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第二部『第四章 ホッブズの「自由」』

【目次】
第一節 『リヴァイアサン』
第二節 ホッブズの「自由」についての考察


『第四章 ホッブズの「自由」』
 ホッブズ(Thomas Hobbes,1588~1679)は、英国の哲学者で政治思想家です。著作である『リヴァイアサン』から、ホッブズの自由について見ていきます。

 

第一節 『リヴァイアサン』
 『リヴァイアサン』には、〈≪自由≫(リバティ)とは、この語の本来の意味に従えば、外的な障害の存在しないこと〉と定義されています。すなわち、〈「リバティ」、あるいは「フリーダム」というのは、[本来]対立物がないことを意味する〉のであり、〈≪自由人≫とは、「みずからの強さと知力によってなしうる種々のことがらにおいて、自分でやろうとすることを妨げられない人間」である〉とされています。
 『リヴァイアサン』の世界観では、〈自分たちすべてを畏怖させるような共通の権力がないあいだは、人間は戦争と呼ばれる状態、各人の各人にたいする戦争状態にある〉と考えられています。そこでは、〈絶えざる恐怖と、暴力による死の危険がある。そこでは人間の生活は孤独で貧しく、きたならしく、残忍で、しかも短い〉とされています。この戦争状態はまったくの自然状態であり、自然権という考え方に基づいています。〈≪自然権≫とは、各人が自分自身の自然すなわち生命を維持するために、自分の力を自分が欲するように用いうるよう各人が持っている自由である。したがって、それは自分自身の判断と理性とにおいて、そのためにもっとも適当な手段であると考えられるあらゆることを行なう自由である〉とあります。
 この自然状態から人間が脱するためには、〈部分的には情念に、部分的には理性〉が必要とされ、〈人々に平和を志向させる情念には、死の恐怖、快適な生活に必要なものを求める意欲、勤労によってそれらを獲得しようとする希望がある。また人間は理性の示唆によって、たがいに同意できるようなつごうのよい平和のための諸条項を考えだす。そのような諸条項は自然法とも呼ばれる〉と語られています。〈≪自然法≫[レクス・ナトゥラリス]とは、理性によって発見された戒律または一般法則であり、それによって人はその生命を破壊したり、生命維持の手段を奪い去るようなことがらを行なったり、また生命がもっともよく維持されると彼が考えることを怠ることが禁じられる〉とあります。
 ちなみに、〈≪権利≫はある行為をやったりやらなかったりする自由であり、≪法≫は、そのどちらかに決定し、それを拘束するもの〉と定義されています。
 自然法については、基本的なものとして、〈各人は望みのあるかぎり、平和をかちとるように努力すべきである。それが不可能のばあいには、戦争によるあらゆる援助と利益を求め、かつこれを用いてもよい〉とあります。第二の自然法として、〈平和のために、また自己防衛のために必要であると考えられるかぎりにおいて、人は、他の人々も同意するならば、万物にたいするこの権利を喜んで放棄すべきである。そして自分が他の人々にたいして持つ自由は、他の人々が自分にたいして持つことを自分が進んで認めることのできる範囲で満足すべきである〉とあります。第三の自然法として、〈結ばれた契約は履行すべし〉があります。ちなみに、〈人々が≪契約≫(コントラクト)と呼ぶところのものは、権利の相互譲渡のことである〉とあります。
 自然法を有効たらしめるためには、(イギリス連邦などの政治共同体である)コモンウェルスが必要であるとホッブズは考え、〈コモンウェルスの目的は、人間の安全の保障にある〉と述べています。なぜなら、〈自然法[「正義」「公平」「謙虚」「慈悲」など、[要するに]「おのれの欲するところを人にもなせ」]が、何かの力にたいする恐怖なしに、ひとりでに遵守されることは、私たちの自然の情に反している〉と考えられているからです。コモンウェルスは、〈それは一個の人格であり、その行為は、多くの人々の相互契約により、彼らの平和と共同防衛のためにすべての人の強さと手段を彼が適当に用いることができるように、彼ら各人をその(行為の)本人とすることである〉と定義されています。
 また、ホッブズの考えでは、〈国民は統治の形体を変更できない〉とされています。なぜなら、〈すでにコモンウェルスを設立した人々は、主権者の行為、判断を認めることを契約により義務づけられているのだから、彼の許可なしには、いかなるばあいであれ、他の何者かに新しく服従する契約を彼らのあいだで合法的に結ぶことはできない〉と考えられているからです。
 ホッブズは、〈人間は平和を獲得し、それによって自己保存をはかるために、私たちがコモンウェルスと呼ぶ人工の人間をつくりあげた。同じように人間は、「市民法」と呼ばれる人工の鎖をつくった。そして彼ら自身の相互契約によって、鎖の一方の端を主権者の権力を与えられた人間または合議体の口に、他方の端を彼ら自身の耳に結びつけた〉と述べています。そこでは、〈国民の自由は契約から生じた自由にある〉とされています。それは、〈法律が不問に付したあらゆる種類の行為において、人間は理性が自分にとってもっとも有利だと示唆することを行なう自由を持つ〉ということを意味しています。そのため、〈国民の自由は、主権者が彼らの行為を規制したさいに、不問に付したことがらにのみある〉ということになります。
 ただし、ホッブズは、〈主権者にたいする国民の義務は、主権者が国民を保護できる権力持ち続けるかぎり、そしてそのかぎりにおいてのみ、継続するものと考えられる〉と述べています。ホッブズのこの意見については、注意が必要です。
 この段階においては、自然権・自然法に加えて市民法が重要な役割をはたします。〈≪市民法≫とは、人があれこれの特定のコモンウェルスではなく、コモンウェルス一般の構成員であるがゆえに守らねばならぬ法律である、と私は理解している〉とホッブズは述べています。〈≪市民法≫とは、すべての国民にとってコモンウェルスが善悪の区別、すなわち何が規則違反で何がそうでないかを区別するのに用いるよう、ことば、文書、その他意志を示すに十分なしるしによって彼らに命じた諸規則である〉と定義されています。〈「権利」とは「自由」すなわち市民法が私たちに残した自由であるが、これにたいして「市民法」とは、「義務」であり、自然法が私たちに与えた自由を私たちから取り去るものだからである。自然は各人に、自分自身の力によってみずからを維持し、また予防のためには疑わしい隣人を侵略する権利を与えた。しかし、市民法は、法の保護が安全に持続されうるばあいには、すべてこの自由を取り去るのである〉とあります。
 以上をまとめると、〈まったくの自然状態、いいかえれば、絶対的自由の状態、たとえば主権者も国民もないような状態は、無政府状態であり、また戦争状態であるということ。その状態を避けるために人々が導かれる戒律は自然法であること。主権者権力を伴わないコモンウェルスは、実体のないことばにすぎず、存立しえないこと。国民は、その服従が神の法に反しないかぎり、すべてのことがらにおいて、主権者に単純に服従すべきであるということ〉が示されています。

 

第二節 ホッブズの「自由」についての考察
 ホッブズは自由について論じていますが、自由に優先権を与えていないため、自由主義者ではありません。
 ホッブズは、自然権である自由は、自然法と市民法によって制限すべきだと考えています。権利とは、市民法によって許容された自由を意味しています。市民法は義務であり、義務は自由や権利より高い優先度を与えられています。そのため、義務によって、自由や権利を制限できるのです。ホッブズの権利は、日本では楽市楽座の語に見られるように、「楽」の文字が近い意味で用いられてきました。
 自由の優先は、次章のジョン・ロック(John Locke, 1632~1704)の論理によって登場します。ホッブズの議論では、人間の安全保障を前提にしていながら、国民は統治の形体を変更できないとしていますが、ロックは異なる考えを提示しています。

  

 

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