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第一部『第四章 キリスト教の受容における「自由」』

【目次】

『第四章 キリスト教の受容における「自由」』
 日本におけるキリスト教の受容に際して、キリスト教文献の日本語への翻訳の中に、自由の文字を見ることができます。このキリスト教受容における「自由」の用法によって、明治期にフリーダムやリバティが「自由」の訳語となる遠因が生まれました。
カトリック教会の教理本『ドチリナ・キリシタン(ポルトガル語:Doctrina Christão、ラテン語:Doctrina Christiana)』を日本語に翻訳した『どちりいな?きりしたん』(1590)には、〈万事叶ひ玉ふ御自由自在の御主でうす御一体まします事〉とあります。自由自在が「全能」という意味で用いられています。
 さらに、自由が「制限の不在」である「解放」を意味する用例もあります。師弟の会話として、次のように解放である自由が語られています。

 

  弟 解脱とは何事ぞや。
  師 自由の身となる事也。
  弟 何たる人が自由に成ぞ。
  師 囚はれ人、すでに奴の身と成たる者が自由に成る也。

 

 ここでの「囚はれ人」は自由を束縛された人で、「奴」は他者に使役され自由を失った奴隷のことです。キリスト教の影響によって、日本人の「自由」に「制限の不在」である「解放」という意味が付け加えられたことが分かります。
イエズス会が1593年に刊行したと考えられる『病者を扶くる心得』にも、〈貴とび敬ひ申べき真の御主は、でうす御一体にておはしまし、初まり終りと申事なく、万事かなひ玉ふ御自由自在の源〉とあり、自由が使われています。全能としての自由です。
スペインの神秘神学者ルイス・デ・グラナダ著(Guia de Pecadores)の訳書『ぎやどぺかどる』(1599)には、〈人は自由の分別を体し、既に万の物の霊長と定め給へば〉とあります。人は自由であり、それゆえに万物の霊長なのだと語られています。すなわち、意志の自由です。
 16世紀末頃の日本のキリシタン関連の古文書『エヴォラ屏風文書』には、造物主デウスの全知全能といふ属性に対して、〈御智恵御自由ノ量ナキヲ以テ治メ計イ玉フ〉、〈万事叶イ玉フ御自由ノ彼御精力〉、〈万事叶イ玉フ御自由ノ御源〉というように「自由」の文字が使われています。
 ハビアン著作の江戸初期のキリシタン教理書『妙貞問答』(1605)には、〈万事御自由ノ主トモ申也〉とあります。ここでも、「全知全能」としての自由が示されています。
 これらのキリスト教文献における自由は、当たり前の話ですが、キリスト教の教義に基づいた自由です。キリスト教によって、自由に「全能」という意味、および「制限の不在」である「解放」という意味が付加されたことによって、明治に「フリーダム」や「リバティ」の訳語として「自由」が用いられる下地が生まれたのです。

 

 

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