『表現者クライテリオン2018 5月号』では、「西部邁 永訣の歌」と題し、数多くの論者による西部邁への追悼が記されています(人物名が多いので敬称略で論じます)。

 まず、本書の総合評価を述べれば、これだけの大人数での西部邁論を見ることができ、見応えがあるというのが素直な評価になります。中でも、佐伯啓思の原稿は神がかっています。一読の価値は確実にありますので、是非読んでみてください。

 今回の追悼では、若干名を除き、各人が死者に敬意を表して論じているのが分かり嬉しくなります。例えば、浜田宏一が西部の自死を〈うつ状態〉と関連付けていたり、上野千鶴子が〈彼の死を英雄視することだけは、やめてもらいたい〉と述べていたりします。西部の著作に親しんだ者としては、異議をとなえたくなるでしょうが、彼らは彼らなりの価値観に沿って真剣に論じているのです。彼らには、そうとしか思えなかったがゆえに、それを素直に論じているのです。ですから、彼らは(少なくとも今回の追悼では)卑劣な振る舞いをせず、参照に値する文章を残していると思えるのです。

 しかし、今回の原稿の中で、少なくとも2名は、その卑劣な本性が明らかになりました。その人物は、(本書を読んだ方なら予測がついていると思いますが)佐藤健志と藤井聡です。




<『吃音の果て 西部先生の死を超克するために』佐藤健志>

 佐藤は、保守主義の観点から、西部の自死を悪しざまに論じています。その根拠となっている個所(47頁)を抜粋してみましょう。



 裏を返せば「連続性の尊重」こそ、保守主義の本質だと言っても過言ではない。

 他方、自殺はみずからの意志によって死を選び取り、生命の連続性を断ち切る行為と規定される。しかも「みずからの意志で世を去る」ことは、この世を「生きるに値しないもの」として捨てる意味合いも持つ。

 社会や国家の連続性も、暗黙のうちに否定されているのだ。のみならず、意志的な行為である以上、くだんの選択は理性的判断に基づくと見なさねばならない。先生の自殺も、決して衝動的・発作的なものではなく、かなり周到に計画されていたことが知られている。

 だが「みずからの理性的判断によって、生命、および社会や国家の連続性を否定する」のは、保守主義とは対極の発想ではないか。



 この文章は論理の筋が通っていません。自殺を、社会や国家の連続性の否定と結び付けて論じていますが、そうとは限らないからです。西部は、自死(自殺)が、社会や国家の連続性の肯定になりえる場合があることを文章で書き残し、それを実践しました。

 つまり、〈「みずからの意志で世を去る」こと〉が、社会や国家の連続性を肯定する場合もあれば、否定する場合もあるということです。前者を西部は丁寧に語っていたのですが、佐藤はその論理を完全に無視し、勝手に自分の都合の良いように論脈を捻じ曲げ、一方的に死者を糾弾しているのです。

 佐藤の書く文章には、論理の筋を捻じ曲げ、自身に都合のよい結論を導き出すという卑劣な手法がいたるところで展開されています。例えば51頁では、〈西部氏が「思想の英雄」の一人として賞賛〉した〈G・K・チェスタトンの言葉〉を持ち出しています。チェスタトンが自殺を〈罪の最たるもの〉などと言ったことを根拠に、〈西部氏も自殺によって、ご家族はもとより、自分の言論を信じた者、そして活動を引き継ごうとした弟子のすべてを嘲笑し、侮辱したのだ〉と語るのです。この見解も馬鹿げています。仮に、チェスタトンの言葉は一言一句にいたるまで間違いがないと信じているチェスタトン原理主義者がいるなら、佐藤に同意することでしょう。しかし、そんな異常者はいないでしょうし、もちろん西部もそんな異常者ではありません。西部の著書『思想の英雄たち』でチェスタトンを論じた箇所には、〈「二つの激烈な感情の静かな衝突から中庸をつくりだしていた」のがキリスト教であるかどうか、私は断定を差し控える〉とあります。チェスタトンの自殺への嫌悪は、アウグスティヌス以降のキリスト教の教えにそったものでしょう。西部は、チェスタトンの意見を選択的に取り入れていたのであり、自殺の否定という見解は受け入れなかったというだけの話です。




<『「具体・抽象」「実践・認識」を巡る真剣なる生』藤井聡>

 藤井のこの原稿には、精神の卑しさが醸し出されています。藤井が西部と付き合う中で、〈伝統〉の解釈に相違が出たときの話(54頁)があります。藤井は、〈当面、西部先生はこの問題を絶対に認めはしないのだろう。ならばこの話題を俎上に載せることは一旦止めにしよう〉と言って、議論を止めてしまうのです。そのことについて、〈一旦論戦撤退するのに躊躇はさほどなかった〉と述べています。これは失礼な態度だと思いますが、これだけでは卑劣とまでは言えないでしょう。

 問題は、西部が死んだ後の藤井の意見(57頁)です。



 しかし残念ながら、最後の最後まで先生は筆者との「決着」を回避したのだ、との解釈を拒否することもまたできない。そうである以上、筆者は結局、三十の頃に始まったあの対立で二十年近くの年月を費やして全く説得することができなかった----という帰結となったのである。



 すさまじい意見ですね(笑)。自分から論戦撤退しておいて、回避したのを西部の責任にしてしまっています。仮に、西部がいきなり自殺したのなら分からなくもないですが、西部は自死を周囲の者たちへ伝えていましたからね。

 西部の生前は、自分から論戦を避けておきならが、西部が死んでから、〈最後の最後まで先生は筆者との「決着」を回避したのだ〉と言っているわけです。卑劣のお手本のような言いまわしですね。

 でも、大丈夫です。藤井先生を慕う弟子たちは、藤井の非を責めることなく論戦撤退してくれます。そして、言葉の道理も義理も人情も足蹴にして、藤井を非難する人物(私など)を恥知らずにも攻撃してくれますから。良かったですね。

 ちなみに、他の人はきちんと西部と論戦しています。水島総は、〈私もかくのごとく頑固に主張し、議論は激論となり、いつも最後は、先生の「この話はもうやめようや」で終わった。そして、また酒を飲みながら、和気藹々と別の議論が始まるのだった(152頁)〉と書いています。前田雅之は、〈あわよくば、先生の伝統論と刺し違えたいと本気で考えていた。これが執筆を許された先生への報恩であると固く信じていたのである(190頁)〉と書いています。恰好良いですね。





<自殺幇助者の逮捕について>

 本書を読んだ方々ならご存じでしょうが、本書の原稿が集まった後に、「自殺幇助者の逮捕」のニュースが流れました。それを受けて、『表現者クライテリオン』のホームページに、『【藤井聡】西部邁氏の自殺幇助者の逮捕に思う ~「言葉」からズレた「振る舞い」~』や『【藤井聡】西部邁氏の「幇助自殺」を考える ~西部言説の適切な理解のために~』などが掲載されました。

 ニュースが出てから、この意見を出すって...。さすがですね(褒めていません)。

 私自身は、『正論2018 3』の浜崎洋介の記事『西部邁 最後の夜』を読んで、自死を助けた人たちがいたことを知りました。この記事を普通に読めば、誰だって西部の自殺を手助けした人がいて、逮捕も避けられない情勢なのだと考えると思います。ですから、『表現者クライテリオン』の関係者は、「自殺幇助者の逮捕」を想定した上で、西部の自死を好意的に論評しているのだと思っていました。ですから、『月間Hanada 2018 4』の藤井聡の記事『追悼・西部邁 青年たちの可能性を信じ続けた教師』も非常に好意的に評価していました。

 しかし、それは私の勘違いだったようです。私も、人を見る目がなかったと反省した次第です。





<私の西部邁追悼>

 今から10年くらい前の話になります。九州での発言者塾後の飲み会で、西部先生が語った言葉が思い出されます。そのとき先生は、自分が死んだ後に、自分を悪くいう者たちが出てくるだろうとおっしゃっていました。事実でないことを言って、悪しざまに言う奴らが出てくるだろうと予測されていました。そのとき、自分は死んでいるからよいが、それを残された家族が聞くと思うとやりきれないとおっしゃっていました。

 私は、そういった卑劣な奴らは間違いなく出てくるだろうと思いました。ですから、西部先生のその嘆きに黙ってうなずいていました。西部先生の自死の思想も知っていましたから、先生の自裁後に、卑劣な奴らが出てきたら、少なくとも自分のできるかぎりで批判しようと決心しました。

 今回の『表現者クライテリオン2018 5月号』の他には、『正論2018 3』、『Voice 平成30年 3』、『新潮45 MARCH 2018 3』、『正論2018 4』、『月間Hanada 2018 4』など、目につくものを読んでみました。そして、西尾幹二、佐藤健志、藤井聡という3名の卑劣が見つかりました。私が予想していたよりも、今のところ少ないなというのが正直な感想です。まだまだ今の日本も捨てたものではないのかもしれません。

 それにしても、死してなお、卑劣をあぶりだすとは、やはり西部邁の人生は見事だったと思います。「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という故事をもじって、「死せる西部、生ける卑劣を語らす」とでも言っておきましょう。




 今日は本屋で、いろいろと買ってきました。主な目的は、GWに読む本の調達です。高めの本を買えるのは、社会人の強みです。学生時代は、やはり値段とにらめっこでしたからね(笑)。

 その中に、「西部邁・特別号」ということで『表現者クライテリオン 2018年 05 月号』も買ってきました。テーマがテーマだけに、早めに読んで感想を書いてみようと思います。

 ざっと見た感じ、かなり良質な論稿がそろっています。だたし、愚劣と卑劣が混じっていますね。残念なことです。

 GWに読もうと思っていたフッサールの『イデーン』5冊ですが、この土日で読み切ってしまうかも(笑)。

 しかし、翻訳者って偉いものです。これの翻訳って、ある意味で狂気じみていますから(褒めています)。

 ところどころに参照すべき見解があるのですが、用語の定義がしっかりしていなかったり、論理が飛躍していたりで、読みにくいですね。事前にフッサールの他の著作や、フッサール哲学の紹介の本などをある程度読んでいたので、読みにくいながらも、けっこうスラスラ読み進めています。というか、いきなりこれを読まない方がよいです(苦笑)。フッサールは、解説本から入るのが吉です。カントとか、ヘーゲルとか、ハイデッガーとかも、解説本から入った方がよいですよ。

注目している著者

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 現時点(2018年4月)で、注目している著者の紹介です。

(1)永井均
 哲学者です。『存在と意味――哲学探究2』がそのうち出るのかな? Web春秋で連載中のものです。

(2)磯田道史
 歴史家です。今は『素顔の西郷隆盛』を読んでいます。やっぱり、面白い。

(3)柴山桂太
 京都大学大学院の准教授です。政治や社会などについて論じています。なかなか新刊が出ないのがちょっと残念。保守思想のアップデートは成功すると思いますが、それがどこまでの射程になるかはまだ未知数ですね。

(4)中野剛志
 官僚です。経済ナショナリズムなどを論じています。今のところ、『富国と強兵』が圧巻ですが、個人的には心理学との併用でアップデートが可能なはず・・・とか思っています。


 ということで、とりあえず4名を紹介。この4名の新著はとりあえず買う予定。優秀な著者を知っていましたら、コメントやメールなどで教えていただけると嬉しいです。

 『現代思想 2018年4月号 特集=現代思想の316冊』を読んでみました。こういった本の紹介の特集は、やはり面白いものです。多くの人が紹介文を書いていますので、中には変だと思うようなものもありますが、興味をひかれた本も多くありました。
 こういった本を読むと、紹介されている本で読みたいものを買ってしまって、読書の無限ループに陥ることになります(笑)。そのループの中で、自分の思考がグルグルと廻る感覚というのを味わうのも、良いものかもしれませんよ?


 今日は、5冊ほど本を買いました。

 いろいろな本を読んでいるのですが、ここで感想を書くものは限られています。

 感想を書く基準は、タイミングですね。

 必ずしも良い本の感想を書いているわけでもないのです。

 自分の疲労具合と、やる気と、ちょうど良いテーマと、それらがマッチしたときに感想になります。

 ですから、感想を書いていない無数の良作があるわけです。

 まあ、どうでもいい話ですね。

 以前に、『正論2018 3』の「追悼特集 西部邁の死」について論じました。

西部邁の死をめぐる、偉大と秀逸とヘッポコと卑劣(1)(2)(3)(4)

 上記の記事では、ヘッポコと卑劣な人物が紛れ込んでいたのが残念でした。
 他の言論誌でも、西部邁の自裁について書いた記事があったので、目についたものは買って読んでみました。

『Voice 平成30年 3』
 「西部邁氏を偲ぶ 「高貴」な生き方を求めた保守思想の真髄」小浜逸郎

『新潮45 MARCH 2018 3』
 「追悼・西部邁 完璧な制御内にあった「自裁死」」東谷暁

『正論2018 3』
 「西部邁 最後の夜」浜崎洋介
 「西部邁 生まじめで気さくだった「大思想家」」榊原英資
 「西部邁の酒とダンディズム、語られざる言葉」黒鉄ヒロシ

『月間Hanada 2018 4』
 「追悼・西部邁 青年たちの可能性を信じ続けた教師」藤井聡


 上記の記事は、どれも素晴らしいものでした。故人と親しくしていた方々が語る内容には、確かな重みが感じられました。細かいところについて指摘を入れたい欲求もありますが、それはやはり野暮というものでしょう。
 偉大な思想家が死んだ後に、偉大な著書が残されています。それとどう向き合うかという課題が、おそらくは残されているのでしょう。


 西部邁と三田誠広の共著です。西部のセリフで、ちょっと印象に残ったところを引用してみましょう。


 こういうことはありませんかね。つまり、「独創性」の基盤ですけれども、紋切り型で言えば、ある種の矛盾感覚のようなもののなかから生まれ出てくることがあります。つまり、親は、人生とは矛盾多きものなので、たとえば、「学校の先生の言うことを聞くことは大切なことなのだ」と教える半面、「どうしても気に入らなければ、学校の先生に逆らってもいいのだ」と教えてもいいのじゃないかな。そういうさまざまな矛盾的言説を親が意識的にやると、子供は自分なりの意見とか生き方を模索するようになる場合もある。場合もあると言ったのは、へたな表現の仕方をすると、「うちの親父はなにを言いたいのかさっぱり理解できない」と見放されてしまうからです。




 これは、なかなかに面白い表現だと思います。これを矛盾とみることも、もちろんできますが、矛盾ではなく筋のとおった意見だとも言えると思うのです。例えば私なら、まともな先生の言うことは聞いて、まともじゃない先生の言うことはほどほどに聞いておけ、と言うでしょう。そして、どう考えても筋の通っていない先生の意見は、俺に相談しろ、と。親として、こういったことは子供に言っておきたいですよね。





 藤井聡、浜崎洋介、柴山桂太、川端祐一郎の4名による編集体制で『表現者criterion』がはじまりました。かなり分厚い本ですが、編集者が集まって座談会をし、原稿も各々2つずつ書いているので、この4名の色に染まった雑誌になっています。ですので、雑誌の真価は、この4名の水準にかかっているわけです。

 結論から言うと、柴山だけとびぬけて優秀で、後の3名はちょっと擁護できないレベルでした。いくつか論点をまとめて論じてみましょう。



(1)基準(クライテリオン)について

 まずは、基準についての考え方から。いわゆる保守思想は、理性主義や設計主義に対する抵抗から出てきました。社会に新たな基準を打ち立てようとする勢力に対抗する思想でした。柴山は、その線で基準を求めていることが分かります。「わが内なる生活者」(65頁)で、柴山は次のように書いています。

 オークショットが言うように、近代で進歩的な志向が強まり、保守的な特質が全般的に弱まっているのも事実であろう。しかし、それでも生活の根本感情を、理想郷より現在の笑いを、変化によって得られるかもしれないものよりも今手にしているものに価値を置いたままだ。それが庶民の変わらぬ暮らしであろう。その偏愛と偏見から、信義や正義、公共的制度への愛着や権威に対する畏怖、生活美や共感の感情を引き出しているはずだ。保守主義は、こうした道徳感情に言葉を与え、思想にまで高めることで、近代主義との対決を続けてきたのである。


 この立場には賛成できます。伝統が見えづらくなってきたとしても、庶民生活における偏愛と偏見から基準を見出そうという姿勢には同意できます。しかし、他の編集の3名は、どうやら違う観点を持っているようなのです。



(2)藤井聡

 藤井は、〈我々の身の回りから今、保守すべき「伝統」があらかた消失してしまったのであり、それが平成末期の今日の日本〉(70頁)と書いています。ちなみに原稿は、「隷属に抗う勇気、保守を超えた再生」です。保守を超えた再生、ですよ? 本音が漏れちゃっていますね(笑)。保守を超えたものを、その基準を、藤井が出すというわけです(笑)。

 また藤井はやたらと奴隷という言葉を連呼しています。今回から第Ⅱ期ですが、〈そもそも「奴隷」でいることに甘んじた者に倫理なり道徳なりを語る資格などない〉(67頁)と偉そうです。前号の第Ⅰ期の最終号でも、「馬鹿と奴隷の国の中で」という原稿を書いています。現代の日本人を奴隷とみなし、偉そうに語るということが、そうとうにお好きなようです(笑)。西部邁は大衆批判を繰り広げましたが、それを「大衆」→「奴隷」へと進化させているわけです。西部の大衆批判は、自身の地位も名誉も金も犠牲にする覚悟を伴うもので本物でしたが、当然ながら、藤井にその覚悟はないでしょう。

 もう少しだけ述べておくと、藤井の"伝統"についての理解もひどいものです。座談会(22頁)で、藤井は次のように述べています。


 ただし、良質な伝統が保守されている幸福な理想的社会ならば「クライテリオンを巡る議論」は不要だと言えるでしょう。例えば、前近代の安定した時代に生きたお百姓さんたちは、とりたてて高度に抽象的な議論など経ずとも、彼らが身につけた「伝統」に従うことを軸にすれば、豊かな実りを得ることができたでしょう。


 これは二つの観点から問題があります。一つ目は、安易に前近代のお百姓を理想的社会とみなしていることです。百姓の仕事や生活をなめすぎです。例えば、江戸の農民の識字率は高く、高度な文化や仕事の改良を実践していました。また、現代との死亡率を比較すると、現代がいかに制度的に恵まれているかも理解できるはずです。

 二つ目は、伝統という用語について、西部などが展開してきた成果を反映していないことです。これについては、柴山が「常識を考える」(159頁)で述べている伝統の説明が参考になるでしょう。


 伝統についての重要な論点がここにある。バークは伝統という言葉を用いていないが、危機において意識化されるものを(日本の保守思想家に倣って)伝統と呼んでおきたい。古くは小林秀雄が、最近では西部邁が繰り返し強調してきたように、慣習と伝統は同じものではない。慣習はわれわれが無意識のうちに従っているものであるが、伝統はそうではない。慣習の自明性が失われるような非常事態にあって、慣習の中から意識的に取り出された判断の基準が伝統である。


 こういった伝統をめぐる言葉遣いに、藤井の傲慢さが透けて見えるようです。伝統に従えばよかった前近代のお百姓さんは楽で、伝統が消失したところから基準を求める俺は大変だという意識でもあるのでしょうかね?



(3)浜崎洋介

 浜崎の原稿「現代人は愛しうるか」(97頁)に、次のような記述があります。


 「自殺」か「全体主義」しか選択肢を残していないかに見える現代の大衆社会のなかで、果たして、人が人を愛しうるための「クライテリオン」とは何なのか。


 これ、本当に書いてありますからね。嘘じゃないですよ。

 このレベルに達していると、もはや笑うこともできないです。浜崎には現代が、「自殺」か「全体主義」しか選択肢を残してないかに見えるのでしょう。率直に言ってしまいますが、病んでいますね。こんな突拍子もない意見に同意できる人って、日本中に何人いるのでしょうか? 10名もいないと思いますけど...。

 あと、現代でも、人は普通に人を愛して生活しています。病んでいる人に、わざわざ人を愛しうる基準など出していただかなくて構いませんので。



(4)川端祐一郎

 川端は座談会(33頁)で次のように述べています。


 丸山眞男の思想全体には賛成できないことはいっぱいありますが、良いことも言っていて、日本で何か議論が起きると、どうも日本人というのは、前の段階でいろんな人が積み上げてきた議論を一切踏まえずに、もう一回最初から議論するのだと。つまり、議論の積み重ねができないようになっていて、日本人は昔から伝統的にそうなんだということを言っているのですね。本当にそうだとすると、議論の積み重ねも意見の突き合わせもしないというのは、何か僕らの代に特有のことではないわけで、ひょっとして日本人のもともと持っている習性にそういう傾向があるとしたら、かなり絶望的ですよね(笑)。


 (笑)。

 日本思想史では、きちんと積み重ねの上で議論がなされています。日本人や日本思想は、決して絶望的ではありません。絶望的なのは、川端の知的誠実性の方です。

 ちなみに、あまりにまずいと思ったのか、柴山が座談会の最後(55~56頁)で次のように述べています。

 もう一つは、確かに日本人の中に今までご指摘があったようなある種の弱さがあることは事実なのだけど、ただ一方で日本の思想の系譜を辿ると、西洋の優れたものと共鳴しあうものがたくさんある。


 この見解は、さすがといったところです。



(5)柴山桂太

 西部邁がいなくなり、『表現者criterion』から、なぜか佐伯啓思の原稿も排除されたようです。なので、立ち読みではなく購入する動機は、柴山の原稿の水準次第になってしまいました。あくまで私個人の意見ですけどね。

 今号の柴山の二つの原稿は高水準でした。しかし、今後もこの水準を保てるかは未知数です。二つの不安材料があるからです。一つ目は、他の編集に引きずられて劣化する可能性があること。二つ目は、特に連載の「常識を考える」に顕著ですが、ある制約条件の上で論じていることです。勘の良い方は、その制約条件にピンとくると思います。その条件のゆえに、文章の水準が落ちる可能性があります。もしくは、その条件のゆえに、文章に感動が生まれる可能性もあります。今後の原稿に期待したいところです。


(6)参考になる原稿

 あくまで私個人の見解ですが、参考になる原稿は限られていました。ここを見てくださる方のために、一応挙げておきましょう。

・『わが内なる生活者』柴山桂太

・『保守主義のクライテリオンとしての「実証性」』仲正昌樹

・『クライテリオンの忘却を防ぐために』施光恒

・『リアリスト外交の賢人たち ドゴールの思想と行動PratⅠ』伊藤貫

・『「常識(コモンセンス)」を考える 懐疑主義を超えて』柴山桂太


 それにしても、クライテリオンというカタカナが氾濫していて、読みづらく、いささかうんざりしてしまったというのが正直なところです。別に日本語で、基準が必要だと言えば良いだけなんですけどね。日本語で良いところをカタカナ用語で得意そうに語る人たちって、正直なところ苦手です。


お勧めの本を更新

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 お勧めの本 を更新しました。

 初心者・中級者・上級者でそれぞれ10冊ずつ選びました。やっぱり、有名な古典が多くなりますね。何か読もうと思ったら、有名な古典を読んでみるのも良いものですよ。

 

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