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第二部『第十一章 ミルの「自由」』

【目次】
第一節 『自由論』
第二節 ミルの「自由」についての考察


『第十一章 ミルの「自由」』
 ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806~1873)は、イギリスの哲学者で経済学者です。社会民主主義や自由主義思想に多大な影響を及ぼしました。晩年は自ら社会主義者を名乗っています。
 日本では明六社の中村敬太郎[正直・敬宇](1832~1891)が、ミル存命中イギリスに留学し、帰国に際して友人より贈られたミルの『自由論(On Liberty)』を『自由之理』として明治五年に訳出しています。
 本章では、『自由論(On Liberty)』から、ミルの自由について見ていきます。

 

第一節 『自由論』
 『自由論(On Liberty)』には、〈個人に対する社会の取り扱いを絶対的に支配する資格のある、一つの非常に単純な原理〉として、〈人類が、個人的にまたは集団的に、だれかの行動の自由に正当に干渉しうる唯一の目的は、自己防衛だということ〉が示されています。このことは、〈文明社会の成員に対し、彼の意志に反して、正当に権力を行使しうる唯一の目的は、他人にたいする危害の防止である〉と言い表されています。
 この原理の上で、ミルは〈人間の自由に固有の領域〉として三つの領域を挙げています。第一は、〈意識という内面の領域〉における〈もっとも広い意味での良心の自由〉であり、〈意見と感情の絶対的自由〉です。第二は、〈嗜好の自由、職業の自由〉における〈われわれ自身の性格に合った生活のプランをたてる自由〉であり、他人に〈害を与えないかぎりは、彼らから妨害されることなく、その結果は自分で引き受けて、自分のしたいことをするという自由〉です。第三は、〈個々人の間の団結の自由〉であり、〈他人への害を含まなければ、いかなる目的のために結合してもよいという結合の自由〉です。
 この三つの自由の領域に対して、〈これらの自由が、全体として尊重されていない社会は、その政治形態がどんなものであろうと、自由ではない〉とされています。そこでは、〈自由は、われわれが他人から彼らの幸福を奪おうとしたり、それを得ようとする彼らの努力の邪魔をせぬかぎり、われわれ自身の幸福をわれわれ自身の仕方で追求する自由である〉と語られています。なぜなら、〈人類は、各人が自分でよいと思う生き方をお互いに許し合うことによって、彼以外の他に人々がよいと思う生き方を彼に強いることによってよりも、ずっと大きな利益をかちうるのである〉とミルが考えているからです。
 ミルは、〈われわれの意見に反論し反証する完全な自由を認めることこそが、行動の目的のためにわれわれが自己の意見の正しさを仮定することを正当化する条件〉だと述べています。そこでは、〈四つの明白な根拠にもとづき、意見の自由と意見の発表の自由が、人類の精神的幸福[彼らの他の幸福がすべてこれに依存する]にとって必要〉だとされています。その四つの根拠は、次の通りです。

 

 第一、もしある意見が沈黙を強いられるとしても、ことによったらその意見は正しいかもしれない。これを否定することは、われわれ自身の無誤謬性を仮定することである。

 第二、沈黙させられた意見が、たとえ誤謬であるとしても、それは真理の一部を含んでいるかもしれないし、また実際含んでいることがごくふつうである。そして、ある問題についての一般的ないし支配的な意見も、真理の全体であることは、めったに、あるいはけっしてないのだから、残りの真理が補足される機会をもつのは、相反する意見の衝突によってだけである。

 第三、たとえ一般に受け入れられている意見が、真理であるのみならず真理の全体であるとしても、それが精力的にかつ熱心に論争されることを許されず、また実際論争されるのでないかぎり、それは、その意見を受け入れている人々のほとんどによって、その合理的な根拠についてはほとんどなんの理解も実感もなしに、偏見のような形でいだかれることになるであろう。

 第四、もし自由な討論がなければ、教説そのものの意味が、失われるか弱められるかして、人格と行為に与えるその重要な効力をうばわれてしまう、という危険にさらされることになるであろう。教義は、永遠に無力な単なる形式的告白となり、しかもいたずらに場所をふさぎ、理性や個人的体験から、なんらかの真実なそして衷心からの確信が生まれるのを妨害するものとなるのである。

 

 また、自由の制限に対しては、〈正当な理由なしに他人に害を与えるような行為は、どんな種類のものであれ、これに反対する感情によって、また必要ならば人々の積極的干渉によって抑制されてよいし、またより重要ないくつかの場合には抑制されることが絶対に必要である。個人の自由はここまでは制限されなければならない〉とあります。
 そのためミルは、自由の制限となる伝統や慣習について論じます。〈第一義的に他人に関係しない事がらにおいては、個性が自己を主張することが望ましい。その人自身の性格ではなくて他の人々の伝統や慣習が行為の規則となっているところでは、人間の幸福の主要な構成要素の一つであり、かつ個人的社会的進歩のまさに第一の構成要素をなすものが、欠けていることになるのである〉とあります。〈他の人々の伝統や習慣〉について、ミルは三つの否定的意見を述べています。第一として、〈彼らの経験はせますぎるかもしれぬし、また彼らはそれを正しく解釈してこなかったかもしれない〉とあります。第二として、〈経験についての彼らの解釈は正しいかもしれぬが、彼には適当でないかもしれない〉とあります。それは、〈習慣は通例の環境と通例の性格とのためにつくられるものであるが、彼の環境や彼の性格は通例のものでないかもしれない〉という理由によります。第三として、〈その習慣が習慣としてよいものであり、また彼に適合するとしても、ただ単に習慣だからという理由でそれに同調することは、人間にのみ与えられた諸能力のどれをも彼の中に育成し発展させることにはならない〉とあります。これらを踏まえ、〈何事であれそうするのが習慣だからといってする人は、なんの選択もしない。彼は最善のものを見わけたり望んだりする練習ができない〉とまでミルは言います。
 ミルは、伝統や習慣の否定の上で、自由を肯定します。〈改善を生む唯一の確実で永続的な源泉は、自由である〉と言ったり、〈進歩的原理は、自由への愛、あるいは改善への愛のいずれの形をとるにもせよ、習慣の支配に敵対し、少なくともそのくびきからの解放を含むものである〉と述べたりしています。さらには、〈世界の大部分は、正確にいうならば、歴史をもっていない。習慣による専制的な支配が完璧だからである。これが東洋全体の状態である〉とまで述べています。
 伝統を否定するミルは、〈その違背者は、法によってではなくとも、世論によって当然罰せられてよい〉とあるように、世論による攻撃は肯定した上で、個人の決定を重んじます。〈自分自身に関する事がらにおいては、各人の個人的自発性が自由に活動する権利をもっている。彼の判断を助けるための配慮や、彼の意志を強固にするための忠告は、他人によって彼に提供されてよいし、強く主張されてもよい。しかし、彼自身こそが最終の決定者である。忠告や警告にもかかわらず、彼が犯しがちなすべての誤りも、他人が彼の幸福だと思うことを彼に強制するのを許す害悪にくらべれば、はるかにましである〉とあります。
 以上から、ミルは『自由論』における〈この論文の全主旨を構成する二つの公理〉を述べています。第一の公理として、〈個人は自己の行為について、それが自分以外の人の利害に関係しないかぎり社会に対して責任をとる必要はない〉とあります。第二の公理として、〈他人の利益に損害を与えるような行為について個人は責任があり、もし社会が、社会的あるいは法的刑罰のいずれかを自己防衛のために必要とすると考えるならば、個人はその刑罰のうちのどちらかを受けてもさしつかえない〉とあります。そのため、〈自由とは、人が欲することを行なうことの中に存する〉とミルは言うのです。
 ただし、ミルの自由においても、自由そのものに違反する自由は禁止されています。〈自由の原理は、彼が自由でなくなる自由をもつべきだ、と要求することはできない。自己の自由を放棄するのを許されることは、自由ではない〉とあります。
 ミルはアメリカ人について、〈アメリカ人を政府なしに放置せよ。アメリカ人のどの集団も、ただちに政府をつくり、政治やその他のいかなる公務をも十分な知性と秩序と決意をもって遂行することができる〉と言い、〈これこそ、すべての自由な民衆のあるべき姿である。また、これをなしうる民衆は、まちがいなく自由である〉と述べています。さらに、〈そのような民衆は、いかなる人や団体が中央行政の手綱を掌握し、それを制御することができるからといって、彼らの奴隷になることをけっしてみずからに許しはしないであろう〉と述べています。

 

第二節 ミルの「自由」についての考察
 ミルは、人々がよいと思っていることを自身に強いられることよりも、自分がよいと思うことを各人が許しあうことの方が利益を得られると考えています。ミルは、自由は人が欲することを行なうことの中にあると言います。そのため、他人からの配慮や忠告や警告は構わないのですが、自分自身で決定することをミルは説いています。自身の行為は、他人の利害に関係しないかぎり責任が発生しないというのです。なぜなら、自身が犯す全ての誤りより、他人が自分のために強いるという害悪の方がはるかに大きいとミルは考えているからです。
 ミルは、人間の自由を三つの領域に分類しています。良心による意見や感情の自由、嗜好や職業などの生活の自由、目的のための団結や結合の自由です。これら三つの自由が尊重されたとき、自由な社会であるとミルは述べています。
 ただし、他人の利益に損害を与えるような行為については責任があり、社会的な世論による罰や法的刑罰を受けることが示されています。危害の防止のみが他者の自由に干渉できるのであり、他人の幸福を奪ったり、他人の努力を邪魔したりする自由はないということです。正当な理由なしに他人に害を与えるような行為は、干渉によって抑制されるため、個人の自由は制限されるというのです。
 ミルは、自由は改善を永続的に確実に生み出すと考えています。自由は、習慣や伝統と敵対し、そこから人々を解放するものだと言います。習慣による状態は歴史ではないとさえ述べています。ミルの自由においては、ミルが考える自由の原理を放棄する自由を認めてはいません。
 以上を考慮し、ミルの自由について考えてみます。
 自分の私的側面から考えると、公的に善いとされることを強いられることよりも、私的に良いと思うことが許されていることの方が、利益があるといえます。しかし、自分の公的側面から考えると、私的欲求が引き起こす誤りは、公的善の暴走と同じく、ときにはそれより酷く、世の中に被害を撒き散らします。少なくとも、自身の犯す過ちが、公共性による規制よりもはるかに被害が少ないなどと述べる人物は、疑わしいと思うのが普通です。私が好き勝手にすることが、皆にとっても良いことになるのだという話は、おそらく皆は信じてくれないでしょう。
 ミルの提案している自由の制限についても、ミルが世の中を極めて単純化しているため不十分です。悪しき行為には、直接的な危害が現れる行為だけではなく、潜在的に世の中の危険性を上げてしまうような行為もあるのです。例えば、少女売春や危険薬物の乱用、「危害が直接的でなければどのような行為をしてもいいじゃないか」と言うこと、などが挙げられます。これらの行為は、世の中の危害の発生率を上げてしまうのです。
 また、ミルは自由のために伝統や慣習に否定的ですが、それも間違っています。慣習や経験は、正しさを解釈するための重要な財産です。それらを否定することは、解釈のための材料を減らしてしまうことになります。仮に、今まで正しく解釈されてこなかったのだとしても、それは今後の正しく適切な解釈のために用いることができるものなのです。その慣習が善いものならば、その理由により、それに同調することは正しいことなのです。その慣習がよい慣習だから従うのは正しく、悪い慣習なのに従うことは間違いだという簡単な話です。その判断が、伝統によって可能になるのです。
自由の原理については、ミルはそれを放棄する自由を認めていません。つまり自由とは、自由を肯定する者が認める価値の中でしか、認められないものなのです。その範囲は、当然ながら、自由を肯定する者が自由に決めるのです。このことが、どれだけ悪用できるか、また歴史的に悪用されてきたことか。
 以上のように、ミルの自由の肯定は失敗しています。
 言論の自由についても、正しさについての言論を護るためには不十分です。ミルの『自由論』には意見や発表の自由が必要である四つの根拠が示されていますが、次のように簡単に反論を挙げることができます。

 

【根拠1】
 もしある意見が沈黙を強いられるとしても、ことによったらその意見は正しいかもしれない。これを否定することは、われわれ自身の無誤謬性を仮定することである。
【反論1】
 ある意見に沈黙を強いることが許されないなら、そのことを利用して、別の意見を封じることができるかもしれない。正しいかもしれない意見を潰すことが、くだらない意見や間違った意見を意図的に乱用することで可能になるかもしれない。これを否定することは、われわれ自身の無誤謬性を仮定することである。

【根拠2】
 沈黙させられた意見が、たとえ誤謬であるとしても、それは真理の一部を含んでいるかもしれないし、また実際含んでいることがごくふつうである。そして、ある問題についての一般的ないし支配的な意見も、真理の全体であることは、めったに、あるいはけっしてないのだから、残りの真理が補足される機会をもつのは、相反する意見の衝突によってだけである。
【反論2】
 意見に沈黙を命じることが、たとえ誤謬であるとしても、それは真理に有益な結果を含んでいるかもしれないし、また実際含んでいることがよくあるのである。そして、相反する意見の衝突によって真理が遠ざかる場合もあれば、邪魔で有害な意見に沈黙を命じることで真理が補足される機会が得られるかもしれない。

【根拠3】
 たとえ一般に受け入れられている意見が、真理であるのみならず真理の全体であるとしても、それが精力的にかつ熱心に論争されることを許されず、また実際論争されるのでないかぎり、それは、その意見を受け入れている人々のほとんどによって、その合理的な根拠についてはほとんどなんの理解も実感もなしに、偏見のような形でいだかれることになるであろう。
【反論3】
 たとえ一般に受け入れられている意見が、真理であるのみならず真理の全体であるとしても、それが精力的にかつ熱心に論争を持ちかけられ、沈黙を強いることを禁止されているのなら、それは、その意見を受け入れていた人々の幾人かによって、その合理的な根拠の理解があるにもかかわらず、衝動的で感情的な反感をいだかれることになるであろう。

【根拠4】
 もし自由な討論がなければ、教説そのものの意味が、失われるか弱められるかして、人格と行為に与えるその重要な効力をうばわれてしまう、という危険にさらされることになるであろう。教義は、永遠に無力な単なる形式的告白となり、しかもいたずらに場所をふさぎ、理性や個人的体験から、なんらかの真実なそして衷心からの確信が生まれるのを妨害するものとなるのである。
【反論4】
 もし沈黙の強制がなければ、教説そのものの意味が、失われるか弱められるかして、人格と行為に与えるその重要な効力をうばわれてしまう、という危険にさらされることになるであろう。教義は、永遠に無力な単なる形式的告白となり、しかもいたずらに場所を混乱させ、理性や個人的体験から、なんらかの真実なそして衷心からの確信が生まれるのを妨害するものとなるのである。

 

 以上の反論は、一種の言いがかりに聞こえるかもしれませんが、真実の一部が含まれています。ミルの提示している根拠も、真実の一部が含まれていますが、それらは別の真実の一部によって反論可能なものでしかありません。ここで示されている根拠と反論は、状況や条件により、正否が入れ替わります。それゆえ中庸が大事なのであり、自由の擁護は失敗します。
 言論は、制限を設けることで正しさを妨害することができ、また、自由を用いることで正しさを妨害することもできるのです。逆に、言論は制限を設けたり外したりすることで、その試行錯誤において、正しさの合意に達する可能性があるのです。

  

 

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