永井均『自我、真我、無我について』について
『サンガジャパンVol.26』に、哲学者・永井均さんの『自我、真我、無我について』が掲載されています。論理の切れ味が凄まじいです。キレッキレです。
永井さんの見解が、仏陀のそれと同じものなのかは分かりません。しかし、仏教の考え方を参照し、論理的で整合的な見事な無我論を提示できていることは間違いありません。仏教の無我論に興味のある方は必読です。
私がこれから述べてみることは、追加説明というより、補足説明になります。この論稿を読んで、少し補足してみたくなったことがあるということです。
本稿では、「真我=無我」であることが示されています。それは確かに正しいと思われるのですが、それらの"我"が同じであることを認めた上で、"真"と"無"の差異が語られなければならないでしょう。つまり、その同じ"我"が、"真"ではなく"無"だと仏教側が言わなければならなかった違いがあるはずなのです。
ちなみに、それは西田幾多郎が"無の場所"によって展開した論理でもあります。永井さんの言い方を参照するなら、「それは本質的に属性を持たない空っぽの存在」だからです。だから、"真"ではなく"無"と言わなければならないわけです。
それは、「真我=無我」ではなく「真我≠無我」だということではありません。
そうではなく、「真我=無我」∧「真我≠無我」だということです。
こういう風に言うと、ヘーゲルの弁証法的です。少しその方法論を利用して続けてみましょう。ヘーゲル論理学の存在論では、「存在-無-成」という図式があります。この図式を当てはめると、「真我=無我」が「存在」に、「真我≠無我」が「無」に、そして、永井さんの言う「平板な世界像」が「成」として置換されます。まとめると、次のようになります。
「真我=無我」-「真我≠無我」-「平板な世界像」←→「存在」-「無」-「成」
ここで注意が必要なのは、ヘーゲルの論理では「存在」→「無」→「成」となりますが、この順序がそのまま当てはまるかどうかです。インド哲学を(越権と言えるほどに)深く解釈するなら、この順序で論理が進んだと言えるかもしれません。
しかし、ほとんどの普通の人にとっては、最初から「平板な世界像」しか意識されないでしょう。ですから、論理をどこからはじめても良いのですが、これら三対の循環構造が要請されるでしょう。そのとき、一巡したとき、「平板な世界像」は"立体的な世界像"となり、異なった見え方がなされていることでしょう。
PS.
「真我」と「無我」という対立は少し分かりにくいかもしれないので、私がこの問題を論じたときは「有←→無」という二項対立を利用し、「有我」と「無我」の対立として論じました。詳細は、『夢幻典』の『有我論』と『無我論』を見てくださると嬉しいです。
コメントする