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『日本式 正道論:第四章 儒道』

【目次】
第一節 朱子学派・京学
 第一項 藤原惺窩
 第二項 林羅山
 第三項 室鳩巣
 第四項 新井白石
第二節 朱子学派・南学
 第一項 山崎闇斉
 第二項 浅見絅斉
第三節 陽明学派
 第一項 中江藤樹
 第二項 熊沢蕃山
 第三項 佐藤一斉
 第四項 大塩中斉
第四節 古学派・朱子学
 第一項 貝原益軒
第五節 古学派・聖学
 第一項 山鹿素行
第六節 古学派・古義学
 第一項 伊藤仁斉
 第二項 伊藤東涯
第七節 古学派・古文辞学
 第一項 荻生徂徠
 第二項 太宰春臺
 第三項 亀井照陽
 第四項 広瀬淡窓
第八節 近世の儒者
 第一項 横井小楠
 第二項 橋本左内

 

『第四章 儒道』
 儒教は、孔子(前552~前479)を祖とし、道徳的・宗教的意味を持った社会的教説のことです。儒道とも称されます。
 日本における儒教の受容は古代にさかのぼります。古代から中世にかけて儒教は、教養として貴族層によって、あるいは禅儒一致の立場から禅僧によって学ばれてきました。ただし、儒教が庶民にまで浸透するのは、徳川幕府成立にともなう江戸時代からとなります。儒教は武家政権によって庇護され、民衆の道徳的教化の役割を担いました。近世の日本儒教は、武家や町人や農民などの様々な階層の出身者によって構成されています。
 儒教の教えは「聖人の道」であり、儒教関連の書物には人道や天道といった「道」についての伝統が展開されています。本章では、日本の儒教における「道」を見ていきます。

 


第一節 朱子学派・京学
 朱子学は、南宋の儒学者朱熹[朱子](1130~1200)によって大成された学問とその弟子によって再構成された学問の総称です。日本では江戸幕府から官学として保護されました。朱子学派の一つに京学があります。京学とは、京都に発達した藤原惺窩を祖とする一派を言います。

 

 第一項 藤原惺窩
 藤原惺窩(1561~1619)は、安土桃山・江戸初期の儒学者です。惺窩の儒学は、心に拠点をおき、国際的な観点から理を説いたことに特色があります。林羅山など、多くの門人を育てました。
 惺窩の『寸鉄録』では、〈ヲヨソ「政ハ正ナリ」(ト)テ、政ハ人ヲ正道(タダスミチ)ナリ〉とあります。これは『論語』の[顔淵篇]で、〈政とは正なり。子、帥いて正しければ、孰か敢へて正しからざらん〉とあることに影響を受けています。
 『惺窩先生文集』では道について、〈道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万を生じて、万は一に帰す〉とあります。これは、『老子』からの影響です。天道については、〈一に曰く、それ天道なる者は理なり。この理、天にあり、未だ物に賦せざるを天道と曰ふ。この理、人心に具はり、未だ事に応ぜざるを性と曰ふ。性もまた理なり〉とあります。天道を理と結びつけるのは、宋学の重要な主張です。
 『千代もと草』では、〈日本の神道も我心を正して万民をあはれみ慈悲を施す極意とし、堯舜の道も極意とするなり。もろこしにては儒道と云、日本にては神道といふ。名はかはり心は一なり〉とあります。中国の儒道と日本の神道、名前は違えどその心は一つだと語られています。

 


 第二項 林羅山
 林羅山(1583~1657)は、江戸初期の儒学者です。朱子学を藤原惺窩に学び、徳川家康から家綱まで4代の将軍に仕え公務に携わりました。
 『春鑑抄』では五常について、〈仁・義・礼・智・信之五ツノ道ハ、常ニシテカハラヌゾ〉とあります。続けて、〈人ト云モノダニアラバ、天地開闢ヨリ以来、末代ニイタルマデニ、此道ノカハルコトハアルマヒホドニ、常ト云ゾ。サルホドニ、万代不易之法ト云ゾ。不易トハ、カハラズト読ゾ〉とあります。人間が居れば、仁・義・礼・智・信は変わらず存在するというのです。これは、朱子の『論語集註』に影響を受けた意見です。
 不易に対するものとして、「権」も説かれています。〈権ノ道ト云ハ、法度ヲヒトツハヅシテモ、ノチハ直グナル道ヘイタル〉とあります。権ノ道は臨機応変の道で、直正なる道に対して言います。
 また、注目すべき点として、礼の重視が挙げられます。〈礼ハ恋ノ道ヨリモ大切ナコトゾ〉と述べられています。そこで、〈モツトモ礼ノ道ヲバ肝要ト心得テ、行フベキコトナルベシ〉と説かれています。
 『三徳抄』では、〈心ハ一ナレドモ、其ウゴキ働ク所ヲバ人ノ心ト云フ。其義理ニヲコル処ヲバ道ノ心ト云フ〉とあります。人の心が、義理に基づいて起こるところが道の心だというのです。ですから、〈不義ノ富貴ヲバ求メザル事アリ。是ヲ道心ト云フ〉わけです。人の心と道の心の区別は、〈心ハ一ニシテ二ツナキヲ、道ノ心ト人トノ差別ヲ云バ、道ノ心ハ理也。人ノ心ハ気也。是又、心ハ善ニシテ、気ニハ善悪アルノ本拠ナリ〉と語られています。道の心は理だとされています。
 『羅山先生文集』では、〈それ道は人倫を教ふのみ。倫理の外、何ぞ別に道あらんや〉とあります。道は、人の間において存在すると語られているのです。

 


 第三項 室鳩巣
 室鳩巣(1658~1734)は、江戸中期の儒学者です。鳩巣は朱子学こそ正学とし、徳川幕府体勢の秩序を信頼し、それを支える階級における道徳を説いています。
 『書簡』では道について、〈蓋し道の大原は、天に出づ。これ道の一本なるものなり。ただ我が聖人のみ、能く天に継ぎ極を立つることをなし、以て教へを天下後世になす。則ち天下後世、これに由りて以て聖人の道となす。これ道の一統なるものなり〉とあります。ここでいう一本とは、一つの根源のことです。天に継ぎ極を立つるとは、天意を受け継いで道徳の規準を立てることです。一統とは、一筋ということです。つまり、道の根源は天であり、聖人は天意を受け継いで道徳の基準を立てるというのです。それが、後世が従うべき聖人の一筋の道なのだとされています。
 また、『読続大意録』では、〈道はこれ本然実有の物事なり〉と述べています。道は、実際に有る物事であり、机上の空論ではないということです。

 


 第四項 新井白石
 新井白石(1657~1725)は、江戸中期の儒学者であり政治家です。6代将軍の徳川家宣に仕えて幕政に参与しています。白石の思想活動は、幕府における政治活動と不可分に結びついたものであることに特徴があります。
 白石の『読史余論』では、天道について三箇所で言及されています。一つ目は〈かくて失にしかば、是も天道にたがふ所ありとは疑なし〉とあり、二つ目は、〈天下の天下たる道を、少々なりとも思召れんに、殊更天道も佛神の御心にも立所に叶はせ給ふべきにと、愚なる心には存ずるぞかし〉とあり、三つ目は〈天道は、天に代りて功を立る人にむくい給ふ理〉とあります。白石の思想には、天道という天の力が働いています。
 白石の考えでは、天は人間の運命を左右するものと捉えられています。例えば、〈かゝれば時の至らず天のゆるさぬ事は疑なし〉や〈誠に天命也。正理也〉とあります。白石は、天は善悪に応じて、人に報いを与えるものとだという視点に立っています。〈天の有道にくみし給ふ所明らけしとも申すべし〉や〈天は報應誤らずといふべし〉、〈天の報應かくの如く明らかなり〉というわけです。ただし、〈天の報應あやまらずといへども、抑又みづから作れるの孽なり〉とされ、人の努力が大事だとされています。そして、〈天意のほどはかりがたき事にや〉と、天の知りがたいことが認識されています。

 


 第二節 朱子学派・南学
 朱子学派の一つに南学があります。南学は、海南学派とも呼ばれます。南村梅軒が土佐で興し、実践重視の思想に特色があります。山崎闇斎らが著名です。

 

 第一項 山崎闇斉
 
山崎闇斎(1618~1682)は、江戸前期の儒学者です。また、闇斎の独自の神道説である垂加神道の提唱者でもあります。神儒一致説を唱えました。
 『大学垂加先生講義』では天道に対し、〈造化ト云ガヤツパリ天道也。ソノ流行ノナリヲ云也。造ハ無ヨリ有ニ向ヒ、化ハ有ヨリシテ無ニ趣〉とあります。無より有に向かい、有より無におもむく、それが造化であり、その流れ行くあり方が天道なのだとされています。
 『闢異』においては、〈それ天下の道、経あり権あり、経は万世の常、人皆もつてこれを守るべきなり。権は一事の用、聖賢に非ずんば用ふる能はざる也〉と述べられています。経道とは常に成立つ道であり、万民が守るべき道です。権道とは時に応じて行う処置のことで、朱子学の立場から聖人に限っています。
 また、原念斎の『先哲叢談』第九条に、闇斎について次のような逸話が載っています。

 嘗て群弟子に問ひて曰く、「方今彼の邦、孔子を以て大将と為し、孟子を副将と為し、騎数万を率ゐ、来りて我が邦を攻めば、則ち吾党孔孟の道を学ぶ者、之れを如何と為す」と。弟子咸答ふること能はずして曰く、「小子為す所を知らず。願はくは其の説を聞かん」と。曰く、「不幸にして若し此の厄に逢はば、則ち吾党身に堅を被り、手に鋭を執り、之れと一戦して孔孟を擒にし、以て国恩に報ず。此れ即ち孔孟の道なり」と。

 つまり、孔子と孟子が日本に攻めてきたら、武器を取って戦って国の恩に報いるというのです。それこそが孔孟の道だと、闇斎は言うのです。

 

 第二項 浅見絅斉
 浅見絅斎(1652~1711)は、江戸中期の儒学者です。山崎闇斎に入門しましたが、後に破門されています。
 『?録』には、〈天地一貫日用常行ノ実理ヲ公ノ心ヲ以日用人道ノ正脈ト知ザルコトコソ悲キ〉とあります。日常の役に立つ公の心こそが人の道であり、それを知らないでいるなら悲しいことだと語られています。他にも道について、〈道ト云ヘバ、常行平易ノ行ヲ主トシテ、夫ノ孝弟忠信ノ筋ニ能合故也〉とあります。道は常にやりやすいことを主として、人との関わりによく合うものだというのです。道と理の関係については、〈道ト理ト両ツナシ。道ハ日用ノ則ヨリ云、理ハ其道ノ道タル真実ヲ云ヘバ、理ニ非レバ道ニ非ズ、道ニ非レバ理ニ非〉とあります。日常の面から言えば道であり、真実の面から言えば理なので、道は理であり理は道なのだとされています。天と道の関係は、〈夫天人ノ道ハ一也。人ヨリ云ヘバ人道ト云、天ヨリ云ヘバ天道〉とあります。道とは、人間から見れば人道で、天から見れば天道なのだとされています。
 『浅見先生学談』では山崎闇斎の影響から、〈異国ノヒイキスルハ大キナ異端、今デモ異国ノ君命ヲ蒙テ孔子朱子ノ日本ヲセメニ来ランニハ、ワレマヅ先ヘススンデ鉄砲ヲ以孔子朱子ノ首ヲ打ヒシグベシ〉とあります。ここでは攻めてくるのが孔子と朱子になっていて、攻めて来た孔子と朱子と戦うことが語られています。〈異国ノ人ノマネヲスル事、正道ヲ知ラザルガ故ナリ〉というわけで、正道には自分の国という意識が必要なことが示されています。

 


第三節 陽明学派
 陽明学とは、朱子学の克服を目指し、王守仁[陽明](1472~1528)が提唱した儒教学説のことです。朱子学の「性即理」、「知先行後」説に対して「心即理」、「知行合一」、および「致良知」説を掲げます。陽明学は、朱子学と同じく儒教の伝統的言説の内にあります。
 日本では、江戸時代に中江藤樹によって初めて講説されました。理学への不信を基調とし、陽明学は実践倫理と意識され受容されました。

 


 第一項 中江藤樹
 中江藤樹(1608~1648)は、江戸前期の儒学者です。日本陽明学派の祖です。近江聖人と呼ばれました。
 『翁問答』では、〈太虚神明のほんたいをあきらめ、たてたる身をもつて人倫にまじわり万事に応ずるを、道をおこなふといふ〉とあります。虚空や神々の本体を明らかにし、身を立て人々と交わり、あらゆることに応じていくことが道を行うということだと語られています。
 文武の道に関しては、〈戈を止(やめる)といふ二字をあはせて武の字をつくりたり、文道をおこなはんための武道なれば、武道の根は文なり。武道の威をもちいておさむる文道なれば、文道のねは武なり。そのほか万事に文武の二ははなれざるものなり〉とあります。万事において、文と武の両方が必要だと語られています。
 また治国は君主が道を行うことで治まると説きます。〈君の心あきらかに道をおこなひたまひぬれば、法度はなくても、をのづから人のこころよくなるものなり〉とあり、〈法治はきびしきほどみだるるものなり〉とし、〈徳治は、先我心を正くして人の心をただしくするもの也〉とまとめています。『韓非子』に代表される法家の考え方である法治では、法律を厳正にこまかく定めることによって政治を行おうとします。これに対し、藤樹は道徳を基にした徳治を主張しています。
 また、藤樹の道に対する考え方では、権の道が重要です。権の道とは、臨機応変の道のことです。〈権を準的として工夫せざれば明徳を明(あきらか)にすべき道なし〉とし、〈権の外に道なし。道の外に権なし。権の外に学なく学の外に権なし〉と述べられています。初学者も権を目標として努力工夫すべきだという、藤樹独自の考えが展開されています。ですから、〈道は太虚に充満して身をはなれざるものなれば、もとより平生日用の礼法も道なり。また非常の変に処する義も道なり〉となります。つまり、常日頃から行う礼法も道であり、非常事態に取る処置もまた義であり道なのだとされているのです。そのため、〈権は道の惣名なれば、権すなはち道、道すなはち権なる故に、道也といはんために権也といへるなり〉と語られているのです。
 この権の道の考え方の故に、〈時と処と位とによくかなひて相応したる義理を中庸となづけたり〉というのです。時・所(処)・位とは時代と場所と地位のことです。時代と場所と地位に適う義理が、中庸と呼ばれるのです。

 


 第二項 熊沢蕃山
 熊沢蕃山(1619~1691)は、江戸前期の儒学者であり経世家です。短い期間ですが、中江藤樹に陽明学を学び、岡山藩主池田光政に仕えました。晩年、政治批判で幕府に疎まれ、幽囚中に病死しました。
 『集義和書』には、〈聖人の道は、五倫の人道〉とあります。五倫の人道とは父子の親・君臣の義・夫婦の別・兄弟の序・朋友の信のことです。『孟子』の[滕文公上]の語に由来します。
 文武に関しては、師である中江藤樹から影響を受け、〈世間に、文芸をしり武芸をしりたる者を、文武二道といふは、至極にあらず。これは文武の二芸といふべし。芸ばかりにて知仁勇の徳なくば、二道とは申がたかるべく候〉とあります。文武の二道には、知仁勇の徳が必要なことが示されています。
 誠に関しては、〈誠は天の道也。誠を思ふは人の道なり〉とあります。誠のままであるのは天道、誠のままになろうと思い力を尽くすのは人道という考えには『孟子』や『中庸』からの影響が見られます。
 また、〈世の、道をいふ者、すこしきなり。故に大道の名あり。大道とは大同なり。俗と共に進むべし、独り抜ずべからず。衆と共に行ふべし〉とあります。その行うべき道はというと、〈それ道は声なく臭もなくして存せり。思に及がたし。思は言にのべがたし。言は書に尽しがたし〉と述べられています。道は声も臭いもなく、思うことも言い表すことも書き尽くすことも困難です。では、どういうものが道かというと、〈欲と云は此形の心の生楽なり。欲の、義にしたがつてうごくを道と云〉とあります。欲とは、肉体的な気質の心の持つ生の楽しみのことです。欲が義にしたがって動くならば、道となるのです。ですから、〈志といふは道に志す也。初学の人、道に志ざして、いまだ道をしらずといへども、心思のむかふ所正〉と述べているのです。道に志せば、心は正しいところへ向かうというのです。
 『集義外書』では、〈神代には神道といひ、大代には王道といふ、其實は一なり。大道の世を行めぐる兩輪は文武にて候〉とあります。神道も王道も一つであり、文武が重要だと説かれています。
 道と法との関係性については、〈道と法とは別なるものにて候を、心得ちがひて、法を道と覚えたるあやまり多く候。法は中国の聖人といへども代々に替り候。况日本へ移しては、行がたき事多く候。道は三綱五常これなり〉とあります。法は、時代ごとに変化するため、他国から日本に移してそのまま使用することは出来ません。道は法とは違います。道は三綱五常だとされています。三綱は君臣・父子・夫婦の道で、五常は仁義礼智信の徳のことです。そこで、〈法は聖人時処位に応じて、事の宜きを制作し給へり〉ということになり、道は〈時処位の至善に叶はざれば道にはあらず〉ということになります。時代と場所と地位に応じて制作するのが法であり、時代と場所と地位において善に至るものが道なのだとされています。
 また、〈それ道は大路のごとしといへり。衆の共によるべき所なり。五倫の五典十義是なり。いまだ道学の名なかりし前より行はる、天にうくるが故なり。万古不易の道也。礼法は聖人時所位によりて制作し給ふものなれば、古今に通じがたし。よく時にかなへば道に配す、時にかなはざれば道に害あり〉とあります。五典十義についてですが、五典とは、人の踏み行うべき五つの道をいい、『孟子』では〈父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有り〉とあり、『左伝』では〈父の義、母の慈、兄の友、弟の恭、子の孝〉を言います。十義とは、人のふみ行なうべき十の道を言いますが、蕃山は、『心法図解』の人道の図に〈父慈、子孝、君仁、臣忠、夫義、妻聴、兄良、弟悌、朋友、交信〉を記しています。礼儀作法などは、時代・場所・地位などによって変わります。そこで蕃山は、それを適宜に行なうことを説いています。儒書の礼儀作法はほとんど周代に作られたものなので、日本においてそのまま適用できないからです。
 蕃山は、時・所(処)・位という視点から、外国思想の模倣を排して、日本思想の自主性へと進んでいるのです。

 


 第三項 佐藤一斉
 佐藤一斎(1772~1859)は、江戸後期の儒学者です。一般の教育には朱子学を用いましたが、一斎自身は陽明学も取り入れています。
 『言志録』には、〈茫茫たる宇宙、此の道只だ是れ一貫す〉とあります。茫茫とは、ひろく果てしなく、さだかでないさまです。治国については、〈邦を治むるの道は、教養の二途に出でず。教は乾道なり父道なり。養は坤道なり母道なり〉とあります。乾道は天道のことで父道です。坤道は地道のことで母道です。要するに、教えは天より父より、養いは地より母より、ということが示されているのです。
 『言志後録』には、〈道は固より窮り無く、堯舜の上善も尽くること無し〉とあります。道は極まりの無いものであり、堯や舜のような聖人の最高の善行でも、尽くすことができなかったというのです。天の道については、〈自ら彊めて息まざるは天の道なり。君子の以す所なり〉とあります。休みなく勉め続けるのが天の道であり、また君子の道でもあるというのです。また、道の心である道心については、〈道心は性なり、人心は情なり〉とあります。道心と人心を、性と情に等置する考え方は、中国には見られない独自なものです。その詳細は、〈心は二つ有るに非ず。其の本体を語れば、則ち之を道心と謂う。性の体なり。其の体躯に渉るよりすれば、則ち之を人心と謂う。情の発するなり〉となります。つまり、心が二つあるわけではなく、心の本性は道心であり、それが身体に関係するのが人心で、人心とは人間の情が外に現れたものだというわけです。性の発動したものが情で、性情は体用の関係にあるとされています。
 『言志晩録』には、〈道を求むるには、懇切なるを要し、迫切なるを要せず。懇切なれば深造し、迫切なれば助長す。深造は是れ誠にして、助長は是れ偽りなり〉とあります。道を求める態度は、熱心さが必要で、焦ってはいけないというのです。熱心なら道の奥まで至り、焦れば無理をすることになります。道の奥まで至ることは誠であり、無理をすることは偽りの道だと語られています。
 『言志耋録』には、〈慮らずして知る者は天道なり。学ばずして能くする者は地道なり。天地を?せて此の人を成す〉とあります。つまり、思慮分別を加えず先天的に知るのが天道で、学ばないでも自然にできるのが地道だとされています。この天道と地道を併せて、人間が形成されると考えられています。道と義の関係については、〈義は宜なり。道義を以て本と為す。物に接するの義有り。時に臨むの義有り。常を守るの義有り。変に応ずるの義有り。之を統ぶる者は道義なり〉とあります。義はよろしさとして示されています。そして、諸々のよろしさを統べる基として、道義があるとされています。人道は一斉において、〈人道は只だ是れ誠敬のみ〉と語られています。人の践み行うべき道は、誠と敬の二つだとされているのです。

 


 第四項 大塩中斎
 大塩中斎(1793~1837)は、江戸後期の陽明学者です。大塩平八郎の名のほうが有名だと思われます。儒学における原理、および古典における理想による体制批判を貫いた希有な思想家です。天保7年(1836)の飢饉に際して奉行所に救済を請うたが容れられず、蔵書を売って窮民を救いました。翌8年、幕政を批判して大坂で挙兵しましたが敗れて自決しました。
 『洗心洞?記』では道について、〈道の大原は天より出づ〉とあります。『漢書』の[董仲舒伝]からの影響が見られます。人と天と道の関係では、〈人は即ち天なり。学なるものは、天徳を学ぶなり。道を明らかにするとは、天道を明らかにするなり〉とあります。人は天であり、学ぶということは天を学ぶと言うことが語られています。道とは天を明らかにすることだとされているのです。
 また、〈道たるや屢しば遷り、変動して居らず、六虚に周流し、上下常无く、剛柔相易り、典要と為すべからず、唯だ変の適く所のままなり〉とあります。分かりやすく言うと、良知の真理性である道は固定的なものではなく、しばしば変化し、天地四方の空間にあまねく流通します。絶えず昇り降りして一定せず、剛毅さと柔軟さが相互に入れかわります。常に固定した法則として捉えることができず、ただ変化流転する動きのままに任せるほかはないのだということです。
 その考え方に立った上で、〈道の外に事無く、事の外に道無し。道理は只だ是れ眼前の道理〉と語られています。中斉は、道と事とは一体だと述べているのです。

 


第四節 古学派・朱子学
 古学派とは、朱子学を批判し、古代経書によって孔子・孟子の学問に帰ろうとした学派を言います。
 古学派の呼称は、井上哲治郎(1855~1944)によります。井上は山鹿素行・伊藤仁斎・荻生徂徠の三名をして、古学派の代表としました。貝原益軒は朱子学派と見なされますが、井上哲治郎は、白石が『大疑録』によって朱子学的立場に疑義を呈したことをもって古学派に数え入れています。

 


 第一項 貝原益軒
 貝原益軒(1630~1714)は、江戸前期の儒学者です。薬学を学び、朱子学を奉じました。教育・歴史・経済の面にも功績があります。
 『大疑録』には、〈蓋し遠きに行くは、必ず邇きよりし、高きに登るは、必ず卑きおりするが如し。これ序に循ひて道に漸進するなり〉とあります。思うに遠方に行く者はかならず身近から踏み出し、高山に登る者はかならず低地から踏み出すようなもので、これが順序どおりに一歩一歩道へと進むことだというのです。道そのものについては、〈故に渾沌の時を以て、これを名けて太極と謂ひ、流行の時を以て、これを名けて道と謂ふ。太極と道とは、その実一なり。道は則ち太極の流行する所、太極は則ち一気の未だ流行せざるの尊号にして、二あるにあらざるなり。蓋し二気の流行の、条理ありて乱れず、常にして正しきものは、これを名けて道となす〉とあります。根源の気である太極が、条理によって乱れず正しく流れ行くのが道だとされています。
 『慎思録』では道について、〈道は天地の主宰、陰陽の綱紀、万物の根柢、人身の徳行なり〉とあります。道は天地を司る全ての根源であり、人間の徳でもあるのです。そこにおいて、〈道なるものは天地を主宰し陰陽を総摂して万物を化生する所以のものなり。その流行を以てこれを道といひ、その気に主となりて条貫あるを以てこれを理といふ。その実、道と理とは一なり〉と語られています。万物を生じさせて流れ行くことが道であり、その筋が通っていることが理なのだというのです。ですから、道と理とは一つなのだとされています。
 『五常訓』では、〈道ヲ信ズル志ハ、専一ニシテ、アツカルベシ〉と説かれています。
 『大和俗訓』には、〈天地の御心にしたがふを以て道とす。天地の御心にしたがふとは、我に天地より生れつきたる仁愛の徳をうしなはずして、天地の生める所の人倫をあつくあはれみうやまふをいふ。是れ乃ち人の行ふべき所にして、人の道なり〉とあります。天地の心に従うのが道であり、それは仁愛の人倫である人の道だというのです。道の学び方については、〈博く学ぶの道は、見ると聞くとの二をつとむ。聖賢の書をよみ、人に道をききて、古今を考へて道理を求むるなり〉とあります。書を読み人に聞き、古今を考えることで道理を求めるというのです。そこでは、〈道理はわが一心にそなはり、その用は萬物の上にあるなれば、まづわが一心の道理をきはめ、次には萬事につきてひろき道理をもとめて、わが心中に自得すべし〉と考えられています。自分の心に道理を得、万物の道理に広げていって自身のものとすべきだということです。ですから、〈道心とは、仁義禮智の本性よりおこる善心なり〉と語られているのです。このことから、〈恩を報ふこと、人道の大節なり。禽獣は恩をしらず、恩をしるを以て人とす。恩をしらざるは、禽獣にひとし。是れ禽獣とわかる所なり〉ということになります。恩を知るから人間なのだと考えられています。だからこそ、〈人の見になすわざ、何事にも道あらずといふことなし〉と語られているのです。また、〈心には、古の道を守り行ひ、身の作法は今の世の風俗にそむくべからず。今の世に生れ、古の法にかかはりて、必ず行はんとするはひがことなり。道に害あり。古法の内、當世の時宜にそむくべからず。又、當世の風俗にながれて、古の道にそむくは甚だわるし。是れ道に志なきなり。道は五常五倫といふ。法は禮なり。作法をいふ〉とあります。心には古の道を守りますが、今の世の風習にも従うべきだとされています。それは時宜に適うようにすべきということであり、時代に迎合して良いと言うことではありません。今の世のあり方に合わせるとともに、正しいことは譲れないということです。ですから、〈人つねにわが身をかへりみて、わが身に道を求むべし〉と語られているのです。

 


第五節 古学派・聖学
 本節では、古学派の中でも聖学と呼ばれる類型について述べます。聖学は、山鹿素行に代表されます。

 

 第一項 山鹿素行
 山鹿素行(1622~1685)は、江戸初期の儒学者です。素行は、泰平期における武士の存在根拠を儒教道徳に求め、そこから武士のあるべき姿を士道として提唱しました。
 『聖教要録小序』には、〈それ道は天下の道なり、懐にしてこれを蔵(かく)すべからず〉とあります。ここでの道とは、宇宙(天地)を律する天地の誠が聖人を介して具体化した規範のことです。
 『聖教要録』では、〈聖学は名の為ぞや。人たるの道を学ぶなり。聖教は何の為ぞや。人たるの道を教ふるなり。人学ばざれば則ち道を知らず〉とあり、道を学ぶことの重要性が説かれています。道そのものについては、〈道は日用共に由り当に行なふべき所、条理あるの名なり。天能く運(めぐ)り、地能く載せ、人物能く云為す。おのおのその道ありて違ふべからず。道は行なふ所あるなり。日用以て由り行なふべからざれば、則ち道にあらず。聖人の道は人道なり。古今に通じ上下に亙り、以て由り行なふべし〉と述べられています。道とは日常行うことに条理が伴うことであり、天・地・人のそれぞれに働くものだというのです。そこに違いはなく、日常的に行われていることがすなわち道なのです。聖人の道は人の道であり、古今や身分の上下によらず規範となるものとされています。そこで道という条理は、人が歩く道路に例えられているのです。つまり、〈道の名は路上より起これり。人の行くこと必ず路あり〉というわけです。素行においては、〈聖人の道は大路なり、異端の道は小径なり〉と見なされています。

 


第六節 古学派・古義学
 本節では、古学派の中でも古義学と呼ばれる類型について述べます。古義学は、伊藤仁斎に代表されます。

 

 第一項 伊藤仁斎
 伊藤仁斎(1627~1705)は、江戸前期の古学派を代表する儒学者です。仁斎は『論語』を最上至極宇宙第一の書とし、『孟子』を義疎とし、孔子の教説の本来の意義を求めました。
 『語孟字義』の[天道]では、〈道はなお路のごとし。人の往来通行するゆえんなり。故におよそ物の通行するゆえんの者、みなこれを名づけて道と曰う〉とあります。
 [道]では、〈道はなお路のごとし。人の往来するゆえんなり。故に陰陽こもごも運る、これを天道と謂う。剛柔相須うる、これを地道と謂う。仁義相行なわるる、これを人道と謂う。みな往来の義に取るなり。又曰く、道はなお途のごとし。これに由るときはすなわち行くことを得、これに由らざるときはすなわち行くことを得ず〉とあります。また、〈道とは、人倫日用当に行くべきの路、教えを待って後有るにあらず〉ともあります。
 道と理の関係については[理]で、〈理の字 道の字と相近し。道は往来をもって言う。理は条理をもって言う〉とあり、〈道の字はもと活字、その生生化化の妙を形容するゆえんなり。理の字のごときはもと死字、玉に従い里の声、玉石の文理を謂う〉とあります。活字とは、動作を含む意味の言葉で死字に対します。死字とは、状態の形容をいう言葉です。『童子問』には、〈蓋し道や、性や、心や、皆生物にして死物に非ず〉とあります。道や性質や心は、みんな生き物であり死物ではないとされています。活物と死物については、〈何となれば、流水は源もと有って流行す。活物なり。止水は源と無うして停蓄す。死物なり〉とあります。流れる水が活物として、留まっている水が死物として示されています。
 道と徳の関係については[徳]で、〈道・徳の二字、亦甚だ相近し。道は流行をもって言う。徳は存するところをもって言う。道はおのずから導くところ有り。徳は物を済(な)すところ有り〉とあります。流行とは、変化していく状態のことです。
 [誠]では、〈誠は、実なり〉とされ、〈誠とは、道の全体〉と定義されています。具体的には、〈千言万語、みな人をしてかの誠を尽くさしむるゆえんにあらずということなし。いわゆる仁義礼智、いわゆる孝弟忠信、みな誠をもってこれが本とす〉と語られています。
 [権]では、〈権は即ち是れ経、経は即ち是れ権〉とあります。経は常に行う直正なる処置で、権は時に応じて行う処置のことです。仁斉は、〈権とは、一人の能くするところにして、天下の公共にあらず。道とは、天下の公共にして、一人の私情にあらず〉と述べています。
 [堯・舜すでに没し邪説暴行又作るを論ず]では、〈道二つ。邪と正とのみ。天下あに常道より大なる者有らんや。もし常道を外にして、別に大道有りと謂うときは、すなわちそのいわゆる「大道」という者は、必ず是れ邪説なり。故に人倫の外道無く、仁義の外学無し。人の当に力を務むべきところの者は、人倫のみ〉とあります。道は、人と人との間にあるものであり、その外には無いものだというのです。
 『童子問』でも、道について大いに語られています。[童子問を刊する序]には、〈道の天下に在るや、処として到らずということ無く、時として然らずということ無く、聖人の為めにして存せず、小人の為にして亡びず、古今に亙って変ぜず、四海に放って準有り、日用彝倫の間に行なわれて、声も無く臭も無き理に非ず〉とあります。「彝」は常のことであり、「倫」は仲間のことです。それがどういうものか簡単にいうと、〈其の目四有り。曰く仁義禮智〉となります。
 『童子問』では、人が人倫という意味で使われる場合と、個人という意味で使われる場合があります。
 人が人倫という意味で使われる場合は、〈人の外に道無く、道の外に人無し。人を以て人の道を行う、何んの知り難く行い難きことか之れ有らん〉とあります。そのとき、〈道とは何ぞ。父子に在っては之を親と謂い、君臣には之を義と謂い、夫婦には之を別と謂い、昆弟には之を序と謂い、朋友には之を信と謂う〉のです。人倫における交わりが道なのだとされています。
 人が個人という意味で使われる場合は、〈道とは人有ると人無きとを待たず、本來自ら有るの物、天地に満ち、人倫に徹し、時として然らずということ無く、處として在らずということ無し〉とあります。道は、個人という単位に関係なく存在するとされています。では、どの単位で存在するのかというと、もちろん人倫という単位です。
 他にも『童子問』から、道について論じられているところをいくつか挙げてみます。〈卑近を忽にする者は、道を識るに非ず〉、〈人道の仁義有るは、猶天道の陰陽有るがごとし。仁義を外にして豈に復た道有らんや〉、〈王道は即ち仁義、仁義の外、復王道有るに非ず〉、〈俗の外に道無く、道の外俗無し〉、〈夫れ道は仁義禮智に至って極まり、教は孝弟忠信に至って盡く〉、〈陰陽往來して、天道成る。剛柔相濟して地道成る。仁義相須いて、人道成る。天の道は陰陽に盡き、地の道は剛柔に盡き、人の道は仁義に盡く〉、〈道とは、中庸に至って極まる〉など、道について様々な角度から語られています。

 


 第二項 伊藤東涯
 伊藤東涯(1670~1736)は、江戸中期の古学派の儒学者です。当時、江戸の荻生徂徠と並び称された大儒です。伊藤仁斎の長男であり、父の思想を祖述し、普及に努めました。
 『古今学変』では、〈道とは何ぞ。仁是れなり〉とあります。仁斉は道を仁だけに限定するのを嫌う傾向がありますが、東涯は道を仁だとはっきりと述べています。
 道と徳の関係については、〈衆人の上に就いて、その同じく行なうところをもって言うときは、すなわちこれを道と謂う。各人の上に就いて、その倶に得るところをもって言うときは、すなわちこれを徳と謂う〉と述べています。
 道と学の関係については、〈道 万世に易わらずして、学に古今の異有り〉とあります。道は変わらないものですが、学問には古今で異なるところがあるとされています。

 


第七節 古学派・古文辞学
 本節では、古学派の中でも古文辞学と呼ばれる類型について述べます。古文辞学は、荻生徂徠に代表されます。

 

 第一項 荻生徂徠
 荻生徂徠(1666~1728)は、江戸中期の古学派を代表する儒学者です。朱子学や仁斉学を批判し、中国明代の古文辞派から示唆を受けて、六経に依拠した古文辞学を唱えました。
 『弁道』には、〈道は知り難く、また言ひ難し。その大なるがための故なり。後世の儒者は、おのおの見る所を道とす。みな一端なり。それ道は、先王の道なり〉とあります。そこでは、〈孔子の道は、先王の道なり。先王の道は、天下を安んずるの道なり〉と考えられています。
 では、先王の道とは何かというと、〈道なる者は統名なり。礼楽刑政凡そ先王の建つる所の者を挙げて、合せてこれに命くるなり。礼楽刑政を離れて別にいはゆる道なる者あるに非ざるなり〉と語られています。統名とは、礼節・音楽・刑罰・政治など多くを総括した名称です。〈先王の道は、先王の造る所なり。天地自然の道に非ざるなり〉と徂徠は考えます。そこでは、〈礼楽刑政は、先王これを以て天下を安んずるの道を尽くせり。これいはゆる仁なり〉ということになります。そのため、〈故に人の道は、一人を以て言ふに非ざるなり。必ず億万人を合して言をなす者なり〉と語られるのです。人の道は、たくさんの人々有ってのものなのです。そこでは、〈故に先王の道は、礼を以て心を制す〉とされ、〈故に聖人の道は、養ひて以てこれを成すに在り〉と語られています。
 『弁名』でも、同様に語られています。『弁名』には、〈道なる者は統名なり。由る所あるを以てこれを言ふ。けだし古先聖王の立つる所にして、天下後世の人をしてこれに由りて以て行はしめ、しかうして己もまたこれに由りて以て行ふなり。これを人の道路に由りて以て行くに辟ふ。故にこれを道と謂ふ。孝悌仁義より、以て礼楽刑政に至るまで、合せて以てこれに名づく、故に統名と曰ふなり〉とあります。道は、礼節・音楽・刑罰・政治や孝悌仁義などを合わせた統名だというのです。それは聖王の立てたところであり、人が行う基準であると語られています。
 その道ですが、〈けだし道なる者は、堯舜の立つる所にして、万世これに因る。然れどもまた、時に随ひて変易する者あり。故に一代の聖人は、更定する所あり〉と、聖人が道を変更することについて述べられています。これは以前の道に足りないところがあるからでも、以前の道には既に至ったからでも、新しいものを善しとするからでもありません。〈一代の聖人には、数百歳の後を前知して、これを以て世運を維持し、遽かには衰へに趨かざらしむる所の者の存することあり〉と、聖人の未来を見通す知恵の偉大さが示された上で、〈聖人の智に非ざるよりは、いまだその更改する所以の意を与り知ること能はざる者なり〉と、聖人でなければ道の変更理由は分からないとされているのです。『徂來先生答問書』においては、〈古の聖人之智は、古今を貫透して今日様々の弊迄明に御覧候〉とあります。聖人の知恵は、古今を通じて今日の様々な弊害まで明らかに見通していると考えられています。
 道と徳の関係については、〈徳なる者は得なり。人おのおの道に得る所あるを謂ふなり〉とあります。道と理の関係については、〈ただ道はこれを行ふを主とし、理はこれを見るを主とす〉とあります。
 『学則』では、〈世は言を載せて以て遷り、言は道を載せて以て遷る。道の明らかならざるは、職としてこれにこれ由る〉とあります。時代の変遷とともに言葉が変遷し、言葉の変遷とともに先王の道が変遷します。これを主な理由として、道は明らかに成りがたいと語られているのです。

 


 第二項 太宰春臺
 太宰春臺(1680~1747)は、江戸中期の儒学者です。徂徠学派の一人です。
 『経済録』では荻生徂徠の影響から、〈孔子之道者、先王之道也。先王之道ハ、天下ヲ治ル道也。先王ノ道ハ、六経ニ在リ〉とあります。孔子の道は先王の道であり、それは天下を治める道で、六経という書物に示されていると考えられています。
 『聖学問答』には、〈道は、帝王の天下を治め人民を安んずる所以の物なり。斯の物を作す、これを聖と謂ふ〉とあります。『礼記』の楽記篇に〈作る者これを聖と謂ふ〉とあるのを受けています。天下を治め人民を安心させる道は、聖人が作ったものなのだと語られているのです。

 


 第三項 亀井昭陽
 亀井昭陽(1773~1836)は、江戸後期の儒者です。学問上の特徴として、徂徠学を基調としつつ、実際的機能における朱子学の有効性も否定していないことが挙げられます。
 『読辨道』には、〈道は其れ何するものか。唯だ聖人、能くその全きを観て、これを建つるを為す。後世、囂囂。而して道は則ち巋然たり〉とあります。囂囂とは、喧しいさまです。巋然とは、独り立ちしているさまです。道について、後世の人たちが色々と喧しく述べていますが、道は独立しているのだと語られています。

 


 第四項 広瀬淡窓
 広瀬淡窓(1782~1856)は、江戸後期の儒学者です。近世最大規模といわれる私塾の咸宜園を創設して、三千人余りの門弟を教育しました。
 『約言』では、〈道の帰を論じて、これを敬天と謂ふ〉とあります。道の落ち着くところは天を敬うことだと述べています。また、治と教について、〈治なるものは教への具、教へなるものは治の本、合してこれを言へば道なり〉と述べています。治めることは教えることを備え、教えることは治める本で、併せて道だというのです。

 


第八節 近世の儒者
 近世の儒者について述べます。近世の儒者は、西欧と直面した状況において言説を展開しています。

 

 第一項 横井小楠
 横井小楠(1809~1869)は江戸末期の熊本藩士です。富国強兵を説き、公武合体運動で活躍しましたが、明治維新後に暗殺されました。
 『夷虜応接大意』では、〈我国の万国に勝れ世界にて君子国とも称せらるるは、天地の心を体し仁義を重んずるを以て也。されば亜墨利加(あめりか)・魯西亜(ろしあ)の使節に応接するも、只此天地仁義の大道を貫くの条理を得るに有り〉とあります。 亜墨利加・魯西亜の使節とは、嘉永六年六月三日浦賀に入港したアメリカ使節ペリー、同七月十八日長崎に来航したロシア使節プチャーチンを指します。日本が優れているのは仁義を重んじるからであり、その仁義をもってアメリカやロシアと応接すべきだと語られています。そうすることで、大道を貫く条理を得ることができると考えられています。つまり、〈凡我国の外夷に処するの国是たるや、有道の国は通信を許し、無道の国は拒絶するの二ツ也〉というわけです。
 『国是三論』では、〈天地の気運に乗じ万国の事情に随ひ、公共の道を以て天下を経綸せば万方無碍にして、今日の憂る所は惣て憂るに足らざるに至るべきなり〉と公共の道について述べています。天地の気運とは、時の勢いのことです。万方無碍とは、すべての方面でさわりのないことです。時勢や各国の事情に従い、公共の道によって国の秩序を整えてすべての方向に対処すれば、問題はないのだと語られています。
 人の道については、〈曰、凡人と生れては必父母あり。士となりては必君あり。君父に事(つかう)るに忠孝を竭すべきは、人の人たる道なる事を知るは固有の天性にして、教を待て知るに非ず。其道を尽さん事を思ふよりして、徳性に本づき条理に求め、是を有道に正すは文の事也。其心を治め其胆を練り、是を伎芸に験(こころ)み事業を試るは武の事也〉とあります。其道を尽さん事とは、忠孝の道を十分に実践することです。有道に正すとは、道を体得している人について正しく導くことです。忠孝は人間の天性であり、教えられて知るものではないとされています。人の徳の性質に基づき条理を求めるのは文であり、心を鍛えて事業に臨むのは武だと語られています。

 


 第二項 橋本左内
 橋本左内(1834~1859)は幕末の福井藩士です。杉田玄白らに蘭学・医学を学び、藩政改革に尽力しました。安政の大獄で斬(ざん)罪(ざい)に処されました。
 『学制に関する意見?子』では、〈聖人の道と申も、畢竟人倫日用之外には之れ無き候得ば、物外之道にてはなし〉とあります。聖人の道といえども、人間の日常の外にあるものではないとされています。具体的な事物以外に道理はないのだと語られています。

 

 

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