『遊歌集』[Ⅱ]空蝉
かつて、すべては一つだった。
それは、遠い昔のこと。
語られるがゆえに、必然的にそれは過去の出来事。
三位一体と三宝の真なるもの。
真・三位一体。
すなわち、神・今・自。
神とは、一なる神。
今とは、現実の現在。
自とは、自我と自己からなる自分。
真・三宝。
すなわち、界・今・自。
界とは、この世界。
今とは、現実の現在。
自とは、自我と自己からなる自分。
真・三位一体。
自分が全知全能にして、自分は世界と完全に同一となる。
しかし、自分は全知に非ず、全能に非ず。
それゆえ、自分は世界と分かれる。
そこで、全知全能が希求される。
すなわち、全知全能たる神の存在が。
一なる神の存在が。
欲望のすべてが叶わない。
それゆえに、自分は一なる神ではない。
一なる神は全知全能。
自分は全知に非ず、全能に非ず。
ゆえに、自分は世界に非ず。
全体ではなくして、部分と成る。
世界の中の多くの内の一つとなる。
欲望という基準により分かれる。
ゆえに、神は全知全能であるが、全知全能全善ではありえない。
ここにおける一なる神は、全善ではありえない。
その真なる神のゆえに、偽りの神もまた生まれる。
全善を称する神が生まれてしまう。
真・三宝。
自分が無知無能にして、自分は世界と完全に同一となる。
しかし、自分は無知に非ず、無能に非ず。
それゆえ、自分は世界と分かれる。
そこで、無知無能が希求される。
すなわち、無知無能たる仏の境地が。
悟った者である仏の存在が。
すべてを捨て去る境地に至れない。
それゆえに、自分は悟った仏ではない。
仏は無知無能。
自分は無知に非ず、無能に非ず。
ゆえに、自分は世界に非ず。
全体ではなくして、部分と成る。
世界の中の多くの内の一つとなる。
欲望という基準により分かれる。
ゆえに、仏は無知無能であるが、無知無能無善ではありえない。
すでに語られてしまった仏は、無善ではありえない。
その偽りの仏のゆえに、真の仏もまた生まれる。
無善を行う仏が生まれてしまう。
全知全能と無知無能。
ここで、神様と仏様が出会うのだろう。
だから、ここは、神様と仏様の世界。
全知全能全善。
全知全能と、全善。
全知と、全能。
意識。
全能に非ず。
できることと、できないこと。
境界が分かれる。
自分と世界が分かれる。
全知に非ず。
知っていることと、知らないこと。
境界が分かれる。
自分と他者が分かれる。
自分が自我と自己に分かれる。
認識主体にして、認識対象ともなる。
自我は世界にして、世界における自己である。
すべてが許されている場において、
すべてが赦されてはいないだろう。
無知無能無善。
無知無能、無善。
無知と、無能。
無意識。
無能と成る。
できることと、できないこと。
境界が消される。
自分と世界が溶け合う。
無知と成る。
知っていることと、知らないこと。
境界が消される。
自分と他者が溶け合う。
我無し。
認識が働かない。
無我ゆえに世界において自己無し。
命をいただき命脈を延ばす途上で、
餓死に至る可能性がひらけるだろう。
全知を解釈する智恵。
無知を解釈する智識。
神と仏の間に、人間の知性がありえるだろう。
全知全能と無知無能の間において、
人間の善悪が語られるだろう。
心の心をよめる。
神と言い仏と言うも、世の中の人の心の他のものかは。
(『金槐和歌集』より)
神、仏、化物もなし。
世の中に奇妙、不思議のことは猶なし。
(『夢ノ代』より)
【解説】
ここではユダヤ・キリスト教における神の問題と、仏教における仏の問題が、それぞれの水準を超えて論じられています。神の極限と仏の極限を示すことにより、二つの極限の関係が明らかになっています。
その上で、神と仏の間に、人間が居ることになります。なぜなら、そうならざるを得ないのですから。
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