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第二部『第十四章 バーリンの「自由」』

【目次】
第一節 『自由論』
第二節 バーリンの「自由」についての考察

 

第十四章 バーリンの「自由」
 アイザィア・バーリン(Isaiah Berlin, 1909~1997)は、イギリスの政治哲学者です。著作である『自由論』から、バーリンの自由について見ていきます。

 

第一節 『自由論』
 『自由論』では、〈自由とは行為する機会〉や〈行動の可能性〉として考えられており、〈自由の基本的な意味は、鎖からの、投獄からの、他人への隷属からの自由であり、これ以外の意味は、この意味の拡張か、さもなければ比喩である〉と定義されています。そのため、〈自由になろうとつとめるとは、妨害を取り除こうとすることであり、個人の自由のために戦うとは、その人の目的ならぬ他人の目的のために、他人に干渉され搾取され隷属させられるのを抑制しようとすることである〉と考えられています。その上でバーリンは、〈自由とは、少くとも政治的な意味では、弱い者いじめ・抑圧の不在と完全に重なる〉と述べています。
 バーリンの用語法では、積極的自由と消極的自由という二つの自由の概念が有名であり、まとめると次のようになります。

 

【「積極的(positiveな)」自由の観念】
・ 〈...への自由( freedom to )〉
・ 〈誰が主人であるか〉という問いに答えるもの
・ 〈自分自身の主人でありたいという個人の側の願望からくるもの〉
・ 信奉者は、〈権威をわが手中に〉しようとする


 

【「消極的(negativeな)」自由の観念】
・ 〈...からの自由( liberty from )〉
・ 〈私はどれだけの領域で主人であるか〉という問いに答えるもの
・ 〈あるひとがそのひとのしたいことをすることのできる範囲のこと〉
・ 信奉者は、〈権威そのものを抑圧〉しようとする


 

 この二つの相違の上で、〈自由の擁護とは、干渉を防ぐという「消極的」な目標に存する〉とバーリンは主張しています。なぜなら、〈そのひとのまえの他のすべての扉を閉ざしてしまってただひとつの扉だけを開けておくこと、それは、その開いている扉のさし示す前途がいかに立派なものであり、またそのようにしつらえたひとびとの動機がいかに親切なものであったにしても、かれが人間である、自分自身で生きるべき生活をもった存在であるという真実にたいして罪を犯すことである〉からです。
 消極的自由と積極的自由に対しては、〈一つの概念についての二つの異なった解釈というのではなく、人生の目的に対する二つのまったく相異なる、和解せしめがたい態度なのである〉とあります。その上で、〈そのそれぞれが満足させることを求めているところのものは、歴史的にも道徳的にも、人類の最深・最大の関心事のうちにあって同等の権利をもつ究極的な価値なのだということを認めないのは、社会および道徳の理解における重大な欠陥なのである〉と述べられています。
 バーリンは、〈人間の思い描くさまざまな目的のすべてが調和的に実現されうるような唯一の定式のごときものが、原理的に発見可能であるという信仰は、明らかに誤りであると思うのだ〉と述べています。また、〈絶対的な諸要求の間での選択を余儀なくされるという事態は、人間の状態の不可避的な特徴であることとなる〉とも述べています。
 自由を抑制する場合については、〈もっとも自由主義的な社会においてさえ、個人的自由が、社会的行動の唯一の基準であるとか、さらに支配的な基準であるとかいうつもりはわたくしには毛頭ない。われわれは子供たちが教育を受けるように強いるし、また公開の死刑執行を禁止する。それはおそらく、自由に対する抑制であるだろう。われわれがそれを正当化するのは、無知、あるいは野蛮な養育、あるいは残酷な娯しみや刺戟は、それを抑止するに必要な制限の総計よりもわれわれにとってより悪いものだという理由によっている〉とあります。
 バーリンは自身の見解として、〈[事実を尊重するひとびと]がその実現につとめている「消極的」自由は、訓練のよく行届いた大きな権威主義的構造のうちに、階級・民衆・全人類による「積極的」な自己支配の理想を追求しているひとびとの目標よりも、わたくしにはより真実で、より人間味のある理想であるように思われる。より真実であるというのは、それが、人間の目標は多数であり、そのすべてが同一単位で測りうるものでなく、相互にたえず競いあっているという事実を認めているからである〉と述べています。

 

第二節 バーリンの「自由」についての考察
 バーリンは自由について、「...への自由( freedom to )」という積極的自由と、「...からの自由」という消極的自由を区別して定義しています。その上で、自由の基本的な意味は消極的自由であり、自由の擁護は消極的な目標にあると述べています。消極的自由は、積極的自由よりも、真実で人間味がある理想だというのです。なぜなら人間の目標は多数であり、そのすべてが同一単位で測りうるものでなく、相互にたえず競いあっているという事実があるからだというのです。
 消極的自由は、妨害の除去や隷属の抑制を目的とし、行為する機会や行動の可能性を示します。消極的自由の信奉者は、権威そのものを抑圧しようとします。
 以上が、バーリンの考える自由ですが、いくつかの点で間違っています。
例えば、権威は調整が必要なものであり、状況や条件によって、廃止することも、制限することも、抑圧することも、強化することも、保全することも、拡大することも必要になります。単に権威を抑圧しようとすれば、無秩序を招くか、反動で暴走するかのどちらかになるおそれがあります。
 また、バーリンの『自由論』の構造上、消極的自由そのものに反する自由は認められていません。そのため、その自由の判定は、消極的自由の信奉者に委ねられます。それを自由とするか、それを自由に対する抑圧として認めないかは、結局、消極的自由の信奉者が決めることになります。他の価値観に対して、それを無知や野蛮や残酷と呼ぶことで正当化することによってです。

  

 

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