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第二部『第五章 ロックの「自由」』

【目次】
第一節 『人間知性論』
第二節 『統治論』
第三節 ロックの「自由」についての考察

 


『第五章 ロックの「自由」』
 ジョン・ロック(John Locke, 1632~1704)は、英国の哲学者であり、イギリス経験論の代表者です。著作である『人間知性論』と『統治論』から、ロックの自由について見ていきます。

 

第一節 『人間知性論』
 『人間知性論』には、〈人間が自分自身の心の選択ないし指図に従って、考えたり考えなかったり、動かしたり動かさなかったりする力能をもつかぎり、そのかぎり人間は自由である〉とあります。そのため、〈自由の観念は、ある行動者のうちにある力能、すなわち、ある特定の行動を行なうと抑止するのとどちらかを他方より選択する心の決定ないし思惟に従って、この行動を行なったり抑止したりする力能の観念なのである〉と定義されています。
 そのため、〈ある思惟を心の選択に従って取り上げたり捨てたりする力能が私たちにある、そういった思惟である場合、私たちは自由である〉とあり、〈人間は、行動するか行動しないかのどちらかを選択する自分自身の思惟の決定によって行動したりしなかったりするというこの力能の及ぶかぎり、自由なのである〉と述べられています。
 自由の例を挙げると、〈じっと座っている人間は、それでも自由だと言われる。というのは、もし歩こうと意志すれば、歩けるからである。が、もしじっと座っている人間が自分自身を移動する力能をもたなければ、その人は自由でない。同じように、崖から落ちている人間は、運動中でも自由ない。なぜなら、たとえ意志しても、その運動を止められないからである〉とあります。その上でロックは、〈心は、大部分の場合、経験上明白なように、欲望のあるものの実行・満足を停止する力能をもっており、ひいては、すべての欲望について順々に停止する力能をもっている。そこで、心は自由にそれら欲望の対象を考察し、あらゆる面にわたって検討し、相互に思い量るのである。ここに、人間のもつ自由がある〉と述べています。つまり、〈だれしも自分自身のうちに日々実地経験できようが、私たちは、あれこれの欲望の遂行を停止する力能をもっている。私にはこれがいっさいの自由の原泉と思われる〉というわけです。
 ロックは、〈私たち自身の判断で決定されることは自由の拘束でない〉と言い、〈私たちの自由の縮小でなく、自由の目的であり、自由の使用である〉と述べています。そのため、〈[たとえば、囚人で]鎖をはずされ、牢獄の扉が開けられてある者は、たとえ自分の選択が、夜の暗さや天候の悪さや他に宿る所のないことやでとどまる方に決定されるとしても、出てゆくかとどまるかを自分のもっとも好きなとおりにできるのだから、完全に自由なのだ〉ということになります。
 まとめると、〈自由というのは、心の指図するとおりに行動したり行動しなかったりする力能である〉とされ、〈無差別の及ぶかぎり、人間は自由であり、それ以上には自由ではない。たとえば、私には自分の手を動かしたり静止させたりする性能がある。この作用力能は、私の手を動かすのと動かさないのとに対して無差別である。そのとき、その点にかんして、私は完全に自由である〉と語られています。

 

第二節 『統治論』
 『統治論』では、〈自然の状態〉について、〈人それぞれが他人の許可を求めたり、他人の意志に頼ったりすることなく、自然の法の範囲内で自分の行動を律し、自分が適当と思うままに自分の所有物と身体を処理するような完全に自由な状態〉と定義されています。そこでは、〈すべての者が相互に平等であって、従属や服従はありえない〉ことになっています。なぜなら、〈自然の状態にはそれを支配する自然の法があり、それはすべての人を拘束している。そして理性こそその法なのだが、理性にちょっとたずねてみさえすれば、すべての人は万人が平等で独立しているのだから、だれも他人の生命、健康、自由、あるいは所有物をそこねるべきではないということがわかるのである。なぜなら人間は皆、唯一全能でかぎりない知恵を備えた造物主の作品だからである〉と考えられているからです。
 そこでは、〈自分自身の保全が脅かされないかぎり、できるだけ他の人々をも保全すべきである〉とされています。自然の状態について、〈すべての人は自分自身の同意によってある政治社会の成員となるまでは、その状態に自然にあり、またそこにとどまる、と確言する〉とロックは述べています。
 ただし、〈私を奴隷化しようと企てる者は、そのことで私と戦争の状態に入るのである〉とあります。自然の状態は、〈人々が理性にしたがって一緒に生活し、しかも彼らの間を裁く権威を備えた共通の優越者を地上にもたない状態〉とあり、戦争の状態は、〈他人に暴力を用いたり、そういうもくろみを宣言する者があっても、救助を訴えるべき共通の優越者が地上にいない状態〉とあります
 この考え方に立った上で、ロックは「人間が生来もっている自由」と、「社会における人間の自由」と、「政府のもとでの人間の自由」について次のように述べています。
 まず、〈人間が生来もっている自由とは、地上のどのような優越した権力からも自由であるということであり、人間の意志や立法権に従属することなく、ただ規則として自然の法だけをもっているということである〉とあります。
 次に、〈社会における人間の自由とは、人々の同意によって国家のなかに確立された、立法権以外のどのような権力にも従属しないということであり、また立法部が自分に寄せられた信託に従って制定するもの以外のどのような意志の支配にも、あるいはどのような法の拘束にも従属しないということである〉とあります。
 最後に、〈政府のもとでの人間の自由とは、その社会のすべての人に共通で、そこに立てられた立法権によって制定された、一定の規則に従って生活することであり、規則に定められていない場合は、万事に自分自身の意志に従い、他人の気紛れな、不確かな、測り知れない、勝手気ままな意志には服従しないという自由である〉とあります。
 ロックは法と自由の関係について、〈法の目的は、自由を廃止したり制限したりすることではなく、自由を保全し拡大することなのである〉と述べています。〈自由は法のないところには存在しえない〉と考えられていて、〈自由とは他人から拘束や暴力を受けないことであるから、そのような自由は法のないところには存在しえないのである〉とあります。
 つまり、〈自由とは、自分が支配下にある法の許す範囲内で、自分の身体、行為、および全所有物を、自分の好むままに処理し、整理し、その際、他人の勝手気ままな意志には服従せず、自由に自分の意志に従う自由のことである〉と定義されているのです。これは、〈人間の自由、すなわち自分自身の意志に従って行動する自由は、人間が理性をもっているということに根拠を置いている。そして理性は、人間に自分自身を支配すべき法を教え、どの程度まで自分の意志の自由が許されているかを知らせてくれるのである〉という考え方によっています。
 ロックは、〈政治社会というものは、それ自体のうちに、所有物を保全する権力と、そのための、社会の人々のすべての犯罪を処罰する権力をもたなければ、存在することも存続することもできない〉とした上で、〈政治社会が存在するのは、その成員のだれもが、社会によって樹立された法に保護を求めることを拒否されないかぎり、この自然的な権力を放棄して、その権力を共同社会の手に委ねるという場合、そんな場合だけなのである〉と述べています。さらに、〈人がその生来の自由を放棄し、市民社会の拘束を受けるようになる唯一の方法は、他人と合意して一つの共同社会に加入し、結合することであるが、その目的は、それぞれ自分の所有物を安全に享有し、社会外の人に対してより大きな安全性を保つことをつうじて、相互に快適で安全で平和な生活を送ることである〉とされています。そのため、〈すべての人は、一つの統治のもとで一つの政治体をつくることに他人と同意することによって、その社会の各人が負わねばならない義務、すなわち多数派の決定に従い、それに拘束されるという義務に服することになるのである〉とあります。
 ロックは、統治に対する〈暗黙の同意〉においては、〈自由にそこを立ち去ってほかのどんな国家に加わってもよく、あるいは他人との合意のもとに、世界中のどの部分でも、自分で見つけることのできる自由で無所有の無人の地方に新しく国家をつくってもよい〉と述べています。それに対して〈国家の一員となるという同意〉においては、〈何かの災難によって自分の服している統治が瓦解するにいたるか、あるいは何か公的な決議によって彼がそれ以上国家の成員であることを絶ってしまわないかぎり、永遠に、そしていやおうなくその国家の臣民でなければならないし、またその状態を変えてはならない〉と述べています。その場合は、〈自然の状態の自由にふたたび復帰することはできない〉とされています。
 人々が自然状態から抜け出し社会に入る理由は、〈所有者の保全〉であり、人々が立法部に権限を与える目的は、〈社会の全成員の所有物の番人や防壁として、社会の各部分、各成員の権力を制限し、その支配を適度に抑えるために法をつくり、規則を定めることにある〉とされています。そのため、〈立法部が社会のこの基本的な規則を犯し、国民の生命、自由、資産に対する絶対権力を、その野心や恐怖や愚かさや堕落から、みずから握ろうとしたり、あるいはだれか他人の手に委ねようとつとめる場合〉には、〈国民はその根源的な自由を回復する権威〉と〈自分たち自身の安全と保証のために備える権利〉によって、〈国民は至高の存在として行動する権利をもち、立法権を自分たちの手の中にもち続けるか、あるいは新しい統治の形体を樹立するか、あるいはまた、古い統治の形態のまま立法権を新しい人々の手に委ねるか、自分たちがよいと思うところに従って決定する権利をもつのである〉とされています。

 

第三節 ロックの「自由」についての考察
 ロックは自由を、個人の能力や力能とする一方で、社会の状態の意味でも論じています。
 『人間知性論』においては、欲望を停止させる意志による行動したりしなかったりする力能が自由であり、能力を発揮するための制約がない無差別な状態において自由であるとされています。制約がないという自由を論じることで、ロックは自由主義者としての顔をのぞかせています。
 『統治論』においては、自然状態が完全に自由な状態と定義されています。ホッブズの想定とは、まったく異なっています。ロックの自然状態は、全能の造物主の作品である人間には理性があるため、万人が平等で独立しているという幼稚な設定の上で展開されています。そのため、自然状態において当たり前に発生する野蛮性を、戦争状態として区別し、自然状態から分離して論じているのです。
 この致命的におかしな設定の上で、ロックは自由の状態について詳しく論じています。「人間が生来もっている自由」には「自然の法」が対応し、「社会における人間の自由」には、「国家のなかに確立された立法権」が対応し、「政府のもとでの人間の自由」には「立法権によって制定された一定の規則」が対応しています。規則に定めがない場合は、万事に自分自身の意志に従う自由があるとされています。これらの対応関係から分かるように、ロックの自由は法の範囲内で自分の好むままに、他人の意志に服従せず、自分の意志に従うことを意味しています。
 ここで注意が必要なのは、法は、ほぼ全ての社会や統治で問題になる概念ですが、そこに自由主義が出てくる場合と出てこない場合があるということです。自由主義者によって法と自由が語られるとき、ある特別な条件が加えられているのです。例えばロックの場合、次の三点を自由主義の特徴として挙げることができます。

(1) 法の目的は、自由を廃止したり制限したりすることではなく、自由を保全し拡大することなのである。
(2) 人間の自由、すなわち自分自身の意志に従って行動する自由は、人間が理性をもっているということに根拠を置いている。
(3) すべての人は、一つの統治のもとで一つの政治体をつくることに他人と同意することによって、その社会の各人が負わねばならない義務、すなわち多数派の決定に従い、それに拘束されるという義務に服することになるのである。

 これら三点は、全て間違っています。
 まず(1)に対して、法は状況や条件によって、自由を廃止することも、制限することも、保全することも、拡大することも必要になります。それらの試行錯誤を適宜行うことが重要なのです。廃止と制限を除外していることから、ロック自身に都合の良いように、世界を単純化してとらえていることが分かります。世界の複雑性は、そのような水準では対処できません。(2)に対しては、人間の理性は間違うことがあります。理性は大切ですが、理性が間違うことを考慮に入れなければ、理性とすら言えません。(3)に対しては、デモクラシー(民衆政治)の理念が加えられています。しかし、多数派は、間違えることが多々あるのです。
 以上から、ロックの自由主義は欠陥品です。
 ちなみに立法部が絶対権力を握ろうとした場合、抵抗の根拠は、根源的な自由を回復する権威や、自身の安全と保証のために備える権利などではありません。抵抗の根拠は、善きものを先祖から受け継ぎ、子孫へ受け渡すという国民の役割にこそあるべきなのです。そこにおいて、悪しきものを防ぐという役割も生まれるのです。
 自分たちがよいと思うところに従って決定する権利など、傲慢以外のなにものでもないのです。そのような権利があると思う者は、国民ではなかったのです。

  

 

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