百田尚樹さんの『日本国紀』を読んでみました。

 分かりやすいので、スラスラと最後まで読めました。ところどころ著者の見解が示され、部分的には同意できないところはあるものの、全体を通して良書だと思います。個人的には、「第十二章 敗戦と占領」が秀逸だと感じました。ここまで書けるというのは、著者の勇気が試されるところだからです。

 他の日本史を扱った本と比べてみるのも面白いですね。やっぱり、著者の嗜好が本に反映されますから。

 『表現者クライテリオン 2018年07月号(改題1号)』の感想に、青柳謙三さんからコメントをいただきました。(間違って2回送ってしまっているとのことで、1回分の表示になるようにこちらで修正しました)
 コメントいただけるのは、ありがたいですね。以下が引用になります。

********************************************************************************

表現者クライテリオンの、メールマガジンにおいて、
意見感想等を述べてよいとのことであったので、
以下のように感想を述べてみました。


西部邁なくして『発言者・表現者』なし

浜崎さん
(僕の思う)メール特有の文化に従い、挨拶を省略致します。
初めまして、船橋市在住の48才、西部さんの一読者です。
青柳謙三といいます。
まず、西部邁自殺幇助者の逮捕を受けて『表現者クライテリオン』
が問われること、を読みました。
がっかりです。
今後、発言者・表現者など名乗らないでいただ
なにが文芸批評ですか。
辞書で、達意眼目という言葉でも引いてみるが
よろしい。
感想だけ一言。
冗長さの見本。言いわけがましく、覚悟のほどが
微塵もうかがえない。
次に、就活ルール廃止」を批判する〜略 、を読み
ました。
僕には、実にくだらない文章と感じられました。
18歳〜22歳の大人を子供扱いしているよい証拠
です。
その頃のあなたの精神年齢が、疑われますよ。
具体的に指摘しなかったことはお詫びします。
あまりにも、バカバカしかったもので。
中途半端ですが、これくらいにしておきます。
こんな風に感じた者もいる、と参考にしていただき
たい。
失礼します。

********************************************************************************

 上記に出てくる浜崎さんの記事は、以下ですね。参考までに挙げておきます。

【浜崎洋介】西部邁自殺幇助者の逮捕を受けて――『表現者クライテリオン』が問われること
https://the-criterion.jp/mail-magazine/20180411/

【浜崎洋介】「就活ルール廃止」を批判する――「教育」とは何か
https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20180912/


※ 私なりに考えても、上記の2記事は納得できるような内容にはなっていないですね。特に、西部邁氏の記事については、単なる保身しか見いだせないというか、保身の見本みたいな記事だとしか思えません。あと、どうしてこうも上から目線で偉そうにできるのかも分かりませんし...。





『表現者criterion』へのご質問や相談等、どしどしお送りください!

 上記のページを参照し、『表現者criterion』へ質問を送ってみました。

 質問内容は、以下のとおりです。

***************************ここから************************************

 藤井聡編集長への質問です。
 『表現者クライテリオン 2018年 07月号』に、佐藤健志さんの『保守主義者が自殺する条件』が掲載されました。そこに以下の記述がありました。

> 弟子に雑誌を引き継がせながら、それを意図的につぶそうとしたのです。
> 思想以前に、人間としてのモラルが破綻していると批判されても仕方ないんじゃありませんかね?

 この記述を批判するためAmazonレビューを書いたところ、赤星快人という方からコメントをいただきました。Facebookで藤井さんと「友達」になっている方で、塾の生徒でもあるそうなのでご存知かと思います。彼は以下のように私に反論してきました。

> 上記のコメントは、そもそも藤井氏が柴山氏と共に表現者と全く関係のない雑誌を立ち上げようとしたところ、西部氏が表現者の跡継ぎを打診してきたという事実を無視しています。

 ここの文章で、「西部氏が表現者の跡継ぎを打診してきた」という箇所は、『表現者76』の文章から知っています。しかし、「そもそも藤井氏が柴山氏と共に表現者と全く関係のない雑誌を立ち上げようとした」という箇所については、私は知りませんでした。
 この経緯が本当ならば、表現者を引き継がないという選択肢もありながら、表現者を引き継ぐことを選んだということだと見なせます。
 しかし、引き継いだうえで『保守主義者が自殺する条件』のような原稿を載せるのでは、言論としてきわめて不誠実だと感じられます。「表現者」という肩書を外し、『クライテリオン』などの名称にして、かつての『表現者』とは袂を分かって新雑誌を立ち上げるのが筋ではないでしょうか?


<参考アドレス>
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3U4GN1HFJFX8C/ref=cm_cr_arp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=B07D4ZLFSN

http://archive.is/GNJRS

***************************ここまで************************************

 まあ、採用される可能性は低いと思いますけどね(笑)。

 一応、状況証拠として残しておきます。

 前回の続きです。

 赤星快人という人物のFacebookのメッセージへ、次の文章を送付しました。




***************************ここから************************************

モトと申します。

表現者クライテリオン 2018年 07月号 雑誌』のAmazonレビューにコメントをいただきましたので、正式に反論させていただきました。

http://nihonshiki.sakura.ne.jp/book/2018/10/post-173.html

誠実な回答をいただけないようでしたら、私から正当な権利を行使させていただきます。

***************************ここまで************************************




 その後、Amazonのコメントに返答がきましたので、下記に紹介させていただきます。




***************************ここから************************************

まず、私が今年2月頃に確認したメッセージと現在表示されているメッセージの内容が異なるので、恐らく編集されたのだと思いますが、私が確認した時点では「タイトルからしてあり得ない」「メンヘラ染みている」「どんな精神状態ならこんな事が書けるのか」といった趣旨の中傷が書かれていたと記憶しています。故にこうした批判コメントを書きました。

記憶違いであるとしたら申し訳ないのですが、恐らくは記憶の方が正しいのではないかと思います。

3か月前の批判コメントを書いた時点で、貴方の正体については知らなかったのですが、フェイスブックでメッセージを頂き、貴方が誰なのかを知りました。結論から言うと、私はあなたに「誠意」なるものがあると思っておりません。

正当な権利とやらが何の事だか知りませんが、ご自身の主張の価値について、見ている人の評価に託す勇気がないのであれば、それを行使すればよいのではないでしょうか?

***************************ここまで************************************




 上記のコメントに対し、以下のように回答しました。




***************************ここから************************************

赤星快人さんからコメントいただきましたが、私の質問は完全に無視し、明らかにおかしなことを書き連ねています。もはやマトモな議論はできないと判断し、後はここを見てくださる方々のために私の見解を述べておきます。



まず、私が今年2月頃に確認したメッセージと現在表示されている

>メッセージの内容が異なるので、

>恐らく編集されたのだと思いますが、

>私が確認した時点では「タイトルからしてあり得ない」

>「メンヘラ染みている」「どんな精神状態ならこんな事が書けるのか」

>といった趣旨の中傷が書かれていたと記憶しています。

>故にこうした批判コメントを書きました。


ここで指摘されているような言葉を私は書いていませんし、編集もしていません。そもそも、本当にそんな言葉が書いてあったなら、その言葉を明記して私を非難すればよかっただけの話です。

また、彼の51日のFacebookを見ればわかるように、私の浜崎さんへの批判を、そのまますべて転載しています。そこの文章は、現在のAmazonと同じ文章であり、「タイトルからしてあり得ない」「メンヘラ染みている」「どんな精神状態ならこんな事が書けるのか」といった文言は出てきません。



>3か月前の批判コメントを書いた時点で、

>貴方の正体については知らなかったのですが、

>フェイスブックでメッセージを頂き、

>貴方が誰なのかを知りました。

>結論から言うと、私はあなたに「誠意」なるものがあると思っておりません。


まあ、こんな人物から「誠意」を感じてもらわなくてもまったく構いませんが...。むしろ誠意を感じられても困りますが(笑)。

ちなみに、同じく51日のFacebookは、「またツイッターでも全く同じ名とアイコンの人物を見かけたので少しだけ追ってみました。」と書かれています。3か月以上前から知っていたんじゃないですか(笑)。嘘ばかり吐かないでほしいものですね。



正当な権利とやらが何の事だか知りませんが、

>ご自身の主張の価値について、

>見ている人の評価に託す勇気がないのであれば、

>それを行使すればよいのではないでしょうか?



私は、この一つ前の赤星さんへのコメントで、「私と赤星さんのどちらに常識があるか、ここを見ている方それぞれに判断していただければ幸いです」とか、「繰り返しになりますが、私と赤星さんのどちらに分があるかは、ここを読んでくれている方に判断していただけると幸いです」と書いています。その上で赤星さんは「ご自身の主張の価値について、見ている人の評価に託す勇気がないのであれば」と書いています。もはや日本語をまともに使う気がないようです(笑)。

少しでも誠実な回答がもらえれば、水に流してもよかったのですが...。

まあ本人のお墨付きも出たことですので、正当な権利は行使させてもらいます。

***************************ここまで************************************




 上記の記述の基となるソースのリンクを張っておきます。編集されて改ざんされると困るので(笑)、魚拓も張っておきます。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2WQVMJH3CM46E/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=B0788XV9YG

http://archive.is/GqrTK

https://www.facebook.com/hikanore/posts/2509840779240252

http://archive.is/5V3KO

 『表現者クライテリオン 2018年 07月号 雑誌』のAmazonレビューで、赤星快人という人物が言いがかりを付けてきました。

http://archive.is/OAP2F

**********************************************************************

上記のコメントは、そもそも藤井氏が柴山氏と共に表現者と全く関係のない雑誌を立ち上げようとしたところ、西部氏が表現者の跡継ぎを打診してきたという事実を無視しています。また、クライテリオン7月号において未だに西部氏を主題とした記事を書いているのは佐藤・富岡両氏のみです。


また、この人物は創刊号に対するコメントで浜崎氏の「現代人は愛しうるか」という記事のタイトルを、浜崎氏自身の精神的欠陥からくる世迷い事であるかのように書いていますが、実際にはこのタイトルはD・H・ロレンスの黙示録論を福田恆存が和訳し邦題を付けた時のものであるという事が記事の中で紹介されています。

つまりこの人物は結論を先に決めつけてから論評しており、中身の精査などしていません。
まあ、西部氏の自殺の後もこういう態度を取り続けている人の限界だと思います。

**********************************************************************

 ちなみに、浜崎さんへの批判は↓で書いています。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2WQVMJH3CM46E/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=B0788XV9YG

 まあ、喧嘩を売られているわけで、次のように反論しました。

**********************************************************************

赤星快人さん、コメントありがとうございます。
コメントいただいていることに気付かず、別の方に指摘されてからの回答となってしまい申し訳ありません。

赤星さんは藤井聡さんの塾の生徒さんですよね?
(FBで「友達」になっているのも知っています)
さて、赤星さんのコメントですが、よくぞここまで異常なことを書けるなと感心いたしました。
以下、批判していきます。

>上記のコメントは、そもそも藤井氏が柴山氏と共に
>表現者と全く関係のない雑誌を立ち上げようとしたところ、
>西部氏が表現者の跡継ぎを打診してきたという事実を無視しています。

ここの文章で、「西部氏が表現者の跡継ぎを打診してきた」という箇所は、『表現者76』の文章から知っています。しかし、「そもそも藤井氏が柴山氏と共に表現者と全く関係のない雑誌を立ち上げようとした」という箇所については、私は知りませんでした。ここのソースについて、どの雑誌の何ページのどのような文章か明記して教えてください。

また、仮に私がその事実を知っていたとしても、私が書いた文章を修正する余地は見出せません。「跡継ぎを打診してきた」からといって、打診者に対して、筋の通らない批判を行う権利は誰にもないからです。(筋の通った批判はもちろんありですが)
ここは常識の問題です。私と赤星さんのどちらに常識があるか、ここを見ている方それぞれに判断していただければ幸いです。

>また、この人物は創刊号に対するコメントで
>浜崎氏の「現代人は愛しうるか」という記事のタイトルを、
>浜崎氏自身の精神的欠陥からくる世迷い事であるかのように書いていますが、
>実際にはこのタイトルはD・H・ロレンスの黙示録論を福田恆存が和訳し
>邦題を付けた時のものであるという事が記事の中で紹介されています。

私の書いていることの内容を改ざんして批判することは止めてください。
表現者クライテリオン 2018年 03 月号』の101頁に、たしかに「福田が、その「絶望」からの救いを説くD・H・ロレンスの『黙示録論』(邦訳は『現代人は愛しうるか』)の翻訳に取り掛かっていた」という記述があります。しかし、私が批判した箇所は、「現代人は愛しうるか」という文章ではなく、「「自殺」か「全体主義」しか選択肢を残していないかに見える現代の大衆社会のなかで、果たして、人が人を愛しうるための「クライテリオン」とは何なのか」という文章の方です。
こちらの文章の批判については、105頁で浜崎さんが「果たして、近代の果てに辿り着いたこの大衆社会によって、文字通りの「自殺」と「全体主義」のニヒリズムに侵され始めている戦後日本において、福田恒存の言葉は、「神を喪失した現代にひとつの指標をしめすもの」ではあるまいか。」と書いています。
赤星さんは、私が批判した箇所をすりかえ、すりかえたところがロレンスの『邦題』だというおかしな詐術を使っているだけですね。


IMG_1164.JPGIMG_1166.JPGIMG_1165.JPG


ちなみに、仮に私が批判した箇所の文章がロレンスの『邦題』だったとしても、それを自分の論稿の中で使用して論じているのなら、その批判に対する弁明責任は、ロレンスではなく論者(ここでは浜崎さん)にあることは明確です。
赤星さんは、二重に異常な論理を展開しているわけです。

>つまりこの人物は結論を先に決めつけてから論評しており、
>中身の精査などしていません。

私は中身をきちんと読んだうえで批判しています。他人の文章の意図をねじまげているのは赤星さんの方です。繰り返しになりますが、私と赤星さんのどちらに分があるかは、ここを読んでくれている方に判断していただけると幸いです。

>まあ、西部氏の自殺の後もこういう態度を取り続けている人の限界だと思います。

(笑)
それなら私からも言わせてもらいますが、藤井聡先生をたたえる赤星さんの異常な言論には笑わせていただきました。
今後、赤星さんより誠実な回答や対応がなされなければ、私から正当な権利を行使させていただきます。

**********************************************************************


 おかしな人もいるものですね(笑)

 この赤星快人という人は、Amazonでは↓のような感想を書いている人ですね。

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AFMNRTGK3BQLPKSFISUCWAS5WYLQ/ref=cm_cr_getc_d_pdp?ie=UTF8

 Facebookは↓ですね。

https://www.facebook.com/hikanore

 こんなことも書いているようです(笑)。さて、どうしたものかな(笑)?

https://www.facebook.com/hikanore/posts/2509840779240252



 本は平均以上には読んでいると思いますが、感想を書くのはモチベーションによります。

 ええと、最近はモチベーションが微妙なのです。何とかして、ひねりださないと(笑)。

 ここ最近は、経営とか軍事とかを多めに読んでいたような気がします。あまり、感想をかくようなテーマではないから、モチベーションがわかないのかもしれません。そろそろ、これらのテーマの本もネタ切れになってきた感じ。

 次のテーマは何にしようかな?

 本書は『存在と時間 哲学探究1』の続編ですが、こちらだけ読んでも問題ないようです。ただし、難易度は高めでしょう。質の高い議論が為されていますが、読者によって興味深く感じられる箇所はそれぞれに異なることでしょう。そもそも全般的に意味不明と感じる人もいれば、全体を通して面白いと考える人もいるでしょう。



 私が感動した議論の一つに、第4章のルイス・キャロルのパラドックスに対する新たな解釈があります。一般的に、このパラドックスは、推論規則を他の命題と同じレベルで並べることができない教訓として考えられているようですが(それはそれで素晴らしい解釈ですが)、永井は別の読み取り方を提示します。それは、現実世界の話を可能世界の話として論じてしまう(それゆえアキレスは亀をどうしても引き離せない)、という解釈です。この読み取りは、凄まじいです。この解釈を提示したというだけで、哲学者として一流だと見なし得るでしょう。

 ここで永井は、「現実性記号」のようなものを作ってみても無駄だと述べています。亀はそれ(現実性記号)を可能な現実性として読み続けるであろうから、というわけです。しかし、これには異論がありえるでしょう。

 ルイス・キャロルのパラドックスを、現実世界の話を可能世界の話として論じてしまうことだと解釈するなら、少なくとも3パターンの亀の存在が考えられるでしょう。「現実性記号」の追加により納得する亀1。現実性記号を可能な現実性として読み続ける(永井の想定する)亀2。現実の命題が端的に与えられることで、つまり〈命題〉により、納得する亀3。これらの3つの亀が考えられるでしょう。さらに、これら3つの亀のそれぞれに対し、他の選択を理解できない亀と、他の選択を理解できる亀といった分割が可能になるでしょう。その上で、それぞれの亀が何を意味しているかを、読者は理解する必要があると思われます。



 また、第9章の「ものごとの理解の基本形式」として、カテゴリーが提示されているところも凄まじいです。アリストテレスやカントのカテゴリーの具体的内容はおかしいと思いますが、ここで永井によって提示されている様相・人称・時制に対しては、今のところ反論が思い浮かびません。カテゴリーは語れないという魅力的な見解を超えて、具体的に説得的なカテゴリーを提示しているところは、やはり凄まじいです。




 前号では、編集委員会を通していないと明言された富岡幸一郎の『信仰と盟約--四月五日以降の西部邁再論--』と、編集委員会を通したであろう佐藤健志の『保守主義者が自殺する条件』が掲載されました。

 ですから、本号についての私の関心は、佐藤の見解について誰か公式に意見(同意、異論、反論など)を表明するかどうかでした。結果的に、「投稿 読者からの手紙」を含め、誰も何も反応しなかったということになりました。

 もはやこの『表現者クライテリオン』は、前身誌の『発言者』や『表現者』の理念を踏みにじったものに堕ちてしまったと見なし得るでしょう。それにも関わらず、今回が「特集 ポピュリズム肯定論」ということもあり、ところどころに西部邁の名前を出して利用しているわけです。踏みにじった人物でも、利用できるなら利用するその姿勢は呆れます。

 特に、佐藤健志による西部邁の利用は驚嘆すべき水準に達しています。私が問題としている前号の佐藤の記述と、今号の佐藤の記述を引用してみましょう。



<前号の佐藤健志>

 弟子に雑誌を引き継がせながら、それを意図的につぶそうとしたのです。
 思想以前に、人間としてのモラルが破綻していると批判されても仕方ないんじゃありませんかね?



<今号の佐藤健志(192頁)>

 西部邁さんにならって、こう応じることにしましょう。

 「まったく、だから戦後のジャップってのは!」



 常軌を逸していますね(笑)。前号と前々号の記述から、藤井聡と佐藤健志の評価は以前の感想で書いたとおりです。

 もちろん、本誌の一執筆者にまでこの問題について責めるのはお門違いでしょう。ただし、編集委員には責任があるでしょう。柴山桂太、浜崎洋介、川端祐一郎については、藤井や佐藤と同意見か、保身のため沈黙しているか、どちらかなのでしょう。

 141頁で藤井は偉そうに次のように述べています。



 要するに彼らは馬鹿なわけです。つまり、我が国の政治家や知識人はほとんど、馬鹿か臆病のいずれか、あるいは双方なのです。



 この表現をならって、次のように述べておきましょう。



 要するに彼らは卑劣なわけです。つまり、本誌の編集委員はほとんど、卑劣か臆病のいずれか、あるいは双方なのです。



 さて、本誌が前身誌までと理念を別にするものだという理解から、後は好き勝手にクライテリオン(基準)を述べていけばよいでしょう。例えば、死者に口なしを大いに利用するとか。そんな本誌が、今後どうなっていくのか、別の意味で楽しみではあります。



《過去の感想》
『表現者criterion 創刊号』感想
『表現者クライテリオン 2018年5月号』「西部邁 永訣の歌」の感想
『表現者クライテリオン 2018年07月号(改題1号)』

 一言でいうと、天才科学者の面白エピソード集です。そのため、科学的な理論については別の参考書を必要とするでしょう。
 内容については、ともかく面白いです。著者の贔屓が入っている気がしますが、それが良い意味でスパイスになっています。どの人物も、科学的な業績といった観点からは偉大過ぎて何も言えません。でも、人格的な面ではいろいろと言いたくなってしまいます。ボーア、ファラデー、アーベルあたりは、たいていの人が好印象を持つと思います。ニュートンは、さすがになかなかの下種っぷりです。その他の人物については、人によってかなり評価が分かれるのではないかと思います。
 シュレーディンガーについての次の意見は抜群です。


 妊娠を心配していたケイトに反し、シュレーディンガーの意識的な行動が実って彼女は妊娠しました。ここまで徹底していると、彼に対して呆れるというより尊敬の念がわいてきますが、そんな自分に嫌悪感を持ちます。




 こんな言い回し、私では一生考えても出てきません。著者の表現力にも脱帽です。

 今号については、立ち読みでも何でもよいので、佐藤健志の『保守主義者が自殺する条件』と富岡幸一郎の『信仰と盟約--四月五日以降の西部邁再論--』だけは読んでみてください。この二つの論稿を読み比べてみることで、危機における人間の醜さと気高さを共に目撃することができるでしょう。実に貴重な体験になると思われます。

 まずは、佐藤の論稿から、西部邁に対する重要な記述を引用してみましょう。




 弟子に雑誌を引き継がせながら、それを意図的につぶそうとしたのです。

 思想以前に、人間としてのモラルが破綻していると批判されても仕方ないんじゃありませんかね?




 一方、富岡の論稿で注意すべき記述を引用してみましょう。




 自殺幇助の疑いで逮捕された事情もあり、あらためて西部先生の自死について、ここで記してみたいのである。これは筆者の勝手な判断であり、本誌の編集委員会(筆者は顧問として参加している)を通してのことではないことを、あらかじめご了承いただきたい。




 この富岡の論稿に、私は敬意を表します。一方、佐藤には人格的な意味における軽蔑しか感じられませんでした。死人に口なしということを、最低の形で利用していますから。

 上記の記述から、『表現者クライテリオン』の編集委員会の見解は、佐藤のそれと同じであることが分かります。なぜなら、佐藤の論稿では、佐藤の主観だけではなく雑誌(表現者クライテリオン)側からの見解も語られており、それを編集委員会が載せることを許可しているのですから。一方、富岡の論稿は編集委員会を通してのことではないと明言されています。ですから、客観的な事実から導かれる結論は一つでしょう。

 まあ、今までの経緯を振り返ってみれば、自殺幇助は都合のよいきっかけに過ぎず、これは規定路線だったのでしょう。




(1) 最終号の『表現者2018年1月号』で、藤井聡が『表現者criterion』編集長として、〈西部先生が表現し続けてこられた保守の精神を継承(conserve)する〉ことを表明する。

(2) 『正論2018年4月号』で浜崎洋介が『西部邁 最後の夜』を書き、自殺の不信点を世間に公表する。

(3) 『表現者criterion 2018年3月号』の創刊号で、藤井聡が〈保守を超えた再生〉を表明する。

(4) 『表現者criterion 2018年5月号』で藤井聡が、生前は西部から論戦撤退しておきながら、死後に西部が論戦を回避したと言い出す。

(5) 『表現者クライテリオン 2018年7月号』の表紙で、「表現者」の文字サイズを最小化し、「クライテリオン」の文字サイズを最大化する。佐藤健志の『保守主義者が自殺する条件』が公表される。一方で、富岡幸一郎の『信仰と盟約--四月五日以降の西部邁再論--』が編集委員会を通していないと明言される。




 こうして並べてみると、西部の思想の排除は、段階を踏んだ計画的なものだったのだと思えてきますね(笑)。

 本号の編集後記では、〈最悪廃刊もあり得る状況〉だったと報告されています。私としては、いったん廃刊し、新しく「クライテリオン」という題目で新雑誌を創れば良いのにと思います。ここまで西部邁を侮辱するのなら、「表現者」を継ぐ必要はなく、勝手に新たな基準(クライテリオン)を打ち立てれば良いだけの話です。そうしないのは、西部を侮辱しながら、その読者層はそのまま取り込みたいという卑しい商売根性の他は考えられないからです。

 こういった状況をみれば、こんな雑誌の論稿はすべて読む価値がないと言ってしまいそうですが、そこには注意が必要です。西部邁も生前は、請われればたいていの雑誌には書いていました。編集委員会がどうあれ、良い論稿が記載されていることは、あり得ることなのです。ですから、できるだけ誠実に冷静に、私なりに本号で読む価値のある論稿を、ここを見ている方のために挙げておこうと思います。




・『農は国の本なり』鈴木宣弘

・『恥辱と自尊』柴山桂太

・『グローバル化の歪みはどこから生じるのか』施 光恒

・『ドゴールの思想と行動PartⅡ』伊藤貫

・『北海道の分際』古川雄嗣

・『信仰と盟約--四月五日以降の西部邁再論--』富岡幸一郎




 上記の論稿は非常に高いレベルにありますので、是非とも読んでみることをお勧めします。

 さて、いわゆる表現者グループも、その読者も、戦後日本や政権を偉そうに非難してきたはずです。それでしたら、身内にだけ甘いといったことは、あってはならないでしょう。卑劣に対しては、きちんとした批判が必要でしょう。少なくとも、今回の富岡の論稿には気概を感じることができました。私も、私なりに意見を表明しました。それでは、そこのあなたはどうでしょう?



※ 本書の感想の内容から判断し、登場人物を敬称略とさせていただきました。




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