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第一部『第一章 「自由」の構造』

【目次】
第一節 「自由」の起源
第二節 「自由」の基本構造
 第一項 自と他の「自由」
 第二項 善と悪の「自由」
 第三項 具体と抽象の「自由」
第三節 「自由」の応用構造
 第一項 「自由」の応用区分
 第二項 「自由」の要素意味
 第三項 「自由」の価値判断
第四節 不「自由」
 第一項 基本構造における不「自由」
 第二項 応用構造における不「自由」
 第三項 自由と不「自由」


『第一章 「自由」の構造』
 自由を論じるために、まずは日本本来の自由の構造を示す必要があります。

 

第一節 「自由」の起源
 日本語の「自由」という言葉は、元々は漢語です。漢語としての「自由」を歴史に探ると、「自(みずか)らに由(よ)る」、つまり自己に本(もと)づくという意味を持つ、次の二つの「自由」が先駆となります。
 一つ目は、『孟子』の[公孫丑下]に〈吾が進退は豈に綽綽(しゃくしゃく)然として余裕有らざらんや〉とあり、その文章に対する後漢の趙岐の注として、〈進退すること自由、豈に綽綽(しゃくしゃく)たらざらんや〉という表現を見つけることができます。綽綽(しゃくしゃく)とは、落ち着いてゆとりがあるさまです。余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)な自らに由っているため、肯定的な意味を持ちます。
 もう一つは『後漢書』の[皇后紀十下閻皇后紀]に、〈兄弟、権要にして、威福自由なり〉とあります。この自由は、自分の思い通りにする、勝手気ままに振舞うなどの否定的な意味で用いられています。
 この二つの自由を見て分かるように、自由は肯定にも否定にも使われています。この自由は、「束縛の不在」を意味する西欧の「フリーダム」や「リバティ」としての自由とは別物です。そのため、この「自(みずか)らに由(よ)る」という漢語由来の自由について、日本語における用いられ方を見ていくことが必要になります。


第二節 「自由」の基本構造
 日本語における「自由」を知るためには、「自(みずか)らに由(よ)る」という自由の構造を理解することが必要です。

 

 第一項 自と他の「自由」
 自由とは、読んで字のごとく「自(みずか)らに由(よ)る」ことです。つまり、自分に本(もと)づいているということです。自由の「自」とは、「自(みずか)ら」や「自己」と表現される「自分」のことであり、自分とは「この心」のことです。
 自分は、「あの心」や「その心」の見ることを通して、「この心」としての自覚に到達します。つまり、見えたものが、見返してくることで、この視点が意識でき、「この心」の自覚に至り、見返してきたものが「あの心」や「その心」として意識でき、「あの心」や「その心」が、「この心」と同じ心であると思うようになるのです。「心」は、「この心」が自分を指し示し、「あの心」や「その心」や「どの心」が他者を指し示すことで、世界を観るものを、世界に複数あることにするのです。
 それぞれの心は、相互に影響し合っています。そのため、「この心」による自由を、「あの心」や「その心」や「どの心」にも適用することができます。人間ではないものを人間のように見なす方法を「擬人法」と言いますが、自分ではないものを自分のように見なす方法を、便宜的に「擬自法」と名づけてみます。擬自法は、自分自身について思うことを、他者に当てはめて考えてみたときに可能になります。そこでは他者の自分において、「自」が「自(みずか)らに由(よ)る」ように「他」が「(他としての)自(みずか)らに由(よ)る」ことを想像することで、他者の自由を論じることができます。擬自法によって、自分の自由と他者の自由を想像でき、自由という言葉の一般的な用法が可能になるのです。

 

 第二項 善と悪の「自由」
 基本的に自由は、「自(みずか)らに由(よ)る」ことを言いますが、肯定されるときもあれば否定されるときもあります。それが肯定されるか否定されるかは、その自分が、何に本(もと)づいているかに由ります。
 自分が善に基づいているのなら、その「自由」は肯定されます。自分が悪に基づいているのなら、その「自由」は否定されます。

 
ziyu_f1_1_1.bmp[図1-1] 「自由」の基本構造

 

 第三項 具体と抽象の「自由」
 自由を考える上で、具体的な場合と抽象的な場合の区別は重要です。
もちろん、具体的な場合でも抽象的な場合でも、自分が善に由っていれば肯定的な自由になり、悪に由っていれば否定的な自由になります。
 例えば、古代国家の基本法である『律令』(7世紀後半~8世紀)では、具体的な場合に自由が許容されています。戸令の棄妻手続きの例外を規定している箇所において、〈凡そ妻棄つることは、先づ祖父母、父母に由れよ。若し祖父母、父母無くは、夫自由することを得む〉とあります。妻と別れる場合、祖父母や父母の意見を聞くべきだというのです。親族がいない場合に限り、夫が自(みずか)らに由(よ)って判断を行ってよいと規定されているのです。
 このように、法律的に具体的な状況が示され、自由の範囲が肯定されるときには自由が許容されるのです。
 ただし、善悪に言及されていないときには注意が必要です。抽象的な場合で善悪に言及がないとき、その自由は、肯定でも否定でもない価値中立の自由です。例えば、「日本には昔から自由という言葉がある」というとき、この自由は抽象的な価値中立な自由です。
 ですが、具体的な場合で善悪に言及がないとき、その自由は、我儘勝手な自由になります。なぜなら、具体的な場面では、その状況や条件に対する解釈や態度の表明が要求されるからです。自分が何に基づいているのか言えない、もしくは言わないのなら、その「自由」は我侭勝手です。例えば、「私は自分に基づいて考えて行動していますよ。ただし、自分が何に基づいているかは言いませんよ」などと言う人など、信じられないと思うからです。
 具体的な場合と抽象的な場合の自由をまとめると、次のようになります。

 

[表1-1] 「自由」の価値分類ziyu_t1_1_1.bmp

 

第三節 「自由」の応用構造
 日本語における「自由」では、「自(みずか)らに由(よ)る」ことを細分化した場合に、応用の構造が現れてきます。

 

 第一項 「自由」の応用区分
 自由の応用構造においては、「自(みずか)らに由(よ)る」ことの細分化が行われ、より状況に即した使われ方が出てきます。
 自由の「自」とは、「自分」のことであり、精神と肉体という分類を持ち、内面と外面という分類も持ちます。内面とは、自分自身の内部状態のことであり、外面とは、世の中との関わり方のことです。そこで「自」は、精神・肉体の軸と、内面・外面の軸の交わりとして捉えることができます。

 
ziyu_f1_1_2.bmp[図1-2] 「自」の応用軸

 

 第二項 「自由」の要素意味
 「自」分は、精神・肉体の軸と、内面・外面の軸の交わりにおいて、四つの領域を持ちます。精神・内面の領域は、心の中で思うことであり心理状態のことです。精神・外面の領域は、世の中での他人との関わり方であり、共同関係になります。肉体・内面の領域は、体の調子であり、身体状態のことです。肉体・外面の領域は、外界への干渉であり、環境対応になります。

 
ziyu_f1_1_3.bmp[図1-3] 「自」分の要素

 

 「自」に交わる二つの軸の交差によって、心理状態・身体状態・共同関係・環境対応という四つの領域が成り立ちます。これらの領域において、自由の内実が出てきます。心理状態は、信仰および志向としての自由になります。身体状態は、健康および能力としての自由になります。共同関係は、立場および役割としての自由になります。環境対応は、可能および容易としての自由になります。
 例えば、自由の境地などと言うとき、それは心理状態の自由です。みんなで何かを自由に行うというときは、共同関係の自由です。また、足が自由になるとか不自由だとか言うときは、身体状態の自由になります。歩行が自由にできるとか不自由だとか言うときは、環境対応の自由になります。
 ちなみに、「金に不自由する」や「金に不自由しない」という用法は、西欧哲学における自由(「フリーダム」や「リバティ」)では直接表現できない言い方なのだそうです。この場合の自由は、共同関係に関わる自由です。

 

 第三項 「自由」の価値判断
 自由の応用例においても、その自由が善か悪かによって、肯定されたり否定されたりします。心理状態(信仰・志向)、身体状態(能力・健康)、共同関係(立場・節制)、環境対応(可能・容易)などに対して価値判断を行うためには、文脈を踏まえる必要があります。その場面や状況や条件を踏まえて上で、その自由を、肯定すべきなのか否定すべきなのかが決まるのです。
 そこで次のように、精神-肉体の軸と、内面-外面の軸に加え、垂直方向に肯定-否定の軸が加わります。

 
ziyu_f1_1_4.bmp[図1-4] 「自」の価値判断軸

 

 その自由がどのような意味で用いられていて、かつ、どのような文脈上で表現されているかを判断することで、その自由が肯定されるべきか否定されるべきかが分かるのです。

 

第四節 不「自由」
 不自由は、不・自由ですから、自由の否定を表しています。そのとき、自由の基本構造を否定している場合と、自由の応用構造を否定している場合があります。

 

 第一項 基本構造における不「自由」
 自由の基本構造は「自(みずか)らに由(よ)る」ことですから、それを否定している不自由の意味は、「自らに由らない」ことや「自らに由れない」こととなります。
 「自らに由らない」場合は、由ろうと思えば由れるが、意思的に由ろうとしないことを意味しています。「自らに由れない」場合は、原理的に由れないときや能力的に由れないときなどがあります。これらの不自由は、その文脈により肯定的にも否定的にもなります。

 

 第二項 応用構造における不「自由」
 自由の応用構造を否定している不自由の意味は、心理状態・身体状態・共同関係・環境対応のそれぞれの場合に、「自らに由らない」ことや「自らに由れない」ことを言います。
 この不自由の場合も、自分が何に基づいているかによって、肯定的にも否定的にもなります。自由と不自由の関係は、例えば次のように示されます。

 

[図1-2] 応用構造における自由と不自由の関係

ziyu_t1_1_2.bmp 

 傾向的には、不自由は否定的な意味合いで使用される場合が多いと言えます。それは、文章の否定形が、倫理的な否定に結び付けられて論じられる傾向が高いことに関係しています。もっと簡単に言うと、否定文は、物事を否定するときに用いられることが多いということです。ですから、自由を否定している不自由は、否定的な意味で用いられることが多いのです。

 

 第三項 自由と不「自由」
 自由と不自由について考えてみるためには、天保年間(1830~1843)に記録された『塚田家覺書』などが参考になります。そこには、〈今日衣食住の三つに不自由なきは、全く御得意の贔屓による故也。夫を思ひば勿躰なし。天道を恐れ慎むべき事也〉とあります。自分が天道に基づいているという大前提によって、衣食住に対して不足することがないと考えられています。その上で、〈何事も自由をせんと思ふなよ不自由するがやはり自由ぞ〉と記されています。この一つの文章に登場する自由・不自由・自由は、それぞれ異なる意味を持っています。その意味は、文脈を押さえることで理解することができます。
 最初の「自由」は、自分が自(みずか)らに由(よ)って行為することを意味する基本構造における自由です。この自由を戒めた上で、次の「不自由」は共同関係や環境対応などの外面の自由の否定形です。この不自由を自覚することで、最後の「自由」は心理状態や身体状態などの内面の自由に至っているのです。この最後の自由は、天道に基づく自由であり、自分自身に基づく最初の自由とは別物なのです。
 まとめると、自分は自分に基づいていると思うのではなく、世の中は何でも自分の思い通りにはいかないと知るべきだというのです。そうすれば、天道によって自分が支えられていると知ったとき、自分が自分に由ることができる境地に至れるというのです。

 

 

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