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第二部『第十三章 ハイエクの「自由」』

【目次】
第一節 『隷従への道』
第二節 『自由の条件』
第三節 『法と立法と自由』
第四節 ハイエクの「自由」についての考察

 

第十三章 ハイエクの「自由」
 ハイエク(Friedrich August von Hayek, 1899~1992)は、オーストリアの経済学者です。著作である『隷従への道』・『自由の条件』・『法と立法と自由』から、ハイエクの自由について見ていきます。

 

第一節 『隷従への道』
 『隷従への道』には、〈自由主義的立場の真髄はすべての特権の否定である〉とあります。また、〈自由主義の基本原理〉として、〈事象の秩序づけに際し、社会の自発的な力をできるだけ多く利用し、強制に訴えることをできるだけ少なくするという基本原理〉が示されています。
 ハイエクの自由主義は、法の支配と結びついています。〈法の支配は立法の範囲の制限を意味する。法の支配は、立法を形式化された法として知られている一般規則の種類のものに限定し、直接に個々の人々をめざす立法、またはかかる差別のために、だれかの国家の強制権を行使させることをめざす立法を排除する〉とあります。そのとき、〈法律によって前もって定められた場合にのみ、国家の強制権が行使されうること、したがって国家の強制権がどのようにして、行使されるかが予見されうるということ〉が示されています。
 自由主義者であるハイエクは、〈イギリスやアメリカをして自由と公正、寛大と独立の国とした伝統に対する揺るがぬ信念〉を掲げています。

 

第二節 『自由の条件』
 『自由の条件』には、〈われわれは自由が単にある特定の価値であるばかりでなく、大部分の道徳的価値の源泉であり、条件であることを明らかにしなければならない〉とあります。ハイエクにとって、〈自由とは強制がないこと〉であり、〈社会において、一部の人が他の一部の人によって強制されることができるかぎり少ない人間の状態〉を、〈自由(libertyあるいはfreedom)の状態〉と定義しています。
 ハイエクは、〈自由のための政策課題は強制あるいはその有害な影響を最小にすることでなければならない〉と述べています。そのため、〈「抑制」という言葉は、主として人びとがあることをするのを妨げることをわれわれに思い出させてくれる点では有益であるのにたいし、「強制」は人びとが特定の行動をさせられることを強調する。この両面は等しく重要である。正確にいえば、自由を定義して抑制と拘束がないこととするのがたぶんよいであろう〉と述べています。また、〈強制とは、害を与えるという脅迫と、それによってある種の行為をさせようとする意図との双方を含んでいる〉とも述べています。
 ハイエクが自由を肯定するのは、〈自由にたいするわれわれの信仰は、特定の事情の下での予見できる結果にあるのではなく、差し引きして悪に向かう力よりも善に向かう力を多く解放するであろうという信念にもとづいている〉ためです。そこでは、〈自由のための闘いの偉大な目的は、法の前の平等である。国家が強制する規則のもとにおけるこの平等は、人びとが他の人との関係において自発的に従う規則のもつ同様の平等によって補うことができるであろう〉と考えられています。この提案においては、〈公正は人びとの生活条件のうち政府によって決定されるものが全員にとって平等に与えられることを要求する。しかし、これらの条件の平等は必ず結果の不平等を招く〉とされています。
 自由主義と民主主義の相違については、〈自由主義は法がどうあるべきかについての主義であり、民主主義はなにが法となるであろうかを決定する方法に関する一つの教義である〉とあります。つまり、〈自由が意味しさらに意味しうることは、われわれのおこなってよいことがいかなる人、いかなる権威者の許可によるものでもなく、すべての人びとに等しく適用される同一の抽象的な規則によってのみ制限されるということだけである〉というわけです。
 ハイエクは、〈現代のおける個人的自由については、十七世紀のイギリスより以前に遡ることはほとんど不可能である〉と述べ、〈二○○年以上にもわたり個人的自由の維持と保護はこの国の指導理念となり、その制度と伝統は文明世界にとっての模範となった〉と語っています。
 ハイエクの自由主義は法の支配と結びついており、〈法の支配とは法それ自体による支配ではなく、法がどうあるべきかに関する規則、すなわち超-法的原則あるいは政治的理念である〉とあります。
 ハイエクは、〈自由の究極の目的は人間がその祖先に優越する能力の拡大であり、各世代はそれぞれ相応の貢献――知識の成長と道徳的ならびに美的信念における漸進的進歩に見あった貢献――に努めなくてはならない〉と述べています。また、〈人間が現在の自分を超えるところに到達し、新しいものがあらわれ、そして評価を将来に待つというところにおいて、自由は究極的にその真価をあらわすのである〉とも述べています。
 経済と自由の関係については、〈とくに経済の分野において市場の自己調整力が特定の事例において、どのように働くかを誰も予言できないとしても、それが新しい状態にたいして必要な調整をどうにかしてもたらすであろう、と想定するのは自由主義的態度の一面をなすものである〉とあります。
 ハイエクは、〈われわれの文明を変化させている思想はいかなる国境をも考慮しないという事実〉を述べています。さらに、〈人間の愚行がもたらした障害と危険物から自制的な成長過程を解き放つことが、十九世紀初頭のころと同じくふたたび主要な必要事となっている世界において、その希望は性質上「進歩的」である人びとを説得し支持を得ることにもとづかなければならない〉とも述べています。

 

第三節 『法と立法と自由』
 『法と立法と自由』には、〈より有効な行為秩序をもたらすルールをたまたま取り入れた集団が有効性の劣る秩序をもつ他の集団より優位に立つ傾向がある〉という考えが示され、自由主義について語られています。〈個人への強制は、一般的福祉または公共善に貢献するのに必要とされる場合にのみ許容されうるというのが、自由の伝統の公理の一つである〉とあり、〈自由とは運命を制御できない諸力にある程度まで委ねてしまうことを意味する〉とあります。
 ハイエクは、〈ルールはある行為を課するよりもむしろ禁止するという意味でほとんど消極的である〉と述べ、〈正しい行動ルールは自らの行為によって義務を引き受けるのでないかぎり、誰にも積極的な義務を課さないという意味で消極的である〉と語っています。そこでは、〈強制は全員にたいして等しく適用可能である一様なルールによって必要とされる場合にしかもちいられないのである〉とあります。その上で、〈そこにおける地位がくじ引きによって決定されることを知っているならば自分の子供をそこにおくほうがよいと考える社会が最善の社会であるということになろう〉と述べています。ハイエクは、〈共通の具体的な狙いについての合意を必要とせずにただ抽象的行動ルールにしたがいさえすれば、人びとが平和裏にしかも相互に有利になるように一緒に生活できるという可能性は、おそらく人類史上最大の発見であった〉と考えているのです。
 そのためハイエクは、〈全人類を単一の社会に統合できるような普遍的な平和的秩序にわれわれが近づくことができるのは、正しい行動ルールを他の人びとすべてとの関係にまで拡張し、普遍的に適用することができないルールからその義務的性格を取り除くことによる以外にはない〉という結論に至っています。なぜなら、〈政府が自由人の大きな社会に与えることのできる最良のものがなぜ消極的なのか、その基本的理由は、どんな単一の人間も、あるいは人間行動を管理することのできるどんな組織も、社会の活動全体の秩序を決定するにちがいない無数の特定事実についてはつねに無知であるからだ。愚かな人だけが自分はなんでも知っていると信じている。だが、以外とそういう人が多くいる〉と考えているからです。
 ハイエクは、〈開かれた自由社会の唯一の共通価値は達成されるべき具体的目標ではなく、ある抽象的な秩序の不断の維持を保証する共通の抽象的な行動ルールだけである〉と述べています。さらに、〈伝統はなにか不変なものではなく、成功によって(理性によってではなしに)導かれる選択過程の産物である。それは変化するが、故意に変えることはほぼできない。文化的選択は理性的過程ではない。それは導かれるのではなく、それが理性を創造するのである〉と述べています。ハイエクは、〈進歩はその量を定めることができない(それなら、経済成長もそうだ!)。われわれがなしうることはたかだが進歩に有利な条件を創出して、最良のものを期待することだけである〉と考えているのです。

 

第四節 ハイエクの「自由」についての考察
 ハイエクは、自由を強制がないことや、抑制と拘束がないこととして定義しています。ハイエクの自由主義は、強制を最小にすることであり、個人への強制は一般的福祉または公共善に貢献する場合にのみ許容されています。ハイエクの擁護する自由は、義務を課さずに行為を禁止することから、消極的なものです。その理由は、どんな人間や組織も、社会の活動全体の秩序を決定する無数の特定事実について常に無知だからだと語られています。
 ハイエクの自由は、差し引きによって、悪に向かう力よりも善に向かう力を多く解放するという信念に基づいています。そのため、自由が大部分の道徳的価値の源泉であり条件であるとされています。経済の分野における自由については、新しい状態にたいして必要な調整をどうにかしてもたらすであろうと想定されています。
 ハイエクの自由主義は、法がどうあるべきかについての主義であるため、法の支配および法の前の平等と結びついています。法の支配とは、法がどうあるべきかに関する超-法的原則のことであり、立法から全ての特権を排除し、立法を一般規則の種類のものに限定します。法律は前もって定められた場合にのみ国家の強制権が行使されるため、どのように行使されるかが予見できると考えられています。法の前の平等は、政府による強制が、全員に等しく適用可能である同一な抽象的な規則によって制限されるという条件のことです。この機会の平等は、必ず結果の不平等を招くとされています。
 ハイエクは自由主義について、十七世紀のイギリスより以前に遡ることはほとんど不可能と述べています。その自由の維持と保護はイギリスの指導理念となり、その制度と伝統は文明世界にとっての模範となったと考えられています。その自由はアメリカにも存在しているため、ハイエクはイギリスやアメリカをして自由と公正、寛大と独立の国とした伝統に対する揺るがぬ信念を掲げています。この自由主義は、いかなる国境をも考慮しないとハイエクは考えています。自由の究極の目的は、人間がその祖先に優越する能力の拡大だとされています。
 ハイエクは、進歩的である人々を説得し、共通の抽象的な行動ルールを拡張し、普遍的でないルールから義務的性格を取り除くことによって、全人類を単一の社会に統合できるような普遍的な平和的秩序に近づけると言います。有効な行為秩序をもたらすルールを取り入れた集団が、有効性の劣る秩序をもつ他の集団より優位に立つ傾向があると考えられているからです。社会的地位がくじ引きによって決まるなら、自分の子供をそこにおきたいと考える社会が、最善の社会だとハイエクは述べています。
 以上を考慮し、ハイエクの自由について考えてみます。
 まず、強制を「適切」にするのではなく、「最小」にするということは中庸を外れています。短期的には余計に思われても長期的には有効に働くような強制に対し、「適切」では残したり限定的に停止したりするのに対し、「最小」では排除する傾向があります。短期的には有効に思われても、長期的には有害に働く可能性が高いのが自由という概念の怖いところなのです。短期的には有効性の劣る秩序が、長期的には安定化をもたらすということも大いにありえる話なのです。期間をどのくらいに設定するか、どのような状況を想定するかによって評価は変化します。例えば、経済的効率性と社会的安全性はトレードオフの関係が発生するため、「適切」では両者の間でバランスを取りますが、「最小」では効率性を追求して安全がおろそかになるといった事態を招きます。
 また、私たちは無知であるため、「~すべし」という義務を誤って定めてしまうように、「~することなかれ」という禁止も誤って定めてしまうことがあります。義務は間違えるけれど、禁止は間違えないなどということはありえないのです。そのため、義務の間違いを禁止によって、禁止の間違いを義務によって掣肘する必要があるのです。
 同様に、私たちには完全な知識がないからこそ、特権が有害に働くだけではなく、社会の安定化にとって有効に働くこともあると考えるのです。ですから、すべての特権を否定してはならないのです。世の中の安定は、一般的で抽象的なルールと、個別的で具体的なルールの間において見いだされるものなのです。私は、私たちには完全な知識がないからこそ、一般的で抽象的なルールが完全になることはなく、個別的で具体的なルールで掣肘する必要があると思うのです。一般的で抽象的なルールを定め、個別的で具体的な状況に適用するとき、そこに解釈が入り込みます。実際の現実においては、この解釈によって、いくらでもルールの悪用が可能になるのです。
 法の前の平等については、その機会の平等が結果の不平等を招き、結果の不平等が機会の平等そのものを切り崩していきます。機会の平等を唱えるのも、結果の平等を唱えるのも、ともにまちがっています。機会の平等と不平等、および結果の平等と不平等の間で調整を行うこと、それこそが公正と呼ばれるものの役割なのです。
 ハイエクとは、十七世紀イギリスに発生した自由主義は、いかなる国境をも考慮しないで全人類を単一の社会に統合できる、そう考えている人なのです。ハイエクとは、マルクス主義という名の全体主義を批判した、自由主義という名の全体主義者なのです。異なる文化圏は、それぞれ自身の社会を最善と感じる傾向があるため、ハイエクのくじ引き案は成り立ちません。ただしハイエクは、イギリスとアメリカの伝統が考える社会が最善なのだと言うのでしょう。強制を最小にすること、その基準はイギリスとアメリカの伝統であること、そうすると人間は進歩すること。これらは、致命的な思いあがりです。

  

 

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