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『公正考察:平等について(前編)』

 

 平等について考えてみます。
 まずは、西欧哲学における平等の考え方を参照します。

 

第一節 アリストテレス『政治学』
 アリストテレス(Aristotle、B.C.384~322)の『政治学』には、平等に関する重要な既述があります。
 アリストテレスは、〈「等」には二種類ある。すなわち一つは数におけるそれであり、他の一つは値打に応じたそれである。――ここに数におけると私の言うのは多さ或は大きさにおいて同じであるもの、等しくあるもののことであり、値打に応じたと言うのは比例におけるそれのことである〉と述べています。前者の「等」はいわゆる平等のことであり、同じ数を用いることです。後者の「等」はいわゆる格差のことであり、能力に比例した数を用いることです。
 その上で、〈或るところでは数的「等」を用い、或るところでは値打に応じた「等」を用いなければならない〉と語っています。平等と格差は、状況に応じて使い分けることが必要だと考えられています。中庸を重視するアリストテレスの面目躍如であり、平等に関する非常に重要な考え方が示唆されています。

 

第二節 アリストテレス『ニコマコス倫理学』
 次は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』に示されている「配分的正義」と「矯正的正義」について紹介します。配分的正義については、〈名誉とか財貨とかその他およそ国の公民の間に分たれるところのものの配分における〉とあり、矯正的正義については、〈もろもろの人間交渉において矯正の役目を果たす〉と説明されています。
 配分的正義の詳細については、〈配分における「正しい」わけまえは何らかの意味における価値(アクシア)に相応のものでなくてはならないことは誰しも異論のないところであろう。ただ、そのいうところの価値なるものは万人において同じではなく、民主制論者にあっては自由人たることを、寡頭制論者にあっては富を、ないしはその一部のひとびとにあっては生れのよさということを、貴族制論者にあっては卓越性(アレテー)を意味するという相違がある〉と語られています。
 矯正的正義の詳細については、〈たとえば売るとか買うとかその他およそ法の容認のもとに行なわれる取引において、自分に属する以上を得ることが利得、最初自分に属していたよりも少なくしか得ないのが損失と呼ばれる。そして、もしこれに対して、過多でも過少でもなくまさしく自分のものそれ自身が与えられた場合には、ひとびとは「自己のものを得た」となし、損だとか得だとかいわないのである〉と具体例が示されています。続いて、〈だからして、「正」とは、ここでは、一方の意に反して生じた事態における或る意味における利得ならびに損失の「中」であり、事前と事後との間に均等を保持するということにほかならない〉と語られています。
 ざっくり説明すると、「配分的正義」は価値に応じて適切な差をつけることであり、「矯正的正義」は法に応じた対応を行うことを意味しています。

 

第三節 ミル『功利主義論』
 ミル(John Stuart Mill, 1806~1873)の『功利主義論』には、平等について言及があります。
 まず、〈公平の観念と密接に関連するのが、平等の観念である。平等はしばしば正義の公正要素として、正義の概念の中にも正義の実践の中にも含まれている。そこで多くの人たちの目に、平等が正義の本質を構成すると映るのである〉とあります。続いて、〈しかし平等の場合は、ほかの場合以上に正義の観念が人によってまちまちである。しかもその内容は、必ず各人の功利の観念と一致している。だれもが、不平等であるほうが便宜だと思うとき以外は、平等は正義の命ずるところだと主張する。すべての人の権利に平等な保護を与えるという正義が、権利そのもののとんでもない不平等を支持する人間によって主張されている〉と語られています。
 つまり各人は、自分に都合がよいことを平等だと叫んでいるということです。そのため、平等を唱える人ごとに、その内容はバラバラだというのです。
 ミルは、〈平等思想をもっている人たちのあいだでさえ、便宜についていろいろな意見があるように、正義についても多くの問題がある〉と述べています。具体的には、〈一部の共産主義者は、共同社会の労働の生産物を、厳密な平等原理以外の原理によってわけるのは不正だと考える。ほかの共産主義者は、いちばんひどく欠乏している者がいちばん多く受けとるのが正しいと考え、また別の共産主義者は、人よりよくはたらいたもの、人より多く生産したもの、社会にとって人より価値ある仕事をしたものが、生産物を分配するときに、より大きいわけまえを要求して当然と考える。これらの意見はどれも、いかにももっともらしく自然の正義感に訴えることができる〉とあります。
 平等思想において正義を唱えたとしても、何を平等と見なしているかによって正義の内容はバラバラだというのです。それぞれの正義は互いに矛盾しますが、それぞれの正義は、もっともらしく正当化して訴えることができてしまうと考えられています。

 

第四節 トックヴィル『アメリカのデモクラシー』
 トクヴィル(Charles Alexis Henri Clrel de Tocqueville, 1805~1859)は、著作である『アメリカのデモクラシー』で平等について語っています。『アメリカのデモクラシー』には、第一巻と第二巻があります。
 第一巻には、〈多数者の精神的権威は、一つには次のような観念に基づいている。すなわち、一人の人間より多くの人間が集まった方が知識も知恵もあり、選択の結果より選択した議員の数が英知の証だという考え方である。これは平等原理の知性への適用である。この教義は人間の誇りの最後の聖域を攻撃する〉とあります。
 平等原理の知性への適用とは、質ではなく量によって知性を保障するという恐るべき事態を意味しています。人間が平等であるなら、知性はその数の多さによって有益であると判定されるということです。平等によって、多数派による少数派の排除という差別が正当化されるのです。皮肉のお手本のような事態です。
 第二巻には、〈平等は人と人をつなぐ共通の絆なしに人間を横並びにおく〉とあります。平等は、人間の絆を断ち切る役目を果たすことが往々にしてあるものなのです。それにも関わらず、〈境遇が平等であるときにはいつも、全体の意見が個人一人一人の精神にとてつもなく重くのしかかる。前者は後者を包み込み、導き、押さえ込む〉のです。絆が断ち切られた社会において、人は全体の意見と異なる見解を持つとき、押しつぶされるのです。
 不平等への不満については、〈不平等が社会の共通の法であるとき、最大の不平等も人の目に入らない。すべてがほぼ平準化するとき、最小の不平等に人は傷つく。平等が大きくなればなるほど、常に、平等の欲求が一層飽くことなき欲求になるのはこのためである〉と説明されています。〈境遇がすべて不平等である時には、どんなに大きな不平等も目障りではないが、すべてが斉一な中では最小の差異も衝撃的に見える。完璧に斉一になるにつれて、差異を見ることは耐え難くなる〉ともあります。
 ある観点からの平等が社会正義となったとき、わずかに平等ではない点に関して、人々は我慢できなくなるのです。完全な平等など人間社会では不可能ですから、平等の幻想が解けない限り、不満はずっと続くことになります。

 

 

 
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