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第二部『第十六章 西洋「自由」についての考察』

【目次】
第一節 西洋「自由」の定義について
第二節 西洋「自由」が称賛語であることについて
第三節 西洋「自由」の相対性を装った絶対性について
第四節 西洋「自由」の問題点について


『第十六章 西洋「自由」についての考察』
 前章までで、西洋における自由の代表的な意見について見てきました。本章では、それぞれの自由を考慮し、西洋の自由一般について振り返ります。

 

第一節 西洋「自由」の定義について
 西洋における自由の代表的論者は、それぞれ自身の考える自由について論じています。それらを比較検討してみると、各人が自由に好き勝手な定義を与え、好き勝手に自分の自由は素晴らしいと述べている場合があります。
 このような言葉の使い方では、まともな議論が成り立ちません。ですから、自由の定義が、自由という言葉の意味からみて正しい必要があります。各論者の自由の定義が、自由の意味として相応しいことを確かめる必要があるのです。
 そこで参考になるのは、アイザィア・バーリン(Isaiah Berlin)の『自由論』です。そこで示されている積極的自由と消極的自由の区別は重要です。さらに、自由の本来の意味は、消極的自由の意味であるという見解は傾聴に値します。この見方は、基本的に正しいと思われます。そのため、消極的自由とは異なる意味で自由を定義している論者の自由は、自由の定義として不適切だと判断できます。
 自由意志については、特殊な状況設定の上でしか成り立ちません。意志が自由であるということは、予めその特殊性にとらわれている場合はともかく、そこに居ないのであれば、もしくはそこに入ろうと思わなければ、その定義の妥当性が保障できなくなります。
 また、奴隷という概念と対比される意味での自由の意味については、消極的な意味の自由に属するので正しい使用法だと思われます。

 

第二節 西洋「自由」が称賛語であることについて
 自由の定義が消極的な意味でなされているとき、その自由の価値について論じることが必要になります。西洋の自由論においては、自由が称賛語として論じられている場合がほとんどです。そのとき、その自由が、本当に価値あるものであるか否かを判定する必要があります。
 例えば、バーリンの言う消極的自由は、自由の定義としては妥当ですが、それが称賛語として用いられているため間違っています。消極的自由を論じているロック・ミル・ハイエクなども、その定義の意味は妥当かもしれませんが、自由が賞賛されているため間違っています。
 ただし、自由が奴隷と比較された上で、奴隷ではないという意味での自由と定義されている場合、その自由を称賛語として用いることは理のあることです。このとき、奴隷制そのものを肯定していても否定していても、自由は称賛語として成り立ちます。

 

第三節 西洋「自由」の相対性を装った絶対性について
 自由主義者が、自由を消極的な意味で定義し、称賛語として用いている場合があります。このとき、その自由主義者は、一種の全体主義者でもあるのです。
 例えばミルの意見に賛同する自由主義は、他人を害しないかぎり、どのような価値の追求も許されるとされています。しかし、その行為が自由主義そのものに反するものなら、それは認められないのです。自由主義者は、自分の定義する自由を信奉する者以外の自由など、認めないのです。
 ハイエクは『致命的な思いあがり』という著作の中で、市場秩序〈競争市場の創りだす自生的で拡張した人間の秩序の擁護者〉と社会主義〈中央当局が人間の相互作用を計画的に整備することを要求する人びと〉の立場を対比させています。前者を自身の立場とし、後者を〈人間はその周りの世界を望みどおりにつくることができるという致命的な思いあがり〉として、徹底的に批判しています。
 確かに、この致命的な思いあがりに対する批判は妥当です。ですが、この「致命的な思いあがり」批判を行う市場秩序の擁護者(=自由主義者)の立場は、間違っていると思います。強制を最小にすること、その基準はイギリスとアメリカの伝統であること、そうすると人間は進歩すること。これらは、致命的な思いあがりです。
 つまり、「致命的な思いあがり」批判を行うハイエクの立場は、致命的な思いあがりなのです。そのためハイエク批判を行う者は、「致命的な思いあがり批判」批判を行うことになります。
 ただし、ここでもう一段階だけ思想の深化が必要です。それは、ハイエク批判を行う者の立場も、致命的な思いあがりかもしれないという可能性です。誤謬性(間違える可能性があること)は人間が避けることのできない条件です。あなたの考えは致命的な思いあがりだけど、私の考えは致命的な思いあがりではない、そういう考えが既に致命的な思いあがりなのかもしれないのです。極論ですが、あらゆる主義主張は全体主義の一つだということも可能なのです。自身の意見が致命的な思いあがりかもしれないという点を考慮しながら言動を行うという立場は、「致命的な思いあがり批判批判」批判に移行します。人間が何かを言ったり行ったりする上で、完全な知識があるという前提に基づいている可能性は、排除できないと思われるからです。
 要は、「私は傲慢ではないという傲慢」を持つか、「私は傲慢かもしれないけれども、それでも言論を行うという傲慢」を持つか、そのどちらに与するかということです。

 

第四節 西洋「自由」の問題点について
 西洋における自由は、その言葉の意味から「制限の不在」を表し、「制限の不在」そのものは価値にはなりえません。必要な制限もあり、不必要な制限もあります。善い制限もあれば、悪い制限もあるのです。制限に対して、必要の有無やその善悪を決めるための何かに価値があるのであって、「制限の不在」そのものは価値にはなりえません。
 善いと思われる価値を、「制限の不在」を意味する語である「自由」に付加することは、まったくもって不合理です。自由が称賛語である十分な理由が、自由主義者によって提示されていないからです。
 西洋の歴史を参照した際に、「制限の不在」を意味する「自由」を正しい言葉遣いで使用している例としては、古代の自由と、ホッブズの自由を挙げることができます。古代の自由は、奴隷ではないという点で肯定されますが、自由すぎる場合は悪しきこととして警戒されています。ホッブズは、自由を自然法と市民法によって制限すべきだと考え、義務に自由より高い優先度が与えられています。この見解は妥当だと思われます。
 つまり、西洋「自由」を正しい言葉遣いで使用している者は、自由主義者ではないのです。自由主義者は、西洋「自由」という言葉を、間違って使っているのです。よって、いわゆる自由主義者やリベラリストは、信用できない人たちだと考えられるのです。

  

 

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