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『日本式 正道論:第五章 武士道』

【目次】
第一節 和歌
第二節 説話物語
第三節 軍記物語
第四節 家訓
 第一項 北条早雲
 第二項 黒田長政
 第三項 本多忠勝
第五節 甲陽軍鑑
第六節 兵法家伝書
第七節 五輪書
第八節 驢鞍橋
第九節 士道
 第一項 中江藤樹
 第二項 池田光政
 第三項 山鹿素行
 第四項 荻生徂徠
 第五項 林鳳岡
 第六項 五井蘭洲
 第七項 村田清風
第十節 葉隠
第十一節 武道初心集
第十二節 水戸学
 第一項 徳川斉昭
 第二項 会沢安
 第三項 藤田東湖
第十三節 幕末の志士
 第一項 横井小楠
 第二項 佐久間象山
 第三項 勝海舟
 第四項 西郷隆盛
 第五項 吉田松陰
 第六項 橋本佐内
 第七項 福沢諭吉
 第八項 坂本竜馬
 第九項 山岡鉄舟
 第十項 高杉晋作
第十四節 新渡戸稲造の武士道


『第五章 武士道』
 武士道は、日本の武士階級に由来する思想です。日本史において、武士階級が政治上の実権を掌握した期間はおよそ600年の長きに渡ります。
 武士の思想は時代とともに変遷していますが、大きく分けると、鎌倉時代に始まる戦場における主従関係を基にしたものと、江戸時代の天下太平における儒教の聖人の道に基づいたものに分類できます。前者は、献身奉公としての武者の習いであり、後者は武士を為政者とする士道(儒教的武士道)です。
 武士道は、武士たる者の身の処し方としての「武士の道」であり、武士道関連の書物には、武士の「道」についての伝統が展開されています。その影響は、武士が政治の実権を握った時代のみならず、その前後の期間にも見ることができます。本章では、日本の武士道における武士の「道」を見ていきます。

 


第一節 和歌
 『万葉集』の[巻第三・四四三]には、武士と書いて「ますらを」と読む用法が見られます。〈天雲の向伏す国の武士(ますらを)〉とあり、天雲が遠く地平につらなる国の勇敢な男が武士なのだと語られています。また、[巻第六・九七四]には〈丈夫の行くといふ道そおほろかに思ひて行くな大丈の伴〉とあります。つまり、雄々しい男子の行く道は、いいかげんに考えて行くな、雄々しい男子どもよ、と謡われているわけです。『万葉集』において既に、〈武士〉という単語があり、武士道の前身となる道が「丈夫の行くといふ道」として謡われているのがわかります。
 室町前期の勅撰和歌集である『風雅和歌集(1349~1349頃成立)』にも、「武士の道」を見つけることができます。[雑下・一八二三]に、〈命をばかろきになして武士の道より重き道あらめやは〉とあります。武士の道は、命よりも重いものだと考えられています。

 


第二節 説話物語
 日本の説話物語においても、武士道に連なる道を見ることができます。
 『今昔物語集』には、「弓箭の道」が語られています。〈我弓箭の道に足れり。今の世には討ち勝つを以て君とす〉とあり、勝つことの重要性が説かれています。他には、〈心太く手利き強力にして、思量のあることもいみじければ、公も此の人を兵の道に使はるゝに、聊か心もとなきことなかりき〉とあり、「兵の道」という表現を見ることができます。〈兵の道に極めて緩みなかりけり〉ともあります。「兵の道」という言葉は、『宇治拾遺物語』にも見ることができます。
 『十訓抄』には、〈最後に一矢射て、死なばやと思ふ。弓矢の道はさこそあれ〉とあります。また、〈弓箭の道は、敵に向ひて、勝負をあらはすのみにあらず、うちまかせたることにも、その徳多く聞ゆ〉ともあり、弓箭の道は敵に向って勝負を決するばかりではなく、多くのことに武芸は見られると語られています。
 無住(1226~1312)の『沙石集』には、〈武勇の道は、命を捨つべき事と知りながら〉という表現を見ることができます。

 


第三節 軍記物語
 軍記物語とは、平安時代末期から室町時代に至る武士集団の戦闘合戦を主題にした叙事文学のことです。その先駆的作品は『将門記』や『陸奥話記』です。編纂された時代の主従の道徳、情緒や献身、不惜身命の精神、家名と名を惜しむ武士のあるべき姿が、仏教、儒教、尊皇思想を背景に語られています。
 『保元物語』では、「弓矢取る者」について語られています。〈弓矢取る者のかかる事に遭ふは、願ふ所の幸ひなり〉とあり、武士たる者が名誉の戦死に逢うことは、願うところであり幸いであると語られています。また、「兵の道」や「武略の道」という表現も物語の中に見ることができます。
 『平治物語』では、「弓箭取り」や「弓矢取る身」などの表現が見られます。弓箭取りに関しては、〈弓箭取りと申し候ふは、殊に情けも深く、哀れをも知りて、助くべき者をば助け、罰すべき者をも許したまへばこそ、弓箭の冥加もありて、家門繁昌する慣らひにて候ふに〉とあります。つまり、武士は特に情け深く哀れを知り、助けるべき者を助け、罰すべき者も許し助けてこそ武芸に加護もあり、一家が繁昌することになると語られているのです。
 『平家物語』では、仏教的な因果論が語られています。その中で「坂東武者の習」や「弓矢とる身」などの表現が見られます。坂東武者の習に関しては、〈坂東武者の習として、かたきを目にかけ、河をへだつるいくさに、淵瀬きらふ様やある〉とあります。坂東武者(関東武士)の習わしとして、敵を目前にして、川を隔てた戦いに、淵だ瀬だと選り好みしていられるか、というわけです。
 『太平記』では、儒教的な名文論が語られています。その中で「弓矢取る身の習ひ」、「弓馬の道」、「弓矢の道」、「弓箭の道」、「侍の習ひ」などの表現が出てきます。弓矢取る身の習ひに関しては、〈大勢を以て押し懸けられ進らせ候ふ間、弓矢取る身の習ひにて候へば、恐れながら一矢仕つたるにて候ふ〉とあります。大軍勢で押し寄せられたとき、弓矢取る身の習いとして一矢報いたというのです。弓矢の道に関しては、〈述懐は私事、弓矢の道は、公界の儀、遁れぬところなり〉とあります。恨みは私事で弓矢の道は公の道理で、これは避けられないことだというのです。また、〈今更弱きを見て捨つるは、弓矢の道に非ず。力なきところなり。打死するより外の事あるまじ〉ともあります。今更に弱いものを見捨てるのは、弓矢の道ではないと言います。そのときに力がなければ、討死する他の選択肢はないというのです。
 歴史的な事実がどうあれ、軍記物語からは現実の武士が、武士としての規範を持っていたことが伺えます。そうでなければ、軍記物語において武士の理想が語られることはありえないからです。

 


第四節 家訓
 武士道に連なる道は、武家の家訓においても見ることができます。

 

 第一項 北条早雲
 北条早雲(1432~1519)は室町後期の武将です。
 『早雲寺殿廿一箇条』は、早雲が定めたと伝えられています。この家訓に、〈文武弓馬の道は常なり。記すに及ばず〉とあります。「弓馬の道」は当たり前のことであり、記すまでもないと語られています。

 

 第二項 黒田長政
 黒田長政(1568~1623)は、安土桃山から江戸初期の武将です。
 『黒田長政遺言』には、〈殊ヲ文武ノ道ヲワキマヘ、身ヲ立テ名ヲ上ント思フ程ノ士ハ、主君ヲ撰ビ仕ル者ナレバ、招カズシテ馳集ルベキ事勿論ナリ〉とあります。身を立て名を上げたいと思う武士は、主君を選ぶために招かれなくても馳せ参じるのだと語られています。戦国時代の主従関係を念頭においたもので、後代になると家訓にこれに類する文章は見られなくなります。

 

 第三項 本多忠勝
 本多忠勝(1548~1610)は、江戸初期の大名です。通称は平八郎です。
 『本多平八郎書』では、〈武士たるものは道にうとくしてはならず、道義を第一心懸べし。又、道に志し賢人の位にても、武芸を知らねば軍役立ず〉とあります。武士の道では道義が第一であるとともに、武芸も大事だと述べられています。

 


第五節 甲陽軍鑑
 『甲陽軍鑑』は、全20巻59品から成ります。内容は、甲州武田武士の事績や心構えや武将の条件などが記されています。戦国乱世に形成された武士の思想が集大成されています。武田家は1582年(天正10年)に滅亡しています。
 『甲陽軍鑑』の「甲」は、甲斐を意味します。「陽」は、万物が豊かに成長し、稔る意のことばで、「甲」を修飾しています。「軍鑑」は、戦いの歴史物語の意です。「鑑」には、歴史物語が世俗世界を映し出す鏡であり、後代のひとびとにとっての戒めであることが含意されています。
 『甲陽軍鑑』の〔品第六〕では、〈若しこの反古落ち散り、他国のひとの見給ひて、我家の仏尊しと存ずるやうに書くならば、武士の道にてさらにあるまじ。弓矢の儀は、たゞ敵・味方ともにかざりなく、ありやうに申し置くこそ武道なれ〉とあります。もしこの『甲陽軍鑑』が散らばって他国の人が読むとき、自分の領国の武将を贔屓目に書いていたのでは、それは「武士の道」ではないというのです。合戦では、敵味方を問わずに、ありのままに述べ伝えるのが「武道」だとされているのです。
 〔品第十三〕では、〈またよきひとは、各々ひとつ道理に参るにつき一段仲よきものにて候ぞ〉とあり、優れた武士はそれぞれ同一の道理に従うから、一段と仲がよいものだと語られています。
 〔品第十六〕では、〈其故は法をおもんじ奉り何事も無事にとばかりならば、諸侍男道のきつかけをはづし、みな不足を堪忍仕る臆病者になり候はん〉とあります。たとえ掟であっても、不足なことでも堪忍するのは「男道」のきっかけを外すものとされています。〈男道を、失ひ給はんこと、勿体なき義也〉ということから、〈某子どもに男道のきつかけをはづしても、堪忍いたせとあることは、聊も申し付けまじ〉と語られています。
 〔品第四七〕では、〈是は只の事にあらず侍道の事なれば、目安をもって信玄公の御さばきに仕られ〉とあり、ただ事ならざるものとしての「侍道」が語られています。

 


第六節 兵法家伝書
 柳生宗矩(1571~1646)は、江戸初期の剣術家です。徳川家康に仕え、徳川秀忠に新陰流を伝授しました。
 『兵法家伝書』では、〈道ある人は、本心にもとづきて妄心をうすくする故に尊し。無道の人は、本心かくれ妄心さかんなる故に、曲事のみにして、まがり濁たる名を取也〉とあります。道ある人とは、物事の道理をよくわきまえた人で、無道の人とは、道理をわきまえず、道理に反する人のことだと語られています。

 


第七節 五輪書
 宮本武蔵(1584~1645)の書に『五輪書』があります。宮本武蔵は江戸初期の剣法家で、二天一流兵法の祖です。『五輪書』は1643年(寛永20年)から死の直前にかけて書かれたと言われています。地水火風空の五大五輪にそって5巻構成です。
 [地之巻]では、〈武士は文武二道といひて、二つの道を嗜む事、是道也〉とあり、武士における文武両道が語られています。武士と云えば死の思想ですが、武蔵は〈大形武士の思ふ心をはかるに、武士は只死ぬといふ道を嗜む事と覚ゆるほどの儀也〉と述べています。
 宮本武蔵といえば兵法が有名ですが、〈武士の兵法をおこなふ道は、何事においても人にすぐるゝ所を本とし、或は一身の切合にかち、或は数人の戦に勝ち、主君の為、我身の為、名をあげ身をたてんと思ふ〉と述べられています。兵法を行う道では優れているということを基本とし、切り合いや戦に勝ち、主君や自身のために名を上げ身を立てるのです。そこでは〈何時にても、役にたつやうに稽古し、万事に至り、役にたつやうにをしゆる事、是兵法の実の道也〉と言われ、役に立つという有用性の観点から論じられています。そのため武士の道では、〈兵具しなじなの徳をわきまへたらんこそ、武士の道なるべけれ〉とあり、道具類の大切さが説かれています。その中でも刀は特別で、〈我朝において、しるもしらぬも腰におぶ事、武士の道也〉とあり、日本では刀を帯びることが武士の道だと述べられています。
 道全般については、〈其道にあらざるといふとも、道を広くしれば、物毎に出であふ事也。いづれも人間において、我道我道をよくみがく事肝要也〉とあり、自分自身の歩むべき道を磨くことが説かれています。
 [水之巻]では、〈太刀の道を知るといふは、常に我さす刀をゆび二つにてふる時も、道すぢ能くしりては自由にふるもの也。太刀をはやく振らんとするによつて、太刀の道さかひてふりがたし。太刀はふりよき程に静かにふる心也〉とあります。太刀の道について、太刀の扱い方が語られています。
 [火之巻]では、〈我兵法の直道、世界において誰か得ん〉とあります。わが二天一流の兵法の正しい道をこの世において誰が得られようか、と述べられています。
 [風之巻]では、〈おのづから武士の法の実の道に入り、うたがひなき心になす事、我兵法のをしへの道也〉とあります。自(おの)ずから武士の道に入り、疑いなき心に至ることが兵法の教えの道だとされています。
 [空之巻]では、「空」という概念が語られています。〈ある所をしりてなき所をしる、是則ち空也〉と語られるところのものが、空です。その空が、〈武士は兵法の道を慥に覚え、其外武芸を能くつとめ、武士のおこなふ道、少しもくらからず、心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなく、まよひの雲の晴れたる所こそ、実の空としるべき也〉と語られています。武士は兵法の道をしっかりと覚え、武芸をつとめて行う道に後ろ暗いところなく、心の迷いなく、その時その時で怠ることなく、心と意を磨き、見ること観ることを研ぎ澄ました曇りなく迷いない境地こそが空だというのです。そこでは、〈直なる所を本とし、実の心を道として、兵法を広くおこなひ、たゞしく明らかに、大きなる所をおもひとつて、空を道とし、道を空と見る所也〉とあり、「空」と「道」が関連付けられて語られています。真っ直ぐを基本とし、実の心を道として兵法を行い、正しく明らかに偉大なものを思い取るのが「空」であり「道」だというのです。
 また、宮本武蔵の『独行道』の中にも、道についての言及を見ることができます。〈世々の道をそむく事なし〉、〈いづれの道にも、わかれをかなしまず〉、〈道においては、死をいとはず思ふ〉、〈常に兵法の道をはなれず〉とあります。

 


第八節 驢鞍橋
 鈴木正三(1579~1655)は、江戸初期の禅僧です。徳川家康の家臣鈴木重次の長男として三河国に生まれています。
 『驢鞍橋』には、〈古來先達の行脚と云は、師を尋ね、道を求め、身命を顧みず、千萬里の行脚を作も有〉とあります。古くから先達の行脚というものは、師匠を訪ねて道を求め,身体や生命を顧みずに長い道のりを行くことだとされています。

 


第九節 士道
 士道とは、為政者としての武士が守り行うべき規範のことです。武士道と比較すると、儒教からの影響が色濃く反映されています。

 

 第一項 中江藤樹
 中江藤樹(1608~1648)は『翁問答』で、〈主君をかへたるを必ただしき士道と定めたるも、また主君をあまたかゆるを正しき士道とさだむるも、皆跡に泥みたる僻事也。心いさぎよく義理にかなひぬれば、二君につかへざるも、また主君をかえてつかふるも皆正しき士道也。そのをこなふ事はともあれかくもあれ、只その心いさぎよく義理にかなふを、ただしき士道也と得心あるべし〉と述べています。主君を変えることを正しい士道と定めることも、主君を変えないことを正しい士道と定めることも間違っていると藤樹は言います。心が潔く義理に適えば、二君に仕えても主君を変えても正しい士道なのだとされています。心が大事なのであり、行うところが義理に適っていれば良いのだと考えられています。

 

 第二項 池田光政
 池田光政(1609~1682)は、備前岡山藩主です。儒教を重んじ、新田開発・殖産興業に努めました。
 『池田光政日記』では、〈義を見て利を見ざる者は士の道なり〉とあります。士道では、利よりも義が大切だと語られています。

 

 第三項 山鹿素行
 山鹿素行(1622~1685)の説を門人たちが収録した書に『山鹿語類』があります。『山鹿語類』は1665年(寛文6年)に完成しています。泰平の世の武士のあるべき姿を、儒教道徳の面から「士道」として提唱しています。
 士道は、『山鹿語類』の[巻二十一・士道]で語られています。
 例えば、〈凡そ士の職と云は、其身を顧み、主人を得て奉公の忠を盡し、朋輩に交て信を厚くし、身の濁りを愼で義を専とするにあり〉とあります。士の職分とは、自らを顧みて奉公に励み、友と厚く交わり、身を慎んで義につとめることだとされています。そこで、〈文道心にたり武備外に調て、三民自ら是を師とし是を貴んで、其教にしたがひ其本末をしるにたれり〉とあり、文が内心に充実し武が外形に備われば、三民(農工商)は士を師として貴び、その教えにしたがい物事の順序を知ることができるのだと語られています。〈人既に我職分を究明するに及んでは、其職分をつとむるに道なくんばあるべからざれば、こゝに於て道といふものに志出來るべき事也〉とあり、人が自分の職分を明らかにした段階において、その職分をつとめるためには道がなければならないので、ここで、道というものに対する志が出てくるのだと語られています。
 道の志が出た場合は、〈外を尋ね学ぶと云ども、外に聖人の師なくんば、自立皈て内に省みべし、内に省ると云は、聖人の道聊しいて致す処なく、唯天徳の自然にまかせて至る教のみなれば、我に志の立処あらんには、事は習知て至るべく、其本意は推して自得するに在べき也〉とあります。道は外に師を求めて学ぶべきなのですが、聖人の道へと導いてくれるよき師がいないというなら、自らに立ち返って内面を顧みるべきだと述べられています。聖人の道というものは、強制してするというところは少しもなく、ただ天の徳にまかせて自(おの)ずから至る教えなのですから、自分が志を立てた以上は礼などの外形的なことは習うことによって身につけられるし、その本意はそこから推しすすめることで自得することができるとされています。そこで、〈〈我説く所の理更に遠からず離れるべからず、人々皆日用之間によって、而其心に快きを号して道と云、其内にやましきを人欲と云、唯此両般のみ也、日用の事豈に忽せにすべき乎〉と語られています。素行のいうところの理とは、特別に深遠なものではなく、身近なものであり、また、その人によるというものでもないのです。人はみなその日常において自分の心にこころよく感ずるものを道といい、心にやましく感ずるものを人欲とよんでいるというのです。要はただこの二つだけなのであり、日常の事をおろそかにしてはいけないのだと語られているのです。

 

 第四項 荻生徂徠
 荻生徂徠(1666~1728)は『答問書』で、〈世上に武士道と申習し申候一筋、古之書に之有り候君子の道にもかなひ、人を治むる道にも成ると申すべき哉之由御尋候〉と述べています。武士道は、儒教における君子の道に適うというのです。

 

 第五項 林鳳岡
 林鳳岡(1644~1732)は江戸中期の儒学者です。
 『復讐論』には、〈生を偸(ぬす)み恥を忍ぶは、士の道に非ざるなり〉とあります。士道は、死を覚悟し恥を雪(すす)ぐものだと語られています。

 

 第六項 五井蘭洲
 五井蘭洲(1697~1762)は江戸中期の儒者です。
 『駁太宰純赤穂四十六士論』には、〈義なる者は、天下の同じうする所にして、その為す所や義に当らば、何ぞおのづから一道ありと為さん。苟くも義に当らずんば、則ちまた以て道と為すに足らず。これみな武人俗吏の談にして、士君子の辞に非ず〉とあります。武人の道には、義がなければならないと語られています。

 

 第七項 村田清風
 村田清風(1783~1855)は、日本の武士で長州藩士です。藩主・毛利敬親の下、天保の改革に取り組みました。
 『海防糸口』には、〈夫生する者は死するは常なり、唯死を善道に守るべし〉とあります。生きとし生けるものは、すべて死を迎えます。その覚悟の上で、死において善なる道を守るというのです。また、〈道は太極の如し。二つに割れば文武と成、或は忠孝となる。陰陽両儀の如し〉ともあります。道は、文武・忠孝・陰陽というように両義的なものとして考えられています。

 


第十節 葉隠
 武士道といえば、山本常朝(1659~1719)の『葉隠』が有名です。『葉隠』は武士の奉公の心得を説いた書です。
 [聞書一]には、〈その道々にては、其家の本尊をこそ尊び申候〉とあります。道々には、仏道・儒道・兵法などが挙げられています。道においては、自分の家の大切なものを尊ぶべきだと語られています。その道の中でも、武士道については、〈武士道と云は、死ぬ事と見付たり〉という有名な言葉が語られています。〈二つふたつの場にて、早く死方に片付ばかり也〉というわけです。生きるか死ぬかの場面では、死を選び取るのが武士道なのだとされています。
 常朝の語る道は、〈道といふは何も入れず、我非を知事也。念々に非を知て、一生打置かずを道と云也〉というものです。自分の非を知ることが道だとされています。ですから道は一生に関わり、〈只「是も非也非也」と思ひて「何としたらば道に可叶うべき哉」と一生探捉し、心を守て打置ことなく、執行仕えるべき也。此内に即道有也〉と語られています。一生の間、自らの足りないところを思い、どうしたら道に適うかと探し求めることが道として示されています。その道には、盛衰と善悪が分けて論じられています。〈盛衰を以て人の善悪は沙汰されぬこと也。盛衰は天然のこと也。善悪は人の道也。教訓のためには盛衰を以ていふ也〉とあります。栄枯盛衰は天然のことであり、善悪は人の道だとされています。栄枯盛衰によって善悪を言うことはできないとされています。ですから武士道においては善悪のために「死」の覚悟が求められ、〈武士道は死狂ひ也。一人の殺害を数十人して仕かぬるもの也〉と語られ、士道についても、〈士道におゐては死狂ひ也。此内に忠・孝は自こもるべし〉と語られているのです。そこでは、〈何しに劣るべきと思ひて一度打向ば、最早其道に入たるなり〉という覚悟が必要とされています。
 道は一生に関わりますから、〈修行に於ては、是迄、成就といふ事はなし。成就といふ所、其まま道に背なり〉と述べられています。修行においては成就するということはありえないと考えられています。成就するということは、道ではないというのです。そのため、〈我非を知て一生道を探捉するものは、御国の宝と成候也〉とあり、自らの非を知り、道を求める者は国の宝だとされています。ちなみに、ここでの国は佐賀藩を指しています。
 [聞書二]では、〈武道は毎朝まいあさ死習ひ、彼に付、是に付、死ては見みして切れ切て置一也。尤大義にてはあれ共、すれば成事也。すまじきことにてはなし〉とあります。「切れ切て置」とは、死に心をはっきりきめておくということです。「すまじきことにてはなし」とは、できないことはないということです。つまり、武道では毎朝何事においても、死に心をはっきりと決めておくことで、大義を成すことができるというのです。できないことはないと考えているのです。
 また、〈非を知て探捉するが、則取も直さず道なり〉とあります。自分の非を知り、探し求めることが道として示されています。人間は、その途上において死ぬというのです。

 


第十一節 武道初心集
 大道寺友山(1639~1730)は江戸中期の武士です。ほぼ同時期の『葉隠』と並び称される『武道初心集』の著者として知られています。『武道初心集』は主君や藩に対する奉公人の心構えを述べています。
 『武道初心集』には、〈武士たらんものは正月元旦の朝雑煮の餅を祝うとて箸を取初るより其年の大晦日の夕に至る迄日々夜々死を常に心にあつるを以本意の第一とは仕るにて候。死をさへ常に心にあて候へば忠孝の二つの道にも相叶ひ萬の悪事災難をも遁れ其身無病息災にして壽命長久に剰へ其人がら迄も宜く罷成其徳多き事に候〉とあります。武士は死を常に心掛けることが第一とされています。死を常に心掛ければ、忠孝の二つの道にも適合し、人格の徳も備わると考えられています。
 そのためにも、〈武士たらんものは義不義の二つをとくと其心に得徳仕り専ら義をつとめて不義の行跡をつゝしむべきとさへ覚悟仕り候へば武士道は立申にて候〉と語られています。武士が義を行い、不義を行わなければ、武士道は立つというのです。義を行うことについては、上等な順に次の三種類が上げられています。〈誠によく義を行ふい人〉、〈心に恥て義を行ふ人〉、〈人を恥て義を行ふ人〉です。
 また、〈武士道の学文と申は内心に道を修し外かたちに法をたもつといふより外の義は無之候。心に道を修すると申は武士道正義正法の理にしたがひて事を取斗らひ毛頭も不義邪道の方へ赴かざるごとくと相心得る義也〉とあります。武士道では、心の内に道を修め、外形において法を保つのだと考えられています。心に道を修めるとは、正しいことをし、不義へ進まないことだとされています。さらには、〈大身小身共に武士たらんものは勝と云文字の道理を能心得べきもの也〉と語られ、武士には「勝つ」という道理を心得ることが説かれています。
 そして、〈武士たらんものは大小上下をかぎらず第一の心懸たしなみと申は其身の果ぎわ一命の終る時の善悪にとゞまり申候〉とあり、命の散り際におけるまで善悪の観念に留まるべきことが語られています。そのために、武士道にとって肝心なこととして、〈武士道の噂さにおいて肝要と沙汰仕つは忠義勇の三つにとゞまり申候〉と示されています。

 


第十二節 水戸学
 水戸学とは、『大日本史』の編纂事業を遂行する過程で水戸藩に起こった学問です。幕末には内憂外患のもとで、国家的危機を克服するための思想が形成されました。

 

 第一項 徳川斉昭
 徳川斉昭(1800~1860)は、江戸時代後期の水戸藩主です。会沢安や藤田東湖らを登用し、藩政を行いました。
 『弘道館記』は、弘道館の教育方針を宣言した書です。藤田東湖が起草し、1838 年に徳川斉昭の名で公表されました。そこには〈弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経にして、生民の須臾も離るべからざるものなり〉とあります。人よく道を弘むとは、人に備っている道は人の力によって世に行われるという意味です。それが、道を世に弘め行う力なのです。『論語』の[衛霊公]篇からの影響が見られます。

 

 第二項 会沢安
 会沢安(1782~1863)は、幕末の水戸藩士で儒者です。号は正志斎です。藤田東湖らと藩政を行いました。
 『新論』には、〈詭術と正道とは、相反すること氷炭のごとし〉とあります。正道については、他にも、〈政令刑禁は、典礼教化と、並び陳(つら)ね兼ね施して、民を軌物に納れ、正気に乗じて正道を行ひ、皇極すでに立つて、民心主あり。民の欲するところは、すなはち天の従ふところなり〉とあります。政治上の命令や刑罰は、儀礼や教えに適うように施し、民を法度に納得させ、正気によって正道を行うべきだというのです。そうすれば、治世の大方針はすでに立っており、民の心は天の従うところだというのです。
 『退食間話』には、〈中庸の語は道の立たる本を論ぜし詞なり〉とあります。また、〈父子あれば親あり、君臣あれば義あり、是皆天下の大道・正路にして、一人の私言に非ず。聖賢、上にあれば、政教を施して、道を天下に行ひ、下に在れば、言を立て材を育して、道を後世に伝ふ。道は大路のごとし〉とあります。親子は親しみ、君臣には義があるということは、天下の大道であり、一人が勝手に言っていることではないというのです。賢い人が高い地位にあれば政策や教育を施して天下に道を行い、低い地位なら言葉によって人材を育成して道を後世に伝えるのだと語られています。

 

 第三項 藤田東湖
 藤田東湖(1805~1855)は、江戸時代後期から幕末期の水戸藩士です。対外的危機に対し、国民的伝統たる正気を発揮して国家の独立と統一を確保すべきことを説きました。正気とは、忠君愛国の道義的精神のことです。
 著作である『壬辰封事』には、〈中庸ノ道ト云ハ、万物ノ理ヲ尽シ、事ニヨリ品ニヨリ、夫々其理ノ当然ニ叶フテコソ中庸トハイフベケレ〉とあります。中庸の道は、万物の理によってそれぞれの理に適うことだと考えられています。

 


第十三節 幕末の志士
 幕末という激動の時代においても、幕末の志士たちは武士道を論じています。

 

 第一項 横井小楠
 横井小楠(1809~1869)は江戸末期の熊本藩士です。
 『国是三論』には、〈元来武は士道の本体なれば、已に克く其武士たるを知れば、武士道をしらずしてはあるまじきを知り、其武士道を知らんと欲すれば、綱常に本付き、上は君父に事ふるより下は朋友に交るに至り、家を斉へ国を治るの道を講究せざる事を得ず〉とあります。武士ならば武士道を知るべきであり、武士道においては人との交わりを通じて、家を整え国を治める道を求めるべきことが語られています。

 

 第二項 佐久間象山
 佐久間象山(1811~1864)は江戸末期の学者です。初め朱子学を、後に蘭学を修め、西欧の科学技術の摂取による国力の充実を主張しました。
 『省?録(せいけんろく)』には、〈行ふところの道は、もつて自から安んずべし。得るところの事は、もつて自から楽しむべし。罪の有無は我にあるのみ。外より至るものは、あに憂戚するに足らんや〉とあります。憂戚とは、うれえいたむことです。行くところの道は、自分が安らかになるべきであり、得られるところで自分が楽しむべきだとされています。罪は自身の内にあるのであって、外から来るものは気にするに及ばないのだと考えられています。また、〈ああ、人情に通じて人を服せしむるものは、自からその道のあるあり〉とあります。人情に通じて人を感服させられるなら、自(おの)ずから道があるというのです。

 

 第三項 勝海舟
 勝海舟(1823~1899)は、幕末・明治の政治家です。蘭学・兵学を学び、幕府使節とともに咸臨丸にて渡米しています。幕府海軍育成に尽力しました。また幕府側代表として西郷隆盛と会見し、江戸城の無血開城を実現しました。
 『氷川清話』には、〈おれは常に世の中には道といふものがあると思つて、楽しんで居た〉とあります。また、〈主義といひ、道といひて、必ずこれのみと断定するのは、おれは昔から好まない。単に道といつても、道には大小厚薄濃淡の差がある。しかるにその一を揚げて他を排斥するのは、おれの取らないところだ〉とあります。それは、〈もしわが守るところが大道であるなら、他の小道は小道として放つておけばよいではないか。智慧の研究は、棺の蓋をするときに終るのだ。かういふ考へを始終持つてゐると実に面白いヨ〉という考え方によります。〈男児世に処する、たゞ誠意正心をもつて現在に応ずるだけの事さ。あてにもならない後世の歴史が、狂といはうが、賊といはうが、そんな事は構ふものか。要するに、処世の秘訣は誠の一字だ〉というわけです。

 

 第四項 西郷隆盛
 西郷隆盛(1828~1877)は、薩摩出身の武士です。通称は吉之助で、号は南洲です。討幕の指導者として薩長同盟・戊辰戦争を遂行し、維新三傑の一人と称されました。征韓論に関する政変で下野し、西南戦争に敗れ、城山で自死し生涯を終えます。
 『南洲翁遺訓』には、〈廟堂に立ちて大政を為すは天道を行うものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を撰挙し、能く其の職に任うる人を挙げて政柄を執らしむるは即ち天意なり〉とあります。祖先を祭るという場所に立って政治を行うことは、天道に適うことであるので私心を挟んではならないと語られています。公平に正道を歩み、賢人を採用し職に合う人を選んで政治を行うことは、天意なのだと考えられています。そこで、〈事大小となく、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用うべからず〉とあり、事態の大小に関わらず、正道を歩み、誠を尽くすことが大事であり、はかりごとを用いてはならないのだと語られています。
 西郷隆盛は、道は国家を超えた共通性を持つと同時に、国家の威信に関わるものと考えています。例えば、〈忠孝仁愛教化の道は、政事の大本にして、万世に亘り、宇宙に弥り、易うべからざるの要道なり。道は天地自然のものなれば、西洋と雖も決して別なし〉とあります。道は天地自然であり、すべてに関わるとされています。その神髄は〈文明とは道の普く行わるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳・衣服の美麗・外観の浮華を言うにはあらず〉と語られています。文明とは道が行われていることの尊称であり、豪華な外見などではないということです。そこで〈節義廉恥を失いて国を維持するの道決してあらず、西洋各国同然なり〉と言い、道の国家を超えた共通性が述べられているのです。国家の威信については、〈正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かるべからず、彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順するときは、軽侮を招き、好親却って破れ、終に彼の制を受くるに至らん〉と語られています。国が倒れようとも正道を行くという覚悟が必要なことが説かれています。〈国の凌辱せらるるに当りては、縦令国を以て斃るるとも正道を践み、義を尽すは政府の本務なり〉とも語られています。政府は、国が侮辱されたならば、国が倒れようとも正道を行き義を尽くすのが本務なのだというのです。
 また、西郷隆盛と言えば敬天愛人が有名です。〈道は天地自然の道なるがゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに、克己を以て終始せよ〉と語られています。〈道は天地自然のものにして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給う故、我を愛する心を以て人を愛するなり〉というわけです。
 道とは、〈道を行うには尊卑貴賤の差別なし〉とあるように、誰もが道を行いえるとされています。〈道を行うものは、固より困厄に逢うものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生などに、少しも関係せぬものなり。事には上手下手あり、物には出来る人・出来ざる人あるより、自然心を動かす人もあれども、人は道を行うものゆえ、道を踏むには上手下手もなく、出来ざる人もなし。故に只管、道を行い道を楽しみ、若し艱難に逢うてこれを凌がんとならば、弥々道を行い道を楽しむべし〉とあります。道を行うということに、生きるか死ぬかは関係ないと考えられています。道を行うには才能も関係なく、道を行うことを楽しみ、困難に打ち勝とうとすればよいというのです。そこにおいて、ますます道を行うことを楽しむべきことが語られています。
 これらを踏まえ、〈命もいらず、名もいらず官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり〉と語られています。

 

 第五項 吉田松陰
 吉田松陰(1830~1859)は、幕末の思想家で尊王論者です。名は矩方(のりかた)で、通称は寅次郎です。萩に松下村塾を開き、多くの維新功績者を育成しましたが、安政の大獄で刑死しました。
 『講孟余話』には、〈経書を読むの第一義は、聖賢に阿ねらぬこと要なり。若し少しにても阿る所あれば、道明ならず、学ぶとも益なくして害あり。孔孟生國を離れて、他國に事へ給ふこと済まぬことなり〉とあります。聖人の本を読むときも、それにおもねってはいけないと語られています。おもねれば、他国に仕えることになってしまうからと説明されています。
 人臣の道については、〈道を明にして功を計らず、義を正して利を計らずとこそ云へ、君に事へて遇はざる時は、諫死するも可なり。幽囚するも可なり、饑餓するも可也。是等の事に遇へば其身は功業も名誉も無き如くなれども、人臣の道を失わず、永く後世の模範となり、必ず其風を観感して興起する者あり。遂には其國風一定して、賢愚貴賤なべて節義を崇尚する如くなるなり〉とあります。道においては義を正しくするのであって、利益を計るようなことはしないのだと説かれています。人臣の道は、諌めることで死ぬことも、捕らえられることも、飢えることも覚悟すべきだというのです。我が身の名誉は失われるとしても、永く後世の模範となるからです。その模範があれば、国民は節義を尊ぶようになるのだと語られています。
 道一般については、〈人と生れて人の道を知らず。臣と生れて臣の道を知らず。子と生れて子の道を知らず。士と生れて士の道を知らず。豈恥づべきの至りならずや。若し是を恥るの心あらば、書を讀道を學ぶの外術あることなし。已に其數箇の道を知るに至らば、我心に於て豈悦ばしからざらんや〉とあります。人には人それぞれの道があり、その道を知らないでいることは恥ずべきことだというのです。恥じる心があるなら、本を読み道を学ぶべきだとされています。道を知ることは、喜ばしいことだと考えられています。士道については、〈然れども汝は汝たり、我は我たり。人こそ如何とも謂へ。吾願くは諸君と志を勵まし、士道を講究し、恆心を?磨し、其武道武義をして武門武士の名に負くことなからしめば、滅死すと雖ども萬々遺憾あることなし。豈愉快の甚しきに非ずや〉とあります。我は我であり、汝は汝だというのです。その差は決定的ですが、願うならば皆で志を励まし合い、士道を解き明かしたいと語られています。そこにおいて進むなら、死ぬことになっても遺憾はなく、それどころか愉快だとさえいうのです。
 以上のように、松陰においては日本という国が意識されています。〈國體の最も重きこと知るべし。然ども道は惣名也。故に大小精粗皆是を道と云。然れば國體も亦道也〉とあります。日本の国体は道なのだとされています。
 また、安政二年に記された『士規七則』には、〈士の道は義より大なるはなし。義は勇に因りて行はれ、勇は義に因りて長ず〉とあります。
 安政三年の『書簡』では、〈有志の士、時を同じうして生れ、同じく斯の道を求むるは至歓なり。而れども一事合はざるものあるときは、己れを枉(ま)げて人に殉ふべからず、又、人を要して己れに帰せしむべからず。ここを以て反覆論弁、余力を遺さず〉とあります。道を共に求めることができるということは、素晴らしいことだと語られています。ですが、自分を枉げて人に迎合するならば、自分のためにもなりません。そのときは徹底抗戦すべきだというのです。
 安政六年の『書簡』には、〈皇神の誓おきたる国なれば正しき道のいかで絶べき〉とあり、日本は天皇や神々の誓いがある国なのです正道は絶えることがないと述べられています。〈道守る人も時には埋もれどもみちしたゑねばあらわれもせめ〉ともあり、時には道を守る人が埋もれてしまうのだとしても、道を慕わねば道を守る人が現れることはないのだと語られています。ですから、道を慕うべきことが示されているのです。

 

 第六項 橋本佐内
 橋本左内(1834~1859)は、福井藩士で幕末の志士です。藩政改革に尽力し、安政の大獄で斬罪に処されました。
 『啓発録』には、〈稚心とは、をさな心と云ふ事にて、俗にいふわらびしきことなり〉とあり、〈余稚心を去るをもつて、士の道に入る始めと存じ候なり〉とあります。子供じみた心を去ることで、武士の道に入るのだと考えられています。
 友人関係については、〈吾が身を厳重に致し付合ひ候て、必ず狎昵致し吾が道を褻さぬやうにして、何とか工夫を凝して、その者を正道に導き、武道学問の筋に勧め込み候事、友道なれ〉とあります。吾が身を引き締め、吾が道をけがすことのないように工夫して、友人を正しい道へと導き、武道や学問に関心を持つように仕向けることが友道だというのです。
 左内は、〈後世必ず吾が心を知り、吾が志を憐み、吾が道を信ずる者あらんか〉と述べています。後の世に、吾が心や志に同情し、吾が道が正しいと認めてくれる者が現れることを願っているのです。
 また、左内の『書簡』には、〈実に尚武の風を忠実の心にて守り候はば、風俗もますます敦重に相成り、士道もますます興起仕り、国勢国体万邦に卓出仕るべく候事、目前に御座候〉とあります。尚武の気風を忠義と実直の精神で守り伝えて行けば、風俗は情味篤く質朴になり、武士道も盛んに興り、我が国の勢いが優れたものになることも遠くないというのです。

 

 第七項 福沢諭吉
 福沢諭吉(1835~1901)は、啓蒙思想家で教育家です。
 『福翁百話』には、〈唯真実の武士は自から武士として独り自から武士道を守るのみ。故に今の独立の士人もその独立の法を昔年の武士の如くにして大なる過なかるべし〉とあります。武士ならば独り自(おの)ずから武士道を守るのみとされ、それは今も昔も変わりないと語られています。

 

 第八項 坂本竜馬
 坂本竜馬(1836~1867)は、土佐藩出身の幕末の志士です。幕府の海軍創設に奔走し、薩長同盟を成立させました。
 『船中八策』では、統一国家構想を示しています。そこで八つの策を提示した後の文で、〈伏テ願クハ、公明正大ノ道理ニ基キ一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン〉と、公明正大ノ道理を示しています。

 

 第九項 山岡鉄舟
 山岡鉄舟(1836~1888)は江戸末期から明治の政治家であり、無刀流剣術の流祖です。通称、鉄太郎です。戊辰(ぼしん)戦争の際、勝海舟の使者として西郷隆盛を説き、西郷・勝の会談を実現させ、江戸城の無血開城へと導きました。明治維新後、明治天皇の侍従などを歴任しました。
 『剣禅話』の[修養論]には、〈我が邦人に一種微妙の道念あり。神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎之を名付て武士道と云ふ〉とあります。武門における道を武士道とし、神道・儒道・仏道の融和した思想として捉えています。その武士道は、〈善なると知りたる上は直に実行に顕はし来るを以て武士道とは申すなり〉とあり、善による実践が説かれています。さらに武士道に関して、〈而して武士道は、本来心を元として形に発動するものなれば、形は時に従ひ事に応じて変化遷転極りなきものなり〉と示されています。

 

 第十項 高杉晋作
 高杉晋作(1839~1867)は、日本の武士で長州藩士です。幕末に尊王倒幕志士として活躍しました。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けました。
 『遊清五録』には、〈士を取るに多くは武を以てす。故に我邦は武文の人を以て有道者と為す。考試も亦た多くは武を以てし、或は文を以てする者あり。人を教ふるに忠孝の道を以てす。天照太神と孔夫子と異あるに非ざるなり。故に我邦の人、天神の道に素づきて孔聖の道を学ぶ〉とあります。神道と儒教の両方を取り入れていることが分かります。道には、文武や忠孝という考えが重要だと考えられています。

 


第十四節 新渡戸稲造の武士道
 新渡戸稲造(1862~1933)は、岩手生まれの教育者で農政学者です。国際連盟事務次長や太平洋問題調査会理事長として国際関係に取り組みました。
 新渡戸稲造の『武士道』には、〈武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である〉とあります。この武士道は、〈道徳的原理の掟であって、武士が守るべきことを要求されたるもの、もしくは教えられたるものである。それは成文法ではない〉と語られています。武士道は、〈数十年数百年にわたる武士の生活の有機的発達である〉というのです。
 ただし、新渡戸稲造の『武士道』は、キリスト教道徳を武士の中に見出したものとの指摘もあり、本来の武士道とは別物かもしれません。例えば、〈武士道の窮極の理想は結局平和であった〉という言説などは、元来の武士および武士道の在り方とは異なっています。
 稲造は、〈私は武士道に対内的および対外的教訓のありしことを認める。後者は社会の安寧幸福を求むる権利主義的であり、前者は徳のために徳を行なうことを強調する純粋道徳であった〉と述べています。その武士道に対し、最後の章では〈武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであろう〉と語られています。

 

 

 

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