば、かならずまづその本たる道をこそ、第一に深く心がけて、明らめしるべきわざなるに〉ということです。古に親しむなら、その本当のところを追求して明らかにするべきだと宣長は言うのです。




 第五項 平田篤胤

 平田篤胤(1776~1843)は、江戸時代後期の国学者です。江戸へ出て独学で国学を学び、本居宣長の没後門人となっています。当時伝来してきた洋学などの知識や在来の儒教・道教・仏教を援用して皇国の優越性を主張し、復古神道を鼓吹し、幕末の尊王攘夷運動に影響を与えました。

 平田篤胤は『古道大意』において、〈一体此方ノ説ク古道ノ趣ハ、謂ユル天下ノ大道デ、則人ノ道デアル故ニ、実ニハ此ノ大御国ノ人タル者ハ、学バズトモ、其ノ大意グライハ、心得居ベキハズ〉と述べています。古道とは、天下の道であり人の道でもあるのですから、日本人なら学ばずとも、その大まかなところは心得ているというわけです。

 古道は、〈一体真ノ道ト云モノハ、事実ノ上ニ具ッテ有ルモノ〉とあるように、事実の上に具わって有るものが真の道なのです。具体的には、〈真ノ道ト云モノハ、教訓デハ其旨味ガ知レヌ。仍テ其古ヘノ真ノ道ヲ知ルベキ、事実ヲ記シテアル。其書物ハ何ジヤト云フニ、古事記ガ第一〉とあり、事実が記してあるとされる『古事記』に、その根拠が求められています。

 では何故、道は道でも古道なのでしょうか。それは、〈真ノ道ヲ行ク人ト云モノハ、其ノ先祖ノ美ヲ撰ビ論メ、其事ヲ明カニシテ、後世ニ著レルヤウニ為モノジヤ〉との理由からです。つまり、先祖の美しいところを後世につなげるためです。ここに、道が古道であり、古道でなければならない理由があります。

 さらに、真の道が、人間の真の道であることも語られています。〈人間ニ生レルト、生レナガラニシテ、仁義礼智ト云ヤウナ、真ノ情ガ、自ラ具ッテイル。是ハ天ツ神ノ御賦下サレタ物デ、則是ヲ人ノ性ト云フ。此ノ性ノ字ハ、ウマレツキト訓ム字デ、扨夫ホドニ結構ナル情ヲ、天津神ノ御霊ニ因テ、生レ得テイルニ依テ、夫ナリニ偽ラズ枉ラズ行クヲ、人間ノ真ノ道ト云フ〉とあります。人間には生まれつき仁義礼智という情が具わっているとされています。これは、天津神から授かったもので、人の性質だと語られています。その生まれ持った性質を天津神によって、それなりに偽らずに曲げず行くことが人間の真の道だというのです。それに加え、〈自分バカリデモ無ク、人ニモ語リ聞スノガ、是モ人間ノ真ノ道〉と語られています。自分だけではなく、他人にも語って聞かせることで、はじめて人間の真の道がありえるというのです。

 『玉襷』では、〈皇神の道の趣は、清浄を本とし汚穢を悪み、君親には忠孝に事へ、妻子を恵みて、子孫を多く生殖し、親族を睦び和し、朋友には信を専らとし、奴婢を憐れみ、家の栄えむ事を思ふぞ、神ながら御伝へ坐せる真の道なる〉とあります。皇神の道は、清浄を基にして汚穢を悪とします。その上で、皆が仲良くすることで共に栄える真なる道なのです。

 最後に、『霊の真柱』にある道の賛歌を二つほど載せておきます。



  うべなうべな我が皇大御国の、古伝の正実にして、真の道の伝はり、また古語の麗く、世人の声音も言語も雅にして、万国に比類なきことよ。

  青海原、潮の八百重の、八十国に、つぎて弘めよ、この正道を





第五節 幕末の国学運動

 本居宣長・平田篤胤らの門人、あるいはそれらの学統に属する人たちによって、幕末以降も国学の運動は続きます。そこでは、神の「道」の伝統も続いて行きます。




 第一項 鈴木朖

 鈴木朖(1764~1837)は、江戸時代後期の国学者です。本居宣長に入門しています。

 『離屋学訓』では、〈道ハ一ツ也〉と述べられています。具体的には、〈是ヲ身ニ行フヲ徳行トシ、是ヲ口ニ述ルヲ言語トシ、是ヲ敷キ施シテ人ヲ治ルヲ政治トシ、是ヲ明ラメ知テ人ヲ教ルヲ文学トス〉と語られています。道を身に行うとは徳を行うことで、道を口にするのが言葉であり、道をもって人を治めるのを政治とし、道を明らかにして人に教えるのを文学とするのだとされています。

 つまり、〈道トイフ名ノココロハ、俗ニイフ為方(シカタ)也〉ということで、道は物事の仕方なのだと語られています。そこで、〈凡テ、内外古今ノ道、皆ソノ道理ヲ以テ主トスル事ナガラ、ソノ道理ハ皆事実ノ中ニコモレリ。事実ヲ疎ニシテ、理ヲノミ好ム者ハ、其理必アヤマリアリ〉と述べられています。道には道理があり、その道理は事実の中にあるとされています。事実や現実をおろそかにして、理屈を好むだけでは誤りがあるというのです。




 第二項 和泉真国

 和泉真国(1765~1805)は、江戸時代後期の国学者です。本居宣長に師事しました。

 和泉真国の『明道書』では、〈道といふ物は、天地に自然に有物にて、天の覆ふ所、地の載する所、人の生る所は、何れの国にても、必、自然に、其道は有物也〉とあります。道は天地自然にあるものとされ、どこの国でも自然と道は有るものだと語られています。そこで、〈天地の間、国として道路有らざる国はなく、人として人道あらざる人はなき也。此理をもて、万国とも、各其国には、必、自然に、其国に付たる道ある事をさとるべき也〉と説かれています。道路がない国がないように、人には人の道があるのであり、この理によって、すべての国に、自然と国ごとの道があるのだと語られています。




 第三項 大国隆正

 大国隆正(1792~1871)は、幕末・明治初期の国学者です。平田篤胤などから国学を学んでいます。

 『本学挙要』においては、〈人の道は、天之御中主神の「中」よりおこりて、「ト」「ホ」「カミ」「エミ」「タメ」の「タメ」となり、わかれて「本による」「あひたすく」といふことばとなり、「本による」は、忠・孝・貞の本となり、「あひたすく」は、家職・産業の本となりて、本教のこころはとほるものになん〉と語られています。「ト」は人の立つところです。「ホ」は稲が穂となるところです。「カミ」は穂を噛むことで、消化器官の循環や食物連鎖を意味します。「エミ」は稲の種が笑割れ(熟して自然に割れ)て、芽を出すところです。「タメ」はためになることです。その穂は人の「ため」になり、その糞は稲の「ため」になるという言葉です。道はこれらの作用を持ち、忠・孝・貞の本となって家職・産業を助けるものだと語られています。

 また、『学統辨論』では、〈皇統の長くつづき給ふわが国の国体を主張し、これをわが大道の基本〉とすると述べられています。天皇の皇統が長く続いていることが日本の国体であり大道の基本だと語られているのです。




 第四項 宮負定雄

 宮負定雄(1797~1858)は、平田篤胤の門人です。

 『国益本論』では、〈国益の本は教道にあり〉とあります。国益は、道を教えることにあるのです。そこで、〈其道とは、人倫の所行、常に天地の鬼神に質して、聊も愧る事なく、専善行善心正直なるをいふなり〉と、道について述べられています。道とは人の倫理であり、鬼や神に少しも恥じるところはなく、善を行い、善を心懸け、正直であることだと語られています。




 第五項 鈴木重胤

 鈴木重胤(1812~1863)は、幕末期の国学者です。平田篤胤に書信にて入門しました。大国隆正にも親しく学んでいます。

 『世継草』では、〈学びて此道を明かに為るを神習と云ひ、務て此道を行ふを神随と云ふ。此即、天下公民の道と為べき道なる者なり〉と述べられています。此道とは、神皇の大道です。道を明らかにするには神に習い、道を行うには神にしたがうのです。そうすれば、公民の道となると語られています。




 第六項 長野義言

 長野義言(1815~1862)は、江戸後期の国学者です。

 『沢能根世利』では、〈儒仏両道をわが正道の枝葉とし給ふ事、貢献の具なればさもあるべし〉と語られ、吉田兼倶の三教枝葉果実説の影響が見られます。その影響下において、〈皇神の正道(ノリ)をおきて、他に幸ひもとむべからぬ和魂(ヤマトダマシヒ)だに定まれば、ものにまぎるる心もあらじ〉と述べられています。ここで正道を「ノリ」と読ませているのは、道に規範としての意味をもたせるためです。日本の規範において幸いを求めて、公共に仕える大和魂を定めれば心は穏やかに保たれると語られています。

 そこで、〈勢ひに進むとしては、多く非道の行ひあり。又人によくいはれんとしては、しひてよわよわしく、道理にはづれたる行ひなどもあるなるは、政事を私ものにするにて、正道のならひにあらず〉と危機に対する警告が発せられます。時代が勢いにまかせて進むときは、非道の行いが多くなります。人に良く言われようと思うと、態度は弱々しくなり道理は外れて、政治は私心に墜ちます。これは正道にもとづく慣行ではないというのです。

 また、道に適いつつ、時宜に適うことも述べられています。〈国政法則を以て行ふとも、神国の正道にあはずば又いかにかせん。唯その時々の法則は、その時々の規なれば、しわざは是にしたがひつつ、心は正道にとどめんことこそあらまほしけれ〉と語られています。国の政治は法則によって行いますが、それが正しい道に合わなければどうすればよいのでしょうか。ただ、その時々の法則は、その時々の規範なので、政策はこれに従いつつも、心は正道に留めることこそ重要だというのです。




 第七項 桂誉重

 桂誉重(1816~1871)は、江戸後期の国学者です。思想の特質は、荒廃する農村をいかに立て直すかという当時の村役人層の課題と結びついています。

 『済世要略』では、〈道に叶へる行ひあるは何故ぞ。神より給はりし霊性を、まげずくねらさず固めし故也〉とあります。道に合った行いのために、神より授かった霊性に随うことが説かれています。

 また、〈すべて奉仕、中正真情無二なるが、我国の大道〉とあり、奉仕を行うことが日本の道だと語られています。その際、根本となるのが〈夫婦真情の道を押及す事〉です。夫婦真情の道とは、産霊の道のことです。産霊とは、神道において天地万物を生成し発展させる霊的な働きのことです。






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