TOP 概要 自己紹介 論文 小説 日記 本の感想 LINK


  にほんブログ村 人気ブログランキング に参加しています。1日1クリックお願いします!
  にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ         

  

第一部『第五章 「自」分の理「由」』

【目次】

『第五章 「自」分の理「由」』
 日本語の「自由」とは、読んで字のごとく「自(みずか)らに由(よ)る」ことです。つまり、自分の理由のことなのです。では、自分とは何でしょうか?
 世阿弥(1363,64~1443,44)の『遊楽習道風見』には、〈有は見、無は器なり。有を現はす物は無なり〉とあります。その上で、〈四季折々の時節により、花葉、雪月、山海、草木、有情、無情に至るまで、萬物の出生をなす器は天下なり。此の萬物を遊楽の景躰として、一心を天下の器になして、廣大無風の空道に安器して、是得遊楽の妙花に至るべき事を思ふべし〉と語られています。
 自分が、無私になることにおいて、私は無になります。そこで私は、器になります。ですから、そこで問われるべきことは、その器に何を入れるかなのです。
 私がただ自由であるとき、それは自分の理由が私(わたくし)であることになりますから、それは否定されるのです。私の器に、道理や天道が入っている場合、自分の理由は道理や天道に基づいていることを意味しますから、その自由は肯定されるのです。
 自分の「自」は、自(みずか)らと読めますが、「自(おの)ずから」とも読めます。自分は、おのずからとみずからの重なりにおいて成り立っています。おのずから道理あり、みずから道理を行うとき、日本の自由は、素晴らしいものとなるのです。

ziyu_f1_5_1.bmp[図1-5] 素晴らしき自由の構造

 

 自由を否定すべきは、ただ「自(みずか)らに由(よ)る」だけの我儘勝手な場合です。自由を肯定すべきは、おのずから道理あり、その道理に基づいてみずから行う場合です。これが、日本本来の自由の用法なのです。

 

 

 第二部『第一章 西洋式「自由」論』 へ進む

 

 第一部『第四章 キリスト教の受容における「自由」』 へ戻る

 『日本式 自由論』の【目次】 へ戻る
 論文一覧 へ戻る

ウェブページ

Powered by Movable Type 5.12


  にほんブログ村 人気ブログランキング に参加しています。1日1クリックお願いします!
  にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ         

  

Access Counter
TOP 概要 自己紹介 論文 小説 日記 本の感想 LINK