いろは歌の美しさ

 

優先順位
 ものごとには、優先順位(priority)があります。
 人間は心を持っていますから、それぞれの人がそれぞれの理由を持っています。そのため、それぞれの人は、異なった優先順位によって動くことになるのです。
 優先順位とは、その人は何を大切にし、何によって動くのかという、その判断基準のことです。その判断基準によって人間は生き、そして死んでいくのです。
 例えば、「飲む打つ買う」という言葉があります。大酒を飲み、博打(ばくち)を打ち、女を買うことで、普通は男が道楽の限りをつくすことを言います。女性の場合は、買うをホスト通いなどに当てはめれば、性別を問わずに成り立つ概念になります。世の中を見渡せば、この飲む打つ買うのいずれかにはまっている困った人たちを容易に見つけることができます。
 私は聖人君子を気取るつもりはまったくありませんので、これらが大いに楽しいことだということはあっさりと認めます。ただ、これら以外にも優先すべきことがあるとも思うわけです。その可能性に突き動かされる人は、飲む打つ買うに(あまり)陥らない生活を送ることになるのです。
 私には、僭越ながら、飲む打つ買うよりも優先順位を高く置いていることがあります。それは、「自分の物事の見方を拡げること」です。そのためには、本などを読んで知識の幅を拡げることが有効な手段です。そして、その途中で、世界のあり方が根本的に変わってしまうような不思議な体験をすることがあるのです。


ものごとの見方
 ものごとの見方によって、世界は異なったあり方をします。
 簡単な例では、不治の病を宣告された場合などが当てはまると思います。普通に健康に生きてきたと思っていたら、突然に不治の病を宣告されたという事態を想像してみてください。そのとき、あなたの世界の見方は違ってくるはずです。何気ない日常が、急に愛しくなってくるかもしれません。もしくは、何もかもがどうでもよくなるかもしれません。
 あなたの心の持ちようによって、世界は異なった景色を映し出すのです。
 能動的に世界のあり方を変えるためには、学問が一つの有力な方法になります。学問というのは面白いもので、知識を増やしていく過程で、ものごとの見方を根本から変えてしまうような可能性が秘められているのです。
 数学なら、難しい証明問題を説くことなどを通じて、数秩序の美しさに魅せられることがあります。オイラーの公式(Euler's formula)およびオイラーの等式(Euler's identity)の美しさは、非常に有名です。物理なら、ニュートン力学から相対性理論や量子力学の理解へ進むことによって、世界が異なって見えるようになるでしょう。
 他の学問でも、ものごとの見方が根本から変わる経験をすることはあるでしょう。その中でも特に、思想や哲学の意義は非常に大きいと思われるのです。
 思想や哲学を学ぶということは、人類史を通じて人間は何を求め、何を考えてきたのかを学ぶということです。たった一人のちっぽけな人間が、人類史における人間たちの知恵の結晶と格闘することになるのです。この学ぶものと学ばれるものの圧倒的な戦力差、それによって、今までのものごとの見方は、否応なく影響を受けて変化してしまうのです。実に恐ろしく、そして、面白いことではないでしょうか。


見方の変わる瞬間
 人生には、物事の見方が変わる瞬間があります。その瞬間、視野が開け、世界は異なるあり方を魅せます。その変化は、善悪の両方向へ向いています。
 その中でも、世界の見通しが良くなるような変化があります。今まで漠然としていたものや隠されていたものが、はっきりと見えるようになるのです。
 あたかもそれは、何の絵か分からずに組み立てていたジグソーパズルで、ある1ピースをはめることで何の絵かはっきりと分かるようになる経験に似ています。私はそれを、「頭の中でカチリと音がする」と呼んでいます。このカチリという音を聞くことに勝る快楽を私は知りません。
 私は自身の人生において、何回かこの音を聞きました。例えば、西部邁の著作を読み込み、その思想を通じて戦後体制を理解したときが挙げられます。また、永井均の哲学書を読み込み、中心化された世界の神秘に沈み込んだときなども挙げることができます。
 そして、日本思想を通じて、いろは歌の美しさを理解できるようになった経験を挙げることができます。


いろは歌
 いろは歌とは、47文字のひらがなを全部1回ずつ使った七五調の歌のことです。手習いの手本として広く親しまれ、近代にいたるまで用いられてきました。


【いろはうた】

いろはにほへと  (色は匂へど)
ちりぬるを      (散りぬるを)
わかよたれそ   (我が世誰ぞ)
つねならむ      (常ならむ)
うゐのおくやま   (有為の奥山)
けふこえて      (今日越えて)
あさきゆめみし  (浅き夢見じ)
ゑひもせす     (酔ひもせず)


 「有為」とはサンスクリット語の翻訳で、さまざまな因縁によって生じた現象のことです。「有為の奥山」は、因縁によって生じたこの世のきずなを断ち切るのが容易でないことの例えだと考えられています。
 現在、いろは歌を見る機会は少ないと思われます。日本語の仮名文字(平仮名、片仮名)の勉強には、いわゆる「あいうえお、かきくけこ、...」の五十音図が使われているからです。音韻の体系的な理解には、いろは歌よりも五十音図の方がすぐれています。


【五十音図】
あ い う え お 
か き く け こ 
さ し す せ そ 
た ち つ て と 
な に ぬ ね の 
は ひ ふ へ ほ 
ま み む め も 
や    ゆ    よ 
ら り る れ ろ 
わ ゐ   ゑ を


 私の最も古い記憶は、実家の壁に貼ってあった子供の勉強用の五十音図です。子供用だけあって、「り」のところにはリンゴが描かれているといったように、ひらがな毎に単語例が示されていました。自分の最古の記憶が五十音図というのは、我ながら感慨深いものがあります。
 その後、私がはじめていろは歌を知ったのは、祖父母の家で小学校低学年のときでした。その家には、いろは歌のカレンダーが壁に掛かっていました。私は、昔は「あいうえお」ではなく、この「いろはにほへと」が使われていることを教えてもらいました。
 そのとき私が考えたことは、いろは歌は必要のないものだということでした。
世の中では、古いものが新しいものに入れ代わります。しかし、古いものにもそれなりの価値があることは分かっていました。例えば、古い掃除機は、新しい掃除機に比べて吸引力が劣っていたとしても立派に使えます。そのため、新しい掃除機が壊れたときの予備として取っておくことも検討に値します。
 しかし、五十音図に取って代わられたいろは歌は、当時の私にはまったく無用のものだと思われたのです。いろは歌がなくなったとしても、五十音図を覚えていれば何の問題もないからです。
 新旧の交代に際し、古いものを残しておく価値がある場合と、残しておく価値がない場合があります。残しておく価値がない代表例として、当時の私はいろは歌ほど適切なものはないと考えたのでした。


無常観
 いろは歌など無用、と考えていた私の人生にも色々ありました。高校の倫理の教科書で、日本人の考え方の基底には、無常観と呼ばれる感情があることも学びました。
 紆余曲折があり、私は日本の思想と真摯に向き合うことになりました。日本古代の『古事記』『日本書紀』『万葉集』という作品から一貫して、日本史には無常観が流れ続けています。『古今和歌集』や『新古今和歌集』などの勅撰和歌集と呼ばれる作品には、多くの無常を詠った歌を見つけることができます。『方丈記』や『徒然草』といった随筆にも、無常観がきわめて高いレベルで語られています。『源氏物語』『平家物語』『太平記』といった物語は、美しくも儚い無常観を基底として物語が進行していきます。
 私は無常観を解説する本にも手を伸ばしました。竹内整一の『「はかなさ」と日本人』、森三樹三郎の『「無」の思想』、磯部忠正の『「無常」の構造』、本田義憲の『日本人の無常観』、唐木順三の『無常』、平岡定海の『無常のうた』、西田正好の『無常の文学』、小林智昭の『無常感の文学』などを次々に読んでいきました。私が素晴らしいと感じた文章を、二つほど紹介してみます。


【磯部忠正『「無常」の構造』より】
  全知全能の造物主とか、絶対的真理とかを想定して、これへの信仰、これの探求によって、人間世界の秩序を維持する行き方とは異なり、人のこころの不安定のままに漂ったり、流されたりするおそれがある。そのとおりである。しかしわたしはあえて言ってみたい。日本人はいわゆる「絶対者」を採らず、この一見不安定な「人のこころ」に生を賭けているのであると。さればこそ日本人は「人の心をたねとする」歌(『古今集』序)に、不思議な、郷愁にも似た愛情を覚えるのではないか。


【唐木順三『無常』より】
 無常を語る場合、きはだつて雄弁になり、それを書く場合、特に美文調になるといふ傾向がきはめて顕著であるといふことが、日本人のひとつの特色といつてよいだらう。無常が死とのつながりをもつて考へられるとき、それは人生における異常なことである。異常なことの表現が美文調や雄弁となることは異常のことではない。


 無常を巡り、日本の思想は美しく描かれています。
 日本の古典およびその解説書を通じて、私の思考は、それまでとは違ったものへと深化していったのです。


いろは歌の無常観
 無常観を解説した本には、日本の無常観を示すものとして「いろは歌」が紹介されていました。
 いろは歌は、『大般涅槃経』の中にある偈(げ)「諸行無常、是生滅法、生滅々已、寂滅為楽」を日本語で表現したものだという説があります。


【『密厳諸秘釈』の説より】
 

色は匂へど 散りぬるを   (諸行無常)
我が世誰ぞ 常ならむ    (是生滅法)
有為の奥山 今日越えて   (生滅々已)
浅き夢見じ 酔ひもせず   (寂滅為楽)


 いろは歌は、空海の作品だという説もありましたが学術的に否定されています。無名の大乗仏教徒の手によるこの作品は、日本人の中に今でも息づいています。
 日本思想に触れた私には、いろは歌はそれまでと違ったものに見えるようになりました。いろは歌が、たとえようもないほどに美しいものに感じられたのです。この経験は、私にとって文字通り衝撃的でした。
 いろは歌が美しいと(主観的に)心から感じられること、この感動のために私は、日本人として生まれてきたのだとすら思えたのです。そして、実際にその境地に至ったことで、私の人生は(私にとって)価値あるものになったのです。
 この私の言い方は、大げさに感じられるかもしれません。それどころか、まったく理解できない人も多いことでしょう。それも尤もなことです。かつての私のように、いろは歌は無用だと考えることは論理的だからです。
 しかし、私のこの感覚にいくばくかでも共感してくれる人もいると思います。そのような人たちと共に、私は日本人の感情において、論理を紡ぐことになります。ここにおいて、日本人の無常観という感情を基に、日本の思想が展開されることになるのです。
いろは歌、このもの悲しく無常観が漂う歌を、日本人は不思議な魅力をもって親しんできたのです。そして、おそらくこれからも。


  <雑談>
 社会人として生活していると、仕事で膨大な資料を作成しなければなりません。提出した資料は、相手側から指摘を受けた場合に修正しなければなりません。その際に、修正や改訂を意味するリビジョン(revision)を資料に追記することがあります。
 例えば、「XXX」という文書なら、修正ごとに「XXX_rev1.」→「XXX_rev2.」→「XXX_rev3.」...などと書くわけです。
 あるとき、「YYY」という文書を受け取り、間違いを指摘したところ、「YYY変イ」となって返ってきました。はじめは誤植かと思ったのですが、よく見るとリビジョンではなくイロハで修正を記述していることが分かりました。修正の度に、「YYY変イ」→「YYY変ロ」→「YYY変ハ」...となるわけです。
 私は思わず嬉しくなりました。周りからは、「何ニヤニヤしてるの? 不気味な...」という心温まる(?)言葉をいただきました。
 私は今日も元気です。



 

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