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第二部『第九章 ヘーゲルの「自由」』

【目次】
第一節 『精神現象学』
第二節 『法の哲学』
第三節 『歴史哲学講義』
第四節 ヘーゲルの「自由」についての考察

 

第九章 ヘーゲルの「自由」
 ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770~1831)は、ドイツの哲学者です。世界を、矛盾を止揚しながら発展する弁証法的過程としてとらえました。著作である『精神現象学』と『法の哲学』、講義録の『歴史哲学講義』から、ヘーゲルの自由について見ていきます。

 

第一節 『精神現象学』
 『精神現象学』には、〈内的な変革から、現実を現実的に変革すること、意識の新しい形態、すなわち絶対的自由が現われ出てくる〉とあります。意思から自由が現れるので、〈精神は、絶対的自由として現存することになる〉と語られています。そこでは、〈意識して自ら自由となるとき、自由が果たしうる仕事は、一般的実体としての自由が自ら対象となり、永続する存在となる点に、在ることになろう〉と語られています。
 また、ヘーゲルは、〈絶対的自由は、一般的意志と個別的意志の対立を、自分自身と和解させる〉とも述べています。この絶対的自由は、ドイツという国において論じられています。すなわち、〈絶対的自由は、自己自身を破壊する現実から出て、それとは別の自己意識的精神の国[ドイツ]に移る。この国で絶対的自由は、この非現実にいながら真と認められ、この真理を思想とすることにおいて、精神は、思想であり、思想に止める限り、元気をとりもどし、自己意識のなかに閉じこめられた存在を、完全で充分な本質であると知るのである。つまり、道徳的精神という新しい形態が生じたのである〉というわけです。
 ヘーゲルは、〈自己意識は、自らの自由を知っている点で、絶対に自由であり、自らの自由をかく知っていることこそは、その実体であり、目的であり、唯一の内容である〉と考えています。

 

第二節 『法の哲学』
 『法の哲学』には、〈法の地盤は総じて精神的なものであって、それのもっと精確な場所と開始点は意志である。これは自由な意志である。したがって自由が法の実体と規定をなす〉とあります。そこにおいて、〈意志は自由であるということ〉と〈自由なものは意志である〉ことが共に示されています。
 自我における意志の自由ついては、〈自我は自分を規定しながら、しかもなお依然として自分のもとにありつづけ、普遍的なものを固持することをやめない。これが自由の具体的な概念である〉とされています。そこでは、〈自由は、規定されていないことにあるのでもなければ、規定されていることにあるのでもなくて、この両方である〉と語られています。
 法と権利については、〈およそ現存在が、自由な意志の現存在であるということ、これが法ないし権利である。――法ないし権利はそれゆえ総じて自由であり、理念として有る〉と言われ、〈法ないし権利はなにか総じて神聖なものであるが、その理由はもっぱらただ、法ないし権利が、絶対的な概念の現存在、自己意識的な自由の現存在であるからである〉と述べられています。その権利については、〈(主観的)道徳、(客観的)倫理、国家利益は、それぞれ一つの独自の権利である。なぜなら、これらの形態のどれもが自由の規定であり自由の現存在であるからである〉とあります。
 善については、〈善は実現された自由であり、世界の絶対的な究極目的である〉とされています。倫理については、〈倫理とは生きている善としての自由の理念である〉とされ、また、〈倫理とは、現存世界となるとともに自己意識の本性となった、自由の概念である〉ともあります。義務については、〈義務は自由の制限ではなくて、自由の抽象的観念の制限、つまり不自由の制限にすぎない。義務とは本質への到達、肯定的自由の獲得なのである〉とあります。そこで、〈奴隷は義務をもつわけがない。ただ自由な人間だけがこれをもつ〉と述べられています。この自由な人間については、〈個々人のおのれのうちでの無限な自立的人格性という原理、すなわち主体的自由の原理は、内面的には、キリスト教において出現し、外面的には、したがって抽象的普遍性と結びついたかたちでは、ローマ世界において出現した〉と語られています。
 そして国家については、〈国家は具体的自由の現実性である。だが具体的自由とは、人格的個別性とそれの特殊的利益とが余すところなく発展して、それらの権利がそれ自身として独立に[家族および市民社会の体系において]承認されるとともに、またそれらが一面では、おのれ自身を通じて普遍的なものの利益に変わり、他面では、みずから了解し同意してこの普遍的なものを承認し、しかもおのれ自身の実体的精神として承認し、そしておのれの究極目的としてのこの普遍的なもののためにはたらくということにある〉と語られています。

 

第三節 『歴史哲学講義』
 『歴史哲学講義』は、ヘーゲルの死後に、ヘーゲル学派の弟子たちによって、ヘーゲルの講義ノートと聴講生のノートを中心に編纂されたものです。
 まず理性について、〈理性とは、まったく自由に自己を実現する思考なのです〉と定義されています。ヘーゲルは、〈物質の実体が重さであるとすれば、精神の実体ないし本質は自由であるといわねばなりません〉と述べ、〈自由こそが精神の唯一の真理である、というのが哲学的思索のもたらす認識です〉と語っています。〈物質の実体は物質の外部にあるが、精神は自分のもとで安定している。それこそがまさに自由です〉とあります。そのため、〈自由であるのは、自分のもとにあるときです〉と考えられています。そこにおいて、〈精神は自由だ、という抽象的定義にしたがえば、世界の歴史とは、精神が本来の自己をしだいに正確に知っていく過程を叙述するものだ、ということができる〉と語られています。
 ヘーゲルは、〈世界史とは自由の意識が前進していく過程であり、わたしたちはその過程の必然性を認識しなければなりません〉と述べています。ヘーゲルは世界史について、〈東洋人はひとりが自由だと知るだけであり、ギリシャ人とローマの世界は特定の人びとが自由だと知り、わたしたちゲルマン人はすべての人間が人間それ自体として自由だと知っている〉と考えています。
 ヘーゲルは、〈精神の自由についての意識と精神の自由の実現〉は、〈世界の究極目的〉だと考えているのです。〈自由とは、自分みずからを目的としてそれを実現するものであり、精神の唯一の目的なのです〉とあります。つまりヘーゲルは、〈人間が自己を目的とするといえるのは、人間のうちに神々しいものがあるからで、それは、もともとは理性と名づけられ、それが活動力として明確なすがたをとると、自由と名づけられるものです〉と考えているのです。
 この考え方を展開していくと、〈共同意思としてあるのは、むしろ、法、道徳、国家であって、それこそが自由をなりたたせる積極的現実です〉ということになります。〈国家こそが、絶対の究極目的たる自由を実現した自主独立の存在であり、人間のもつすべての価値と精神の現実性は、国家をとおしてしかあたえられないからです〉と述べられています。
 ヘーゲルは次のように言います。

 かくて、世界史の対象を明確に定義すれば、自由が客観的に存在し、人びとがそこで自由に生きる国家がそれだ、ということになる。というのも、法律とは精神の客観的なあらわれであり、意思の真実のすがたであって、法律にしたがう意思だけが自由だからです。意思が法律にしたがうことは、自分自身にしたがうこと、自分のもとにあって自由であることです。父なる国家が共同の生活を保障し、人びとの主観的意思が法律にしたがうとき、自由と必然の対立は消滅します。理性的な共同体が必然的なものであり、共同体の法律を承認し、その共同精神を自分の本質でもあると考えてそれにしたがう人間が、自由であるとすれば、ここでは、客観的意思と主観的意思が調和し、純一な全体がなりたっているのです。

 ヘーゲルは、〈自由とは、その概念からして、法や道徳をふくむものであり、法や道徳は、感覚とはべつの、感覚と対立しつつ発展していく思考の活動によって見いだされ、やがては感覚的な意思にも適用され、感覚的意思を理性的なものへとかえていくような、そういう普遍的かつ本質的な対象であり、目的です〉と述べています。このことから、〈世界史は、自由の意識を内容とする原理の段階的発展としてしめされます〉とあります。第一段階は、〈精神が自然のありかたに埋没した状態〉であり、第二段階は、〈自由を意識した状態〉であり、第三段階は、〈精神の本質が自己意識および自己感情としてとらえられた状態〉であるというのです。その上でヘーゲルは、〈東洋は過去から現在にいたるまで、ひとりが自由であることを認識するにすぎず、ギリシャとローマの世界は特定の人びとが自由だと認識し、ゲルマン世界は万人が自由であることを認識します〉と考えています。そのことについて、〈ゲルマン精神は新しい世界の精神であり、その目的は、自由が無限に自己をあきらかにするところにうまれる絶対の真理を実現すること、いいかえれば、形式と内容が絶対的に統一された自由そのものを実現することにあります〉と語られています。
 ヘーゲルの自由が消極的か積極的かどうかというと、〈自由とはその本質からして積極的なものでなければなりません〉とあります。そのため、〈おのれを意思する意思――意思を意思する意思――だけが自由です。絶対の意思とは、自由であろうとする意思のことです。おのれを意思する意思は、すべての権利と義務、すべての法律と義務命令と強制義務の基礎をなします。他の特殊な権利とならべてみれば、意思の自由は、それ自体が原理であり、すべての権利の実体的な基礎であり、永遠不変の絶対かつ最高の権利です。それはまさに人間を人間たらしめるものであり、精神の根本原理です〉と語られています。
 自由と平等の関係については、〈自然法とは自由のことであり、さらにこまかく定義すれば、法のもとでの平等ということです。自由と平等は直接にむすびつきます。なぜなら、平等とは多くの人をくらべるところになりたつが、くらべられるどの人間も自由を基本的な使命としているからです〉とあります。

 

第四節 ヘーゲルの「自由」についての考察
 ヘーゲル哲学においては、意志が自由であり、自由なものが意志であるとされています。そのため精神は絶対的自由であり、それは一般的意志と個別的意志の対立を和解させ、ゲルマン人の精神の国ドイツで実現するとされています。自由の具体的概念は、自我が自分のものであり、かつ普遍的なものでもあることです。
 自由があらわれると法や権利となります。善は実現された自由であり、世界の絶対的な究極目的だとされています。倫理は自由の理念や概念であり、義務とは肯定的自由の獲得であり不自由の制限だとされています。国家は具体的自由の現実性だとされています。ヘーゲルにとって、自由は目的であり、自分と普遍が一致に近づいていくことで実現できるものなのです。
 以上を考慮するなら、ヘーゲルの自由が欠陥品であることが分かります。
自分と普遍が一致していくと考えることは傲慢です。世の中は、静態的ではなく動態的であり、不確実性が存在するからです。ヘーゲルの論理では、ヘーゲルの言うことが自由であるとして他者へ押し付けるか、ドイツの言うことが自由であるとして他国へ押し付けるかして、世界における軋轢を高めてしまいます。世界の安定は、それぞれの言い分の調和にかかっているのであり、それぞれの言い分が一つに一致することではありません。そんな簡単な解決は、世界の豊穣性が許さないのです。

  

 

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