『遊歌集』[Ⅳ]氷柱
言葉は廻り巡る。
廻り巡りを受け入れること。
意味は循環している。
循環を受け入れることで、意味の変化が可能になる。
何らかの信念の共有が求められるだろう。
不確かなものに敢えて立つから、理解が可能となるのかもしれない。
たとえ確実なものは何もないのだとしても。
言葉が交わる。
会話が交わされる。
いくつもの経験により、検証が可能となる。
そこで反証の可能性が示される。
だから言語がありえるのだろう。
しかし、そこで、ただ深淵が観える。
観測の不確定性、観察の不合理性。
理論の不完全性、予測の不確実性。
知識の不整合性、思考の不可知性、意志の不自由性。
存在の不条理性、言語の不可測性、正義の不可能性。
真理は証明できず。
見通しの利かないまま手探りで進まざるを得ない。
いつ終わるとも知れない道を歩むことになるだろう。
一なる神がサイコロを振った。
動物である人間は、本能と感情と理性に翻弄される。
社会に属する人間は、いくつもの共同体からの圧力に振り回される。
情報が錯綜し、混乱と狂信に見舞われる。
サイコロは振り続けられている。
死を巡る会話。
他者の死から、自身の死を想起する。
死を想い、生を生きる。
殺害の可能性と多様性。
自殺の可能性と多様性。
死神を招く。
理不尽を嘆く。
不条理を奏でる。
生を賭けた戦い。
死を賭した争い。
穏やかな死を望みながらも、
それが望むべくもない事態がありえるだろう。
覚悟と諦念が共に心に宿る。
雪が降り積もる。
ちらちらと。
悲しみを詠うだろう。
ただ悲しみを悲しむだろう。
ただ時が過ぎ行くだけ。
世の中は夢か現か、
現とも夢とも知らず、
有りて無ければ。
(『古今和歌集』より)
死と再生。
終わりと始まり。
雪が降り積もる。
やがて雪解けに、芽吹く何かがあるだろう。
やがて咲く桜を、ただひと目でも君に見せたいと想う。
深々と重なり、虚実が入り混じる。
願わくは、知識によって虚を除き、意志によって実を残せればと。
清濁を併せ呑もう。
その諦念と覚悟はここに。
後の世に伝えたい。
伝えたいものがあるはずだから。
たとえ、すぐに消えてしまうのだとしても。
共に、独り、我々の道を行く。
独り、共に、我々の道を往く。
たとえ途切れかけた道なのだとしても。
そして、道連れと供に。
【解説】
ここで『遊歌集』は終わります。
前半では高橋昌一郎さんの『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』を参照しています。そのまま引用すると、不可能性(選択の限界)・不確定性(科学の限界)・不完全性(知識の限界)・不可測性(言語の限界)・不確実性(予測の限界)・不可知性(思考の限界)・不合理性(行為の限界)・不自由性(意志の限界)・不条理性(存在の限界)の9つになります。そのままのところもありますが、細かいところを修正して利用しています。
後半は和歌の心情を軸に展開していきます。また、『古事記』の[序]の〈旧辞を討ね覈め、偽を削り実を定めて、後葉に流へむと欲ふ〉という言葉をほのめかしています。
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