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『日本式 正道論:第八章 哲学の道』

【目次】
第一節 西欧文明と対峙する学問
 第一項 西周
 第二項 福沢諭吉
  『学問のすゝめ』
  『文明論之概略』
  『丁丑公論』
  『痩我慢の説』
  『福翁百話』
 第三項 井上哲治郎
 第四項 西田幾多郎
 第五項 柳田国男
 第六項 河上肇
 第七項 九鬼周造
 第八項 和辻哲郎
第二節 西欧社会と対峙する政治
 第一項 岩倉具視
 第二項 大久保利通
 第三項 高橋是清
 第四項 吉野作造
第三節 西欧近代と対峙する評論
 第一項 森鴎外
 第二項 夏目漱石
 第三項 島崎藤村
 第四項 小林秀雄
 第五項 保田与重郎


『第八章 哲学の道』
 京都市左京区にある南禅寺付近から慈照寺(銀閣寺)まで続く道は、哲学の道と呼ばれています。哲学者である西田幾多郎(1870~1945)が、この道を散策しながら思索にふけったことから名づけられました。道の途中、西田が詠んだ歌の石碑があります。石碑には、〈人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり〉と刻まれています。
 西欧哲学との出会いは、日本の思想史に新たな局面を開きました。哲学との対決において、それに対峙するものとして、日本の道が語られてきました。その軌跡は、日本における哲学の道と称しえるものかもしれません。あるいは対哲学の道、もしくは反哲学の道と呼ぶべきものかもしれません。
 本章では、西欧と対峙した日本の「道」を見ていきます。

 


第一節 西欧文明と対峙する学問
 西欧哲学と対峙する道において、西欧文明と対峙する学問が問われます。その学問には、哲学や啓蒙思想、民俗学や経済学や倫理学などを挙げることができます。

 

 第一項 西周
 西周(1829~1897)は、明治初期の哲学者で啓蒙思想家です。西洋学術の移入や翻訳に努めました。
 『百学連関 総論』では、〈文と道とは元と一つなるものにして、文学開くときは道亦明かなるなり。故に文章の学術に係はる大なりとす〉とあります。道が、文という観点から語られています。


 

 第二項 福沢諭吉
 福沢諭吉(1835~1901)は、啓蒙思想家で教育家です。大坂で蘭学を学び、江戸に蘭学塾(後の慶応義塾)を開設しました。その後、独学で英学を勉強し、幕府遣外使節に随行して欧米を視察しました。維新後、教育と啓蒙活動に専念し、明六社を設立しました。
 福沢諭吉には、有名な著作が多数あります。その中で論じられている道を見ていきます。


 

  『学問のすゝめ』
 『学問のすゝめ』には、経済学と修身学について、〈経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり〉とあります。修身学において、世を渡るべき天然の道理の必要性が語られています。
 その道理についてですが、〈物事の道理は人数の多少によりて変ずべからず〉とされています。単純な民衆政治の原理は道理とは成り得ないのです。道理においては、〈一国の権義においては厘毛の軽重あることなし。道理に戻りて曲を蒙るの日に至りては、世界中を敵にするも恐るるに足らず〉というわけです。ですから、〈道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこのことなり〉とあるように、道理に基づくことで独立が可能となるのです。道理は、欲望とは峻別され、〈この時に当たりて欲と道理とを分別し、欲を離れて道理の内に入らしむるものは誠の本心なり〉と語られています。


 

  『文明論之概略』
 『文明論之概略』では、〈天地の公道は固より慕ふ可きものなり、西洋各国よく此公道に従て我に接せん乎、我亦甘んじて之に応ず可し、決して之を辞するに非ず〉とあります。各国ともに従うべき天地の公道が示されています。ただし、〈世界中に国を立てゝ政府のあらん限りは、其国民の私情を除くの術ある可らず〉という条件付です。そこで、〈其私情を除く可きの術あらざれば、我も亦これに接するに私情を以てせざる可らず。即是れ偏頗心と報国心と異名同実なる所以なり〉とあり、偏頗心と報国心が重なることが語られています。さらに、〈何事にても道理にさへ叶ふことなれば、十人は十人悉皆誤解するものに非ず〉とあるように、道理に適えば誤解を避けることができるというのです。


 

  『丁丑公論』
 『丁丑公論』では、〈大義名分は公なり、廉恥節義は私に在り一身にあり。一身の品行相集て一国の品行となり、その成跡社会の事実に顕われて盛大なるものを目して、道徳品行の国と称するなり〉とあります。道徳と品行について語られています。


 

  『痩我慢の説』
 『痩我慢の説』では、〈哲学の私情は立国の公道にして、この公道公徳の公認せらるるは啻に一国において然るのみならず、その国中に幾多の小区域あるときは、毎区必ず特色の利害に制せられ、外に対するの私を以て内のためにするの公道と認めざるはなし〉とあります。この立国の公道については、〈自国の衰頽に際し、敵に対して固より勝算なき場合にても、千辛万苦、力のあらん限りを尽し、いよいよ勝敗の極に至りて始めて和を講ずるか、もしくは死を決するは立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべきものなり〉と述べられています。このことが、〈すなわち俗にいう瘠我慢なれども、強弱相対していやしくも弱者の地位を保つものは、単にこの瘠我慢に依らざるはなし〉と考えられています。


 

  『福翁百話』
 『福翁百話』では天道が語られています。〈唯我輩は過去の事実に徴して人事進歩の違わざるを知り、禍福平均の数を加除して幸福の次第に増進するを知り、由て以て天道人に可なるの理を証するのみ〉とあります。そこで、〈天道既に人に可なり。その不如意は即ち人の罪にして不徳無智の致す所なれども、人間の進歩改良は天の約束に定まり、開闢以来の事実に証して明に見るべし〉と語られています。


 

 第三項 井上哲治郎
 井上哲治郎(1855~1944)は、明治・大正・昭和の哲学者です。
 『勅語衍義』において、道徳と法律の関係について言及があります。〈法律ハ道徳ト相待チテ国ノ秩序ヲ維持スル所以ナリ。人ノ行為ニシテ社会ノ安寧ヲ害スルトキハ、法律ノ制裁ニヨリテ之レヲ禁遏(きんあつ)スベキモ、社会ノ安寧ヲ害スルニ至ラザル行為ハ、唯々道徳ノ制裁ニヨリテ之レヲ制限スベキノミ。道徳ハ主トシテ内界ノ事ヲ支配シ、法律ハ主トシテ外界ノ事ヲ規定ス。広ク之レヲ言ヘバ、法律モ元ト道徳ノ一部ナリ。唯々行為ノ国安ヲ害セザルモノハ、専パラ之レヲ道徳ニ一任シ、国安ヲ傷クルモニニ至リテハ、道徳ノ制裁ノ外、更ニ之レヨリ厳重ナル制裁ヲ科シ、以テ其行為ヲ禁遏セザルベカラズ。此必用アルヲ以テ、道徳ノ部分ヨリ厳重ナルモノヲ抽出シ、吾人ノ本文ヲ規定シタルモノヲ名付ヅケテ法律ト云フ。要スルニ、法律ト道徳トハ、鳥ノ双翼、車ノ双輪ノ如ク両立スベク、偏廃スベカラザルモノナリ〉と語られています。


 

 第四項 西田幾多郎
 西田幾多郎(1870~1945)は、日本近代の代表的哲学者です。西田哲学と言われる独自の哲学大系を打ち立てました。
 『場所的論理と宗教的世界観』において、〈絶対現在の自己限定として我々の行動の一々が終末論的と云うことは、臨済の所謂全体作用的と云うことであり、逆にそれは仏法無用功処と云うことであり、道は平常底と云うことである〉とあります。〈絶対否定即肯定的に、かかる逆対応的立場に於て、何処までも無基底的に、我々の自己に平常底という立場がなければならない〉わけです。そこで、〈我々の自己に平常底という立場があるが故に、常識と云うものも形作られるのであろう〉と語られています。
 『日本文化の問題』では、〈西洋文化を単に個人主義と云ってしまうのも無造作に過ぎると思うと共に、全体主義と云うのは往々ファッショやナチスに類するものの如くである。之に反し我国自身の立場に於て考えようとする人は皇道と云う〉とあります。そこで〈私は我日本民族の思想の根柢となったものは、歴史的世界の自己形成の原理であったと思う〉と述べています。〈日本精神は日本歴史の建設にあった〉と考えられているのです。そこでは、〈我々は我々の歴史的発展の底に、矛盾的自己同一的世界そのものの自己形成の原理を見出すことによって、世界に貢献せなければならない。それが皇道の発揮と云うことであり、八紘一宇の真の意義でなければならない〉と述べられ、〈己を空(むなしゅ)うして物を見る、自己が物の中に没する、無心とか自然法爾とか云うことが、我々日本人の強い憧憬の境地であると思う〉と語られています。ですから、〈創造に於て、人間は何処までも伝統的なると共に、過去未来と同時存在的なるものに、即ち永遠なるものに、何物かを加えるのである〉というのです。
 『日本的ということについて』では、〈或る一日本人の趣味が真に日本的となるには個人の性癖を没して公のものとならねばならぬように、日本的趣味が真に芸術的となるためには日本人の私有物ではなくて公のものとならねばならぬ。古今に通じて謬らず、中外に施して悖らざる公道の一部でなければならぬ〉とあります。
 また、明治三十五年の日記帳の巻末の扉に書きつけられた〈参禅以明大道。学問以開真智。以道為体。以学問為四肢(参禅は以って大道を明らかにすべく、学問は以って真智を開くべし。道を以って体となし、学問を以って四肢となす)〉という言葉も残されています。


 

 第五項 柳田国男
 柳田国男(1875~1962)は、日本民俗学の創始者にして大成者です。国内を旅して民俗・伝承を調査し、日本の民俗学の確立に尽力しました。
 『明治大正史 世相篇』には、〈歴史は遠く過ぎ去った昔の跡を、尋ね求めて記憶するというだけでなく、それと眼の前の新しい現象とのつながる線路(すじみち)を見究める任務があることを、考えていた人は多かったようである〉とあります。
 『先祖の話』には、〈『先祖の話』において、自分のまず考えてみようとすることは二つ、その一つは毎年の年頭作法、次には先祖祭の日の集会慣習だが、両者はもと同じ行事の、二つの側面を示すものではなかったろうか。まだ容易にはしかりと言えないだけに、研究者にとっては興味が深い。ともかくもこの問題の輪廓を明らかにしておくことが、同時にまた我々の先祖たちが、「先祖」というものに関して抱いていた考えを知る道でもある〉とあります。また、〈家を平和にまた清浄に保つということが、みたまを迎え祭る大切な条件であることを、古人は通例こういう具体的な形によって、永く銘記しようとしていた。それをただ珍しいと思って聴くことが、同時にまたこれから大きくなって行こうとする人たちのために、ことに安らかな教養の道でもあったのである〉ともあります。
 「先祖」というものに関して抱いていた考えを知る道と、安らかな教養の道が示されています。柳田は、〈わが同胞のこれからさきの活き方、未来をどういう風に考えて行くかをきめる場合に、最も大きな参考となるべき前人の足跡、すなわち先祖はいかに歩んだかを明らかにする、これがまた一つの手段なのである〉と述べています。


 

 第六項 河上肇
 河上肇(1879~1946)は、大正・昭和期のマルクス主義経済学者です。マルクス主義経済学の研究・紹介に努め、大学を追われた後、日本共産党に入党しましたが検挙されました。
 『獄中贅語』では、〈『論語』には、「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」という孔子の言葉があるが、ここに「道」というのは、やはり心のことである[ついでに一言しておくが、ここに「聞く」とは、大無量寿経などに「名号を聞く」とある場合の「聞く」と同じことで、ただ耳に聞くというのではなく、深く心に会得することを指しているのである]〉とあります。
 『貧乏物語』では、〈孔子また言わずや、朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりと。言うこころは、人生唯一の目的は道を聞くにある、もし人生の目的が富を求むるにあるならば、けっして自分の好悪をもってこれを避くるものにあらず、たといいかようの賤役なりともこれに従事して人生の目的を遂ぐべけれども、いやしくもしからざる以上、わが好むところに従わんというにある。もし余にして、かく解釈することにおいてはなはだしき誤解をなしおるにあらざる以上、余はこの物語において、まさに孔子の立場を奉じて富を論じ貧を論ぜしつもりである〉とあります。また、〈ラスキンの有名なる句に There is no wealth, but life(富何者ぞただ生活あるのみ)ということがあるが、富なるものは人生の目的――道を聞くという人生唯一の目的、ただその目的を達するための手段としてのみ意義あるにすぎない。しかして余が人類社会より貧乏を退治せんことを希望するも、ただその貧乏なるものがかくのごとく人の道を聞くの妨げとなるがためのみである〉とも語られています。

 


 第七項 九鬼周造
 九鬼周造(1888~1941)は哲学者です。ヨーロッパに留学して実存哲学を学び、解釈学的手法を用いて日本文化を究明しました。
 『日本的性格』には、〈日本の道徳の理想にはおのずからな自然ということが大きい意味を有っている。殊更らしいことを嫌っておのずからなところを尊ぶのである。自然なところまで行かなければ道徳が完成したとは見られない〉とあります。そのため、〈自由と自然とが峻別されず、道徳の領野が生の地平と理念的に同一視されるのが日本の道徳の特色である〉と語られています。つまり、〈日本の道徳にあっても芸術にあっても道とは天地に随った神ながらのおのずからな道である〉と考えられているのです。

 


 第八項 和辻哲郎
 和辻哲郎(1889~1960)は、大正教養主義を代表する日本文化史家で倫理学者です。和辻倫理学と呼ばれる独自の体系を樹立しました。
 『人間の学としての倫理学』には、〈人間生活の不断の転変を貫ぬいて常住不変なるものは、古くより風習として把捉せられていた。風習は過ぎ行く生活における「きまり」「かた」であり、従って転変する生活がそれにおいて転変し行くところの秩序、すなわち人々がそこを通り行く道である〉とあります。そこでは、〈人間共同態の存在根柢たる秩序あるいは道が「倫」あるいは「人倫」という言葉によって意味せられている〉と述べられています。そこから、〈理は「ことわり」であり「すじ道」である。だからそれが人間生活に関係させられれば理の一語のみをもってすでに「道義」の意味を持ち得る。人間の理は人間の道である。しかるに「倫」は一面において人間共同態を意味しつつ他面においてかかる共同態の秩序すなわち人間の道を意味した〉とあります。〈倫理とは芸術や歴史に表現せられ得る人間の道であって、理論的に形成せられた原理ではないのである〉と語られています。そこで倫理に関し、〈倫理とは人間共同態の存在根柢として、種々の共同態に実現せられるものである。それは人々の間柄の道であり秩序であって、それあるがゆえに間柄そのものが可能にせられる〉ということになります。
 『倫理学』においても、〈「倫」は「なかま」を意味するとともにまた人間存在における一定の行為的連関の仕方をも意味する。そこからして倫は人間存在における「きまり」「かた」すなわち「秩序」を意味することになる。それが人間の道と考えられるものである〉とあります。〈倫理は人間の共同的存在をそれとしてあらしめるところの秩序、道にほかならぬのである〉と述べられています。
 その道はというと、〈根源的空間性時間性が明らかにせられる時に、初めて実践的行為的連関はその具体的な構造を示してくる。すなわち人間の行為はここに至ってその充分なる規定を得ることができるのである。そこでこの行為の立場において、信頼及び真実と呼ばれる人間の道が、真によく把握せられる〉と考えられています。
 また、〈交通機関は本質的には「道」である。人々がその上を動いて互いに交わり結合するところのものである〉とあります。そして、〈交わりの手段である点においては、それは通信機関と異ならない。通信機関は本質的には「信(たより)」(音信)である〉と述べられています。ここにおいて、交通機関としての道と、通信機関としての信が比較されています。その関係性は、〈信(たより)とは「動く道」であり、道とは「静止する信(たより)」である〉とされています。道は、〈歴史的にすでに成立している人間の結合を示す〉のであり、〈さまざまの人間の交わりを表現する〉ものだというのです。そして、〈道〉と〈信〉の動静によって、〈人間の交わりの時間的な展開〉や〈人間存在のひろがりを表現する〉ものとして〈空間性〉が現れています。
 日本の歴史における道を見た場合、〈その同じ人間の真実を日本人は「私」なき清明なる心として把捉したように見える。それは純情をもって全体に帰依する天真な「まごころ」である。また無私の愛をもって人倫的合一に没入する「まこと」である。中世の初めに伊勢神宮の神託として説かれ始めた「正直」の概念もまたこの無私清明なる人間の態度をさしている。これらの一切を通じて、人間の真実こそまさに人間の道であったのである〉と語られています。
 人倫の道については、〈我々はさらに国家自身の根本的な行為の仕方を理解することができる。それは万民をしておのおのその所を得しめると言い現わされているあの人倫の道である。万民が「所を得る」とは個人の生命と財産との安全が保障されるということではない。国家の包摂せるあらゆる人倫的組織がそれぞれ真に人倫的に実現されることである。そのためには生命や財産の安全もまた手段として必要であるではあろう。が、時にはかかる安全を犠牲としても人倫的組織を守らなくてはならぬ。窮極の目的は人倫の道であって個人の幸福ではない〉と語られています。
 人道については、〈神はすべての人に子としてのしるしを潜勢的な理性の形で与えた。従って正しい理性を本性として持つ限りの人々は、同じ神の子として兄弟であり、生まれながらにしてこの同胞共同体に属している。人類はこのような同胞共同体なのである。この共同体の成員は、仲間から好意や愛ややさしさや寛容や友情をもって取り扱われる権利を持っている。これが人道である〉とされています。
 人倫の道における普遍と特殊については、〈どの国民も普遍的な人倫の道を実現しようとして行為の仕方を定めたのであって、おのれたちのみに通用する特有の道などを目ざしたのではない。もし初めから他との差別が意識せられていたとすれば、そこには、これこそ真の人倫の道であり、従って他の国民もこの道を守るべきであるとの信念が存していたであろう。すなわち既成道徳は普遍的な道徳として立てられたのである。しかもそれは、歴史的・風土的な制約の下に自覚せられたものであるがゆえに、事実上特殊な性格を持って現われてくる。だからそれぞれの国民が道徳として理解しているものは、それぞれ多少の相違を示すことになるのである〉と述べられています。

 


第二節 西欧社会と対峙する政治
 西欧哲学と対峙する道において、西欧社会と対峙する政治が問われます。その政治には、公家としての視点、武士としての視点、思想としての視点が必要です。

 

 第一項 岩倉具視
 岩倉具視(1825~1883)は、日本の公家で政治家です。幕末に公武合体を説き、後に王政復古の実現に参画します。明治維新後、右大臣として欧米の文化・制度を視察し、帰国後は内治策に努め、明治憲法の制定に尽力しました。
 『国事意見書』には、〈万世一系ノ天子上ニ在テ、皇別、神別、蕃別ノ諸臣下ニ在リ、君臣ノ道、上下ノ分既ニ定テ万古不易ナルハ、我ガ建国ノ体ナリ。政体モ亦宜ク此国体ニ基ヅキ之ヲ建テザル可カラズ〉とあります。日本において、変わることない君臣ノ道が語られています。


 

 第二項 大久保利通
 大久保利通(1830~1878)は、日本の武士で、薩摩藩士で政治家です。維新の元勲で、西郷隆盛、木戸孝允と並んで、維新の三傑と称されています。
 『立憲政体に関する意見書』には、〈治国ノ道タル、其政府ノ体裁ニ於テハ各其国古来ノ風習人情ニ従ヒ、或ハ立君独裁或ハ君民共治或ハ共和政治等ノ異ナルアリト雖、国中百端ノ事務ヲ議定試行スルニ至テハ、必ズ独立不羈ノ権ヲ有スル処有テ〉とあります。道は国ごとの古来よりの風習や人情によって異なるというのです。その違いの上に、国に独立不羈の精神が現れると考えられています。


 

 第三項 高橋是清
 高橋是清(1854~1936)は、財政家であり政治家です。江戸の生まれで、日本銀行総裁・蔵相を経て、首相・政友会総裁などを歴任しました。
 『随想録』の[大塊と私]では、〈私も永い間、随分といろいろの仏像を集めては家中に陳列して眺めてゐるが、これは決して仏を拝むばかりの心ではない。静かに考へる『道』を求めたいからだ〉と語られています。[仏像と私]においては、〈私はこれ等の聖賢の説いた道は、結局一つものだと云ふことが解つて来た。みなこれは現世の苦難を救ふために説かれたもので、道はただ一つだ、信ずべき、歩むべき道はただ一つだといふことを考へるやうになつて来た〉と述べられています。
 [名利の満足か心の満足か]には、〈堅き信念を養成するには、やはり、正義の観念を持し、常に正しき道を踏み、俯仰天地に愧ぢないといふ覚悟が鞏固でなければならぬ〉とあります。
 [正しい道に立つ]では、〈ただひとり千古万代を通じて変らないものは、『神の教』である。人間の心の中にも、その神の教はあるので、いろいろと浮き沈みしながらも、この世の中は、そんなにひどく堕落して行くものではない。窮すると『これぢやいけない』と反省して、誰が言はなくても、自然に正しい道に立ち直つて行く〉と語られています。
 [我が国体と民本主義]には、〈我が国は三千年来民意を本意として皇道と云ふものが行はれて居つた〉とあり、〈我が国の皇道と云ふものを国体の根源から研究して見たならば、畏(かしこ)くも天子に於かせられては、常に民の心を以て御自分の心とせられ、民の苦楽を以て、御自分の苦楽御同様に思召さるるのであつて、民の本とするの政治であるのである〉と説明されています。
 [どうすれば一国の生産力は能く延びるか]においては、〈私が浅い学問浅い経験とを以てこの人類社会を考へるとこの人生には二つの道があるやうに思はれる。その一つは即ち人道教、いま一つを経済教と私は名付ける〉とあります。具体的には、〈人道教と云ふ方はこれは人類の徳性を涵養して所謂道徳を進める方の道である〉とあり、〈経済教の方から云ふと、その極致は人類の生活慾を満足させることが経済教の極致である〉とあります。


 第四項 吉野作造
 吉野作造(1878~1933)は、大正時代の代表的政治思想家です。民本主義を唱えました。
 『憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず』には、〈制限という言葉を使えばこそ世人はとかくこれを気にするのであるけれども、これに代うるに「道」という文字を使ったならばどうか。すなわち立憲政治はわがまま勝手なる政治にあらず、「道」をもって国家を治むるの政治であるとすれば、「道」はすなわち主権の自由行動に対する一種の制限ではないか。しかしてこのいわゆる「道」は、法律上にも政治上にも現われ、換言すれば君主の大権は法律上ならびに政治上ともに各種の制限を受くるのが立憲諸国の通例である〉とあります。道によって、適切な制限が可能になることが示されています。

 


第三節 西欧近代と対峙する評論
 西欧哲学と対峙する道において、西欧近代と対峙する評論が問われます。その評論は、小説や批評などの形式において展開されています。


 

 第一項 森鴎外
 森鴎外(1862~1922)は、小説家で評論家です。陸軍軍医としてドイツに留学し、翻訳・評論・創作・文学誌刊行などの多彩な文学活動を展開しました。
 『心頭語』には、〈作者の名のために作らずして道のために作るや、論をまたず。されば術者たらんものも、道のために述ぶということを忘るべからず〉とあります。名よりも道が上位に位置づけられていることが分かります。


 

 第二項 夏目漱石
 夏目漱石(1867~1916)は、明治後期から大正初めにかけて活躍した日本を代表する作家です。西欧近代文明とそれを模倣する近代日本に対する卓抜な文明批評を行うとともに、自らも近代的自我の苦悩を引き受け追求しました。
 大正三年(1914年)の『私の個人主義』において、〈ああここにおれの進むべき道があった!ようやく掘り当てた!こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事が出来るのでしょう〉と述べています。
 大正五年(1916年)十一月十五日、死の直前に、自宅を訪れた若い禅僧にあてた有名な手紙があります。その一部に、〈変なことをいいますが私は五十になってはじめて道に志すことに気のついた愚物です。その道がいつ手に入るだろうと考えると大変な距離があるように思われて吃驚しています。あなた方は私にはよく解らない禅の専門家ですがやはり道の修業において骨を折っているのだから五十まで愚図愚図していた私よりどんなに幸福か知れません、またどんなに特勝な心得を深く礼拝しています。あなた方は私の宅へくる若い連中よりもはるかに尊い人たちです。これも境遇から来るには相違ありませんが、私がもっと偉ければ宅へくる若い人ももっと偉くなるはずだと考えると実に自分の至らないところが情なくなります〉と書き残しています。


 

 第三項 島崎藤村
 島崎藤村(1872~1943)は、詩人で小説家です。浪漫主義詩人として出発し、自然主義文学の先駆となりました。
 藤村の長編小説に、『夜明け前』があります。主人公は青山半蔵で、藤村の父親がモデルです。半蔵の述懐に、〈正道(まさみち)に入り立つ徒(とも)よおほかたのほまれそしりはものならなくに〉という言葉があります。その道は神の道であり、〈御世御世の天皇の御政(おんまつりごと)はやがて神の御政であった、そこにはおのずからな神の道があったと教えてある。神の道とは、道という言挙げさえも更になかった自然(おのずから)だ、とも教えてある〉と示されています。そのため半蔵は、神の道の理想と、明治という現実の狭間で苦悩することになります。


 

 第四項 小林秀雄
 小林秀雄(1902~1983)は、近代批評を確立した評論家です。
 小林秀雄は『本居宣長』を書き終えた後に、文芸評論家の江藤淳(1932~1999)と対談しています。江藤が〈つまり、小林さんのおっしゃる道というものは、発見を続けていって、その果てに見えはじまるというようなものだろうと思いますが・・・・・・〉と述べると、小林秀雄が〈そうなんですね〉と答えています。
 『道徳について』では、〈道徳という言葉は、僕等の一切の過去を引摺っている。僕等の過去の一切の善悪、一切の不幸を〉と述べています。道徳が過去と関わっていることが語られています。


 

第五項 保田与重郎
 保田与重郎(1910~1981)は、日本浪漫派の評論家です。伝統主義と近代文明批判を展開しました。
 『近代の終焉』には、〈國の天地のみちを踏まんとは、我らが先蹤文人の心懐としたところであつた、すべて思想や文藝を生理とする者は、拙きを守り滅びを一人で支へる心理に生きねばならない〉とあり、〈我々は文化の問題に於ても、どのやうに考へても夕は朝より悲痛である。私は最も悲痛な状態を感じつゝ、それゆゑ、國のみちを信ずるのである〉とあります。その上で、〈我々のみちは堅めねば近代の装甲自動車を通し得ぬほどの脆弱なみちではなかつた。文明開化の論理は、日本のさういうみちを反省せずして、はじめから脆弱としてかゝつたのである〉と言い、文明開化に伴う軽薄さを批判しています。
 『萬葉集の精神』には、〈我國の古典は、最も高い生活感情と文明精神に於てそれを捉へ、高次の意識の表現として解すると云ふ正道をとるとき、最も正しく我國の歴史の精神と理想を示すのである〉とあります。『日本に祈る』では、〈わが神の道は、さういう支配のための神でなく、むすびのしくみに、たゞみちあることを知つたのである〉とあり、〈つまり道は観念になく、神の生活にあるとの思想である〉とあります。そこで自身を省みて、〈日本の道と東方の道義を以てみれば、わが私の文業のなるならざるが如きは、末端のさらに枝葉である。よしんば余が文業未完に了らうとも、道はいさゝかも衰へないと、余は信じて、安らかである〉と述懐しています。
 『好日の意』と題された戦後の随筆には、〈そこに歴史があるはずだ。この國、わが國土、この郷村が、祖先積善の風景だといふ、人道の歴史があるのだ〉とあります。続いて、〈我々の神々は、實にわが祖先だつた。我々は絶対神といふものを先祖の歴史の上で知らず、また絶対神の意志に従ふための神學や哲學をもたなかつたのは、東洋の文明が深遠だつたといふ理由からでなく、遠い遠い道を歩いてきた(傳統といふもの)ことが、今もなほつづいてゐることである〉と語られています。『續絶對平和論』では、〈神の道は、生きた神々の生活として現はされてゐるのです〉と語られています。
 保田与重郎にとって道とは、神の道であり、その道は生活であり歴史であり伝統でもあったのです。

 

 

 

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