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第二部『第十五章 ロールズの「自由」』

【目次】
第一節 『正義論』
第二節 ロールズの「自由」についての考察


『第十五章 ロールズの「自由」』
 ロールズ (John Rawls,1921~2002)は、アメリカの政治学者です。『正義論』などで公正としての正義の説を唱えて功利主義を批判し、広範な議論を引き起こしました。著作である『正議論』から、ロールズの自由について見ていきます。

 

第一節 『正義論』
 『正議論 改訂版』には、〈社会の基礎構造に関わる正義の諸原理こそが原初的な合意の対象となる。それらは、自分自身の利益を増進しようと努めている自由で合理的な諸個人が平等な初期状態において(自分たちの連合体の根本条項を規定するものとして)受諾すると考えられる原理である〉とあります。その上でロールズは、〈正義の諸原理をこのように考える理路を<公正としての正義>と呼ぶことにしよう〉と述べています。
 公正としての正義においては、〈平等な<原初状態>(original position)〉が〈純粋に仮説的な状況〉として提示されています。その具体的内容は、〈誰も社会における自分の境遇、階級上の地位や社会的身分について知らないばかりでなく、もって生まれた資産や能力、知性、体力その他の分配・分布においてどれほどの運・不運をこうむっているかについても知っていないというものがある。さらに、契約当事者たち(parties)は各人の善の構想やおのおのに特有の心理的な性向も知らない、という前提も加えよう。正義の諸原理は<無知のヴェール>(veil of ignorance)に覆われた状態のままで選択される〉とあります。
 無知のヴェールとは、〈多種多様な選択候補が各自に特有の情況にどのような影響を与えるのかを知らないまま、当事者たちはもっぱら一般的な考慮事項に基づいて?原理を評価することを余儀なくされる〉ものであり、〈当事者たちはある種の特定の事実を知らないと想定されている〉ものです。

 原初状態において無知のヴェールを被り、正義の原理を選択することで、〈制度に関する正義の二原理の最終的な言明〉が提示されています。〈第一原理〉として、〈各人は、平等な基本的?自由の最も広範な全システムに対する対等な権利を保持すべきである〉とあります。〈第二原理〉として、〈社会的・経済的不平等〉に対して、〈最も不遇な人びとの最大の便益に資するように〉ということと、〈公正な機会均等の諸条件のもとで、全員に開かれている職務と地位に付帯するように〉ということが挙げられています。
 その際、〈第一の優先権ルール〉として〈他の何ものよりも自由が優先すべきこと〉が示され、〈第二の優先権ルール〉として〈効率と福祉よりも正義が優先すべきこと〉が示されています。
 第一の優先権ルールは、〈正義の?原理は辞書式順序でもってランクづけられるべきであり、よって基本的な?自由は自由のためにのみ制限されうる〉というものです。二つのケースがあり、一つ目は、〈[あくまでも平等に分配しつつも]自由の適用範囲を縮減することを通じて、全員が分かち合っている自由の全システムを強化するものでなければならない〉というものです。二つ目は、〈[自由をいったん]不平等に分配した上でその適用範囲を縮減することは、自由の適用範囲が縮減された人びとにとって受け入れ可能なものでなければならない〉というものです。
 第二の優先権ルールは、〈正義の第二原理は、効率性原理および相対的利益の総和の最大化原理よりも辞書式に優先する。そして公正な機会[均等原理]は、格差原理よりも優先する〉というものです。こちらも二つのケースがあり、一つ目は、〈機会の不平等が認められたとしても、それは機会が縮減された人びとの?機会を増強するものでなければならない〉というものです。二つ目は、〈過度な貯蓄率が課されたとしても、それは[後継世代のための貯蓄によって]困窮生活を強いられている人びとの重荷を結局のところ軽減するものでなければならない〉というものです。
 これらの原理を提示した上でロールズは、〈原初状態で正義の原理を選択することの合理性には、まったく疑いをはさむ余地がない〉と述べています。

 『正議論』における自由については、〈自由の一般的な記述は、<あれこれの人(もしくは人びと)は、それこれする(もしくはしない)際に、しかじかの制約(もしくは複数の制約)から自由である(もしくは自由ではない)>という形態をとる〉とあります。〈自由は制度の一定の構造、すなわち権利と義務を定める公共的ルールのシステムのひとつ〉とされ、〈人びとは、何かをするかしないかに関する一定の制約から自由であるとき、またその何かをすることやしないことが他の人びとの干渉から保護されているとき、その何かを為しうる自由な状態にある〉とされています。そこから、〈自由とは、制度が規定する権利と義務の腹蔵体のことを指す〉とされ、〈自由の制限の擁護論は、自由の原理それ自体から生じる〉と主張されています。

 〈自由の優先権〉について詳しく見ていくと、〈基本的な諸自由が実効的に確立されうるときはいつでも、経済的な暮らしよさの増進のために自由の削減もしくは不平等な自由を受諾することはできない〉とあります。ただし、〈社会的な情況がそうした基本的な諸権利の実効的な確立を許さない場合に限り、自由の制限は認められうる。だがそのときでさえも、自由の制限は、その制限がもはや正当化されなくなるにいたる道筋を準備するのに必要である範囲でしか認められない。平等な自由の否定論が擁護されうるのは、やがてそうした自由が享受されうるように、文明の諸条件を変革することが必要である場合に限られる〉とあります。


第二節 ロールズの「自由」についての考察
 ロールズは、原初状態において無知のヴェールを被ることで、正義の原理を選択することができると述べています。しかし、当たり前のことを指摘しておきますが、無知な人は正しい判断をくだせません。よって、正しい原理に到達できません。
 では、何故『正議論』がロールズの言う正義の二原理に至っているのか。それは、ロールズの無知のヴェールは、ロールズにとって都合の良い考えを通し、ロールズにとって都合の悪い考えを遮断するフィルターだからです。
 ロールズの『公正としての正義 再説』には、〈われわれは、民主的な市民は自由で平等であるだけではなく、合理的で道理に適ってもいて、誰もが社会の協働的な政治権力を等しく共有しており、そして、誰もが判断の重荷を等しく背負っていると考える〉とあります。この欧米特有の自由主義万歳とデモクラシー礼賛の伝統は、世界史におけるローカルな(日本人には歪に見える)価値観でしかありません。そのローカルな価値観を普遍的な価値観に見せかけること、それが『正議論』でなされていることなのです。
 自由の制限の擁護を、自由の原理それ自体から生じさせることは、論理的に不可能です。ですから、自由および自由の優先権も、ロールズのフィルターによって、ロールズの信奉者の価値観に都合の良いように設定されます。そして、ロールズの信奉者は、それが普遍的な価値だとして、他の価値観へ押し付けるのです。

  

 

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