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第二部『第三章 キリスト教の「自由」』

【目次】
第一節 オリゲネスの「自由」
第二節 アウグスティヌスの「自由」
第三節 トマス・アクィナスの「自由」
第四節 ルターの「自由」
第五節 キリスト教の「自由」についての考察


『第三章 キリスト教の「自由」』
 キリスト教においては、神の前における自由が問題となります。全知全能の神という設定において、自由意志の問題が発生するからです。
 全知全能の神という設定の前では、人間の意志による選択ということが不可能になると考えられます。なぜなら、神が全てを知っていて、全てを行う能力を有しているなら、神は人間の全てを司るため、人間が何かを判断して選択を決断することはできないからです。私の考えを神は既に知っており、私の為すことを神が全て差配しているのなら、私の判断はあり得ず、私の意志は存在しないことになります。キリスト教神学における自由意志の問題は、この問題に対する取り組みとして展開されています。

 

第一節 オリゲネスの「自由」
 オリゲネス(Origenes Adamantius,185頃~254頃)は、ギリシャ思想による聖書解釈を試みた、古代キリスト教最大の神学者です。
 『諸原理について』には、[自由意志について]という章があり、自由意志について論じられています。まず、〈神によって与えられた動きを善に向けるか、悪に向けるかは我々によることである〉という前提が置かれています。それは、〈我々は意思の能力を神から受けているが、あるいは良い願望に、あるいは悪い願望に向かうように、この意思を用いるのは我々である。行為(effectus)についても、同様に考えねばならない〉という考え方です。その意思については、〈我々の自由意志にかかっていることが、神の助けなしに成し遂げられうると考えてはならないし、神のみ手の果たすことが、我々の行動、努力、意図を伴わないで成し遂げられるとも考えてはならない〉と語られています。

 

第二節 アウグスティヌスの「自由」
 アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354~430)は、初期キリスト教の西方教会最大の教父です。青年期にマニ教を信奉し、次いで新プラトン学派哲学に傾倒し、32歳でキリスト教に回心しました。
 『神の国』には、〈わたしたちは、神の予知を認めても、意志の自由を廃棄せねばならぬわけではなく、また、意志の自由を認めても、神の予知を否定する(それは不敬である)必要もない〉とあります。それは、〈意志の自由を告白するのは、よく生きんがためである〉からとされています。つまり、〈わたしたちは、自由に生きんがために、その扶助によってわたしたちが自由であり、あるいは自由になるであろうもの[神]の予知を否定することをけっしてしてはならない〉というわけです。
 このことは、〈神はこの知性的本性に自由意志を与えられたが、そのため、かれらがもしも選ぶなら、神を、すなわち自分の至福を捨てて、ただちに悲惨がつづくということがありえたのである〉と語られています。〈神は人間自身をも同じように自由意志をもつ正しいものとしてつくられた〉と見なしているのです。
 そのため、〈神は、人間が神の法に違反して神を捨て罪を犯すであろうことを予知しておられたが、天使のばあいと同様、人間から自由意志の力を奪いとることはされなかった。神はそれを予知すると同時に、神がその悪からも何らかの善をつくるであろうことを予見されたからである〉と語られています。

 

第三節 トマス・アクィナスの「自由」
 トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225頃~1274)は、イタリアの哲学者で神学者です。キリスト教とアリストテレス哲学を総合し、スコラ学を集大成しました。
 『神学大全』には、〈われわれは、必然的な仕方で意志するのでないことがら、ないし自然本性的衝動によって意志するのでないことがらに関しては、自由意志を有している〉とあります。人間には自由意志があると述べた上で、神については、神は〈御自身の善性は必然的にこれを意志するが、御自身以外のものは必然的に意志するのではない。それゆえ神は、必然的に意志するのではないことがらに関して、自由意志を有するのである〉と考えられています。そのため、〈神はその善性によってすべてを意志し給うのであるから、神が罪という悪を意志することが不可能であることはあきらかである〉と語られています。

 

第四節 ルターの「自由」
 ルター(Martin Luther, 1483~1546)は、ドイツの宗教改革者です。
 『キリスト者の自由』においては、二つの原則として、〈キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない〉ということと、〈キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、だれにも従属している〉ということが同時に示されています。この矛盾すると思われる二つの原則が、キリスト者においては両立すると考えられています。
 そのためルターは、〈きみはしっかりした信仰をもってキリストに自分をゆだね、ためらわず彼を信頼すべきである。そうすれば、その信仰のゆえに、きみのすべての罪は赦され、きみの滅びはみな克服されよう。そしてきみは、正しく、真実に、平和に、義とされ、またすべての掟が満たされ、すべてのものから自由にされよう〉と述べています。〈われわれは、キリスト者は信仰で十分であり、義とされるために何の行ないも必要としなければ、たしかにすべての戒めと掟とから解放されてもいる。彼が解放されているなら、たしかに自由であるのだ。これがキリスト者の自由であり、唯一の信仰である〉という考えの上に立っているからです。そのため、〈彼の考えはあらゆる行ないにおいて自由でなければならず、ただ行ないをもってほかの人々に仕えて役に立つように、ほかの人々に必要なことのほかは何も念頭に置かないように、注意すべきである〉ということが、真のキリスト者の生活として説かれています。
 ルターは、〈キリスト者は自分自身のうちに生きるのでなく、キリストと自分の隣人とにおいて生きる。すなわち、キリストにおいては信仰を通して、隣人においては愛を通して生きるのである。彼は信仰によって自分を越えて神へとのぼり、神のところから愛によってふたたび自分のもとへとくだり、しかも常に神と神の愛のうちにとどまる〉と考えています。その上で、〈見よ、これが真の、霊的なキリスト者の自由であって、心をあらゆる罪と律法と戒めから自由にする。それは天が地より高いように、ほかのあらゆる自由にまさるものである。神よ、どうかわれわれがこの自由を正しく理解し、これを保つことを許したまえ。アーメン〉と語っています。


第五節 キリスト教の「自由」についての考察
 キリスト教における自由意志の問題に触れたとき、日本人なら疑問を抱きます。「意志は意志」なのであり、「意志は、自由意志である」というように、意志に「自由」を付け加えることに違和感を覚えるからです。
 『古今和歌集』の[仮名序]には、〈やまとうたは、人のこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける〉とあります。心とは、生まれることで世界が芽生え、死ぬことで世界が枯れ果てるものを、世界にたくさん居ることにする、世界のために必要な考え方なのです。
 伊藤仁斉(1627~1705)の『語孟字義』には、〈心とは、人の思慮運用するところ〉とあり、〈情はただ是れ性の動いて欲に属する者、わずかに思慮に渉るときは、すなわちこれを心と謂う〉とあります。意志に関しては、〈意とは、心の往来計較する者を指して言う〉とあり、〈心の之くところ、これを志と謂う〉とあります。往来計較とは、あれこれくらべあわせて考慮することです。選択肢を考慮した上で決定を下すのが、意志の働きだというわけです。
 日本人の世界観においては、制限の不在を意味する自由を用いて、「意志」を「自由意志」と表現することに違和感を覚えます。違和感を覚えない人は、少なからずキリスト教的世界観(もしくは一神教的世界観)に染まっているからです。日本人が世界を観るとき、意志は、(制限の不在を意味する)自由であるか自由でないかという問題の場にはないのです。
 世界観の前提として、キリスト教のように全知全能の絶対者を設定した場合に、意志は自由であるか否かが問題となるのです。日本人のように、絶対や究極を設定しない、もしくは想定に留めておくならば、意志は自由である否かの問題は発生しないのです。
 例えば、人間が人形を操るとき、人間には意志があり、人形には意志がないと感じられます。この内在の原理を、超越の設定により、階層をずらして「人間→人形」の関係を「神→人間」の関係へと移行させます。そうすると、自分は人形ではないと言い張る必要が出てくるのです。
 この問題に対して日本思想の中に類例を探すと、江戸後期の儒学者である佐藤一斎(1772~1859)の思想を挙げることができます。『言志四録』には、〈人の富貴貧賤、死生寿殀、利害栄辱、聚散離合に至るまで、一定の数に非ざるは莫し。殊に未だ之を前知せざるのみ。譬えば、猶お傀儡の戯の機関已に具われども、而も観る者知らざるがごときなり〉とあります。人の貧富・死生・寿命・利害・名誉・縁などの運命は、既に定まっているという考え方が示されています。ただ人間は、その運命を知らないだけだというのです。そのことが、あやつり人形の芝居に例えられています。あやつり人形のからくりは定まっていますが、観客はそれと知らずに見ているようなものだというのです。
 キリスト教においては、この人間とあやつり人形の関係が、全知全能の神と人間という関係に階層をずらした形で現れます。そのため、キリスト教において人間の自由意志の問題が発生し、意志は、自由な意志であることが必要になり、それゆえ自由は、肯定すべき概念となってしまうのです。
 

 

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