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第一部『第二章 仏教伝来における「自由」』

【目次】
第一節 『摩訶止観』
第二節 『臨済録』
第三節 『碧巌録』


『第二章 仏教伝来における「自由」』
 日本の自由は、仏教における「自由」の用法から強い影響を受けています。仏教の教典において「自由」もしくは「自由自在」が、悟りの境地として、つまり心理状態の自由として用いられているのは、唐宋の禅学文献からになります。禅家では、「自由」と「自在」が同じ意味として使われる場合があります。

 

第一節 『摩訶止観』
 隋の仏教書である『摩訶止観(594)』は、灌頂(かんじょう)によって筆録されました。
作中に「自在」の文字を見ることができます。例えば、〈かの経に広く自在の相を説けり〉とあります。具体的には、〈法に始終なく、法に通塞なし、もし法界を知れば、法界には始終なく通塞なく、豁然として大いに朗かにして無礙自在なり〉と語られています。ここでの自在は、肯定的な意味合いを持っています。なぜなら、ここでの自在の「自」は、法界を知っている「自」だからです。

 

第二節 『臨済録』
 唐の法語集である『臨済録(1120)』は、臨済義玄の法語を慧然が編集しました。
 [示衆]では、〈師乃ち云く、今時、仏法を学する者は、且(しばら)く真正の見解を求めんことを要す。若し真正の見解を得れば、生死に染まず、去住自由なり〉とあります。臨済は、仏教の修行者が法について真の理解に達したなら、生死に執着しないで行くも留まるも自由な境地に達すると説いています。ここでの自由は、「自」が法の真の理解に達した「自」ですから、もちろん肯定的な意味を持っています。
 また、〈若し生死去住、脱著自由ならんと欲得すれば、?今聴法する底の人を識取せよ〉とあります。自由になろうとするなら、法の深い理解に達している人の言葉を聴くべきことが語られています。法の理解に基づいて自(みずか)らに由(よ)るため、肯定的な意味で用いられていることが分かります。

 

第三節 『碧巌録』
 宋の仏教書である『碧巌録(1125)』は、圜(えん)悟(ご)克(こく)勤(ごん)の著です。
[第七則・慧超念仏]において、〈一毫頭上に於いて透得して大光明を放つて七縦八横、法に於いて自在自由ならば、手に信せて拈(ねん)じ来るに不是あることなし〉とあります。ここでの自在自由は、法における「自」なので、肯定的な意味を持っています。
 [第十六則・鏡?啐啄]においては、〈便ち以て自由自在に啐啄の機を展べ、殺活の劍を用うべし〉とあります。外からの啐(ついばむ)と内からの啄(たたく)の両方の機会が一致したとき伝授は成就するというのであり、肯定的な自由です。

 

 

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