西部邁さんと富岡多恵子さんの対談本です。西部さんの発言から、参照すべきところを抜き出してみましょう。


 つまり、言語が具体性を伴ったときのことを、今それを、こと新たに発見せねばならぬ。なぜならば旅人たちは、かつての自分の歩んできた足跡を忘れちゃっているから。そんなふうに思う。言葉の記号化という退屈な作業を続けるくらいなら、言葉の歴史の中に驚きを見出したいということです。言葉を記号と化す仕事なんか実につまらぬ、ちっぽけなことです。そして自分のちっぽけさを自覚したら、意味に満ち満ちていた言葉の歴史がかえって巨大なものに見えてくるんじゃないですか。だから、記号化の宿命はわかるんだけれども、そこでひとつ、昔のことを思い起こしてみるのも悪くはないぞというふうにいいたい。しかも、それも、かなり大声を上げていわないとね。



言葉を記号化する論理学は必要ですが、それだけだと確かに無味乾燥な気がします。やはり、抽象的な言葉の記号化は必要なのですが、それと同時に歴史における具体的な言葉のあり方を参照しなければならないのでしょう。


僕は西洋になんか......思いきっていってしまおう......なんの関心もないんですよ(笑い)。


 この発言、けっこう重要ですよね。ただ、そうは言っても西洋に惹き付けられているところがあるなぁと思わないでもないですが。

 西部邁さんが、いろいろな方々と対談した内容が記載されている本です。

 個々の対談より、西部さんの「まえがき」と「あとがき」の方に価値があると思われる本です。というわけで、「まえがき」より引用です。




先達と付き合うには彼らの書物を読まねばならない。私なりにその営みを続けてきたつもりである。しかし、過去といい経験といい、活字では表わし尽せないなにものかが含まれていればこそ、一入の重みをもつのである。それを感得するのにいろいろの手立てがあるのだろうが、先達の身体を目の当たりにしてみるのも有効である。つまり、表情、声色、身振りなどに接するということである。そうすることに損失がないというのではない。想像の次元でせっかく色合ゆたかに膨らんでいた思いが、直接の対面のために、いささか単色な現実の次元にひきずりおろされるということがあるのかもしれない。しかし、その損失を覚悟で、社交の場に臨むのが生のやむをえざる任務なのではないか。そういう任務にともかくも取組まなければならない時期が人それぞれにあるものだと私は思う。



 本を読むだけでは分からないことというのは、確かにあるものだと思われます。本に感銘を受けても、会ってみるとがっかりすることもあれば、本はいまいちでも、会ってみると人格に感心したりとか、けっこうあるものなんですよね。

 社会が嫌いとか苦手という人がいるかと思いますが、やっぱり意図的に社会に臨むということは、少しは必要なのだと思われます。

 第6回(1984年) サントリー学芸賞・社会・風俗部門受賞を受賞した本だそうです。価値相対主義との闘いをかかげ、色々なテーマについて著者のレトリックが冴えています。例えば、「特性のない男」から引用してみましょう。



あなたの専門はなんですか、とよく聞かれる。ここ五年ばかりは専門知の退潮いちじるしいものがあるので、さすが、他人の専門をせんさくするものは少なくなったが、それでも、専門不明の人間は周囲にいくばくかの不安を与えずにはすまないようである。私は、厭味にきこえるだろうことを覚悟のうえで、専門をなくすのが私の専門です、と答えることにしている。



 専門主義の弊害を打つための面白いアプローチです。
 でも、やっぱり専門はあらざるを得ないのだとも思います。専門を無くそうとしたとき、そのための専門が出来上がらざるを得ないのだから。

 専門にならざるを得ないのだが、専門にこだわり過ぎてしまう弊害も自覚しておくべきなのでしょうね。

 オルテガの『大衆の反逆』のオマージュ的な作品というか、著者の対・大衆戦への狼煙とも言える著作です。本書では、大衆が次のように定義づけられています。


ここで大衆の概念を定義し直すならば、「大衆とは自らの語り演じている大衆産業主義および大衆民主主義の神話性を、商品についてであれ、計画についてであれ、習俗についてであれ、はたまた知識についてであれ、感覚的および論理的に自覚することのできない人、または自覚への努力を放棄する人」ということになろう。



 本書のおいて著者は、産業主義と民主主義という二様の価値について懐疑を進めていくことになります。

 ちなみに、「文春学藝ライブラリー版あとがき」では、次のような記述があります。


ただ、今にして思うのだが、私はネオロジズム(新語愛好癖)にたいする自分の嫌悪を押し殺して、マスマンに「大量人」という新語を当てがっておくべきだったかもしれない。というのも、オルテガの驥尾に付して私がモダン・エイジ(近代)に反逆したいと考えたのは、「最の時」にたいする反発という直情に発してのことではなく、モダンであることの本質としての、またその語の語源的な意味としての、「単純なモデル(模型)が大量のモード(流行)となる」という近代二百年余の休みなき過程にたいして、価値論からも認識論からも、さらに人生観にあっても時代観にあっても甚だしい違和を覚えたからなのであった。



 ここで、マスに対する訳語の検討は、かなり重要なところです。私がどこかで、いわゆる大衆論について言及するときには、改めて検討をしておく必要があるでしょう。

『ケインズ』西部邁

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 ケインズについての評伝です。興味深い記述がいろいろ見られますが、せっかくなのでケインズに関係するところから引用してみましょう。


散文が説得的なものになるか、それとも退屈なものにおわるか、それはむろん表現者の能力による。ただ、散文的健全性とはより説得的たらんと努めはするものの、なにほどかの退屈をあえて厭わぬものといえよう。


 イギリス的な散文的健全性は、けっこう重要な概念だと思われます。ただ、私は苦手ですけどね(笑)。個人的には、ドイツ的な体系性の方が性に合っている気がします。散文的健全性だと、重要な記述を見つけるのがけっこう大変なんですよ。途中であっさりと重要な言葉が出てきたりしますから。

 題名からは分かりにくいですが、ケインズとウェブレンの評伝です。

いる。エピローグでは、今後に著者が取り組むことになる大衆についての定義が出ています。

けっきょく、私の下してみたい大衆の定義は、「自らの参与している大衆社会の神話性を感得し解釈する努力をなおざりにする人」ということになる。


 著者の大衆論も、微妙な変遷を経ていくことになります。そこには、うなずける論点もあれば、首を傾げざるを得ない論点もあります。ただ、著者が自身のリスクを顧みずに取り組んだということは言えますので、そこには敬意が生じるのです。

 問題は、むしろ彼の弟子筋でしょう。師匠が切り開いた険しい道を、舗装されてから偉そうに歩いている者たちが散見されます。そこには注意が必要でしょう。

 本書は、著者のアメリカとイギリスの体験記です。

 分量はアメリカ編が多いですが、質的に重要なのはイギリス編の方です。少し、気になった文章を引用してみます。

個人主義が矛盾なく伝統主義と連絡するひとつの道があると僕は考えたいのです。要約していうと、それは「個人主義を個人主義的に脱け出る」という道です。もう少し言えば、個人の意識を認識的に掘下げていって社会に到達するというやり方です。ここで「個人主義的に」といったのは、認識が否も応もなく個人の頭脳から生み出されるということを認めるからです。


 今後の保守主義へとつながる記述が散見されます。また、著者の特異なレトリックでもあります。

 ちなみに、認識を個人に置くことから、著者は社会学的な思考をしていることが分かります。ここで、認識を自己と置くことも、自我と置くこともできますが、それによって、また別種の思考形態(哲学)を語ることができます。しかし、それはまた別の話ですね。

 西部邁の処女作です。イプシロン出版企画から再度出版されているので、入手が容易になりました。この先に展開される考えの芽が散見されます。記述は、今後の著作と比べるとかなり読みにくいです。最晩年の著作も読みにくくなっているので、一周して元に戻ったということなのかもしれません。読むなら成熟した頃の著作の方がお勧めなので、初心者むけではないですね。

予告:西部邁の特集

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 思想家の西部邁さんが引退されたので、過去の著作を振り返る企画をしてみようと思います。ごくごく簡単なものを不定期でやるので、それほど期待せずにお待ちください。

 本書は、「大思想家ニシベ 最期の書!」と銘打たれています。非常にたくさんの本を出して来た西部邁ですが、これが最後の本となりそうです。

 西部邁の一連の著作を読んで来た者としては、加齢に伴い文章に堅さが出て来ているなぁと感じられます。年齢に伴う文章の変化を感じるといった意味でも、興味深い本だと思います。

 今までの著作を読んで来た人には、目新しい内容は少ないですが、G・K・チェスタトンの「狂気に一抹の魅力があることを認めぬわけではないが、それを認めるためにもこちとらが正気でなければならぬ」が座右の銘だったとか、細かい発見はあり得るでしょう。

 また、今後の弟子筋に関わることとして、興味深い文章があったので引用してみます。



 少し勝手気儘に喋りたくなった。
 私の友人である佐伯啓思氏と藤井聡氏のあいだで経済成長をめぐって論争の起こる気配が少しある。前者は「経済成長主義」によって文化の衰弱がもたらされるとみているのにたいし、後者はその反成長主義が日本国家に多大の混乱をもたらす懸念ありとみなしているからだ。むろん両者には共通点があって、それは成長主義に伴うマテリアリズムやマモ二ズムやテクノロジズムそのものには大いに懐疑的だということになろうか。両者の差異点といえば「状況の中での政策実践」としての成長政策に消極的か積極的かといった程度の話ではある。これにたいし述者は、率直にいって、明確な判断を下すことができない。



 この経済成長についての論点は重要です。佐伯啓思氏と藤井聡氏は『表現者』という雑誌に寄稿しているのですが、西部邁の引退に伴い、今後は藤井聡氏を編集長とした『表現者criterion』として継続するそうです(変な名前だと思いますが)。

 その『表現者criterion』にて、この経済成長についての議論を行い、何らかの結論は出してほしいものです。議論の大切さを説いてきたグループですので、ヘタな馴れ合いなどせずに、議論のお手本を見せてほしいですね。

 今後は、西部邁の弟子筋の動きがどうなるかといった観点に注目してみるのも、面白いのかもしれません。

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