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永井均『存在と時間 哲学探究1』における心身交換の思考実験について

 永井均さんの『存在と時間 哲学探究1』を発売時に読み、しばらく時間をおいてからまた改めて読み返してみました。深い哲学的洞察が展開されており、非常に面白いです。

 最初から読み進めていくと、本書の哲学的洞察のほとんどに納得(と感動)できるのですが、第8章の記憶についての記述の箇所で唐突に訳が分からなくなります。その箇所とは、男子中学生の翔太の心身が、同級生の女子中学生の由美と交換されていくという話です。その箇所を抜けると、また納得(と感動)が続くので、この第8章の心身交換の問題が、特に、私にとって理解できなかったということになります。

 

 第8章の心身交換の問題が分からなかった理由として、まず挙げられるのが私の頭があまり良くないという理由です。つまり、この哲学的水準を理解できる段階に達していないので、問題の意味を単に理解できていないという可能性です。この可能性は、極めて高いと思われます。

 一方、可能性は低いとはいえ、永井さんのここでの答えが間違っているということも考えられます。ここの文章を読んでくれている方(いるのでしょうか?)が、なにを無謀な...、と思われることは確実でしょうが、この可能性で以降の記述を行います。つまり、永井さんが第8章に書いている記述は、説明として不十分であり、その答えはおかしいということを指摘したいのです。

 もちろん、その私の指摘が間違っている可能性の方がはるかに高いでしょう。ですから、どなたでも私の指摘がおかしいことを説明してくれたなら、私は自分の見解を喜んで撤回します。ここでの私の目的は、私の理解できることを増やしたいということだからです。だからこそ、理解できない箇所について、どうして理解できないかをここで論述したいのです。理解できないことを、理解できるようになりたいがためにです。

 

 ここでの思考実験のポイントは、翔太と由美は人生の記憶を徐々に交換していくというところです。つまり、一ピースごとに思い出を入れ替えていくわけです。そうしていく内に、だんだんと自分を翔太と思っていた個体(主体)は、自分を由美だと思うようになっていくのです。しかし、永井さんはこの事態がありえないと説くのです。

 長くなりますが、問題の核心なので以下に引用します。注意深く読んでみてください。

 

 最初に提起されている問題は、どの時点で、もとの翔太はもはや「翔太である僕の記憶のある部分が由美のそれに変わってしまった」とは思わずに「由美であるわたしの記憶のある部分にまだ翔太の記憶が残っている」と思うようになるだろうか、という問いである。象徴的に表現するなら、もとの翔太(の時空連続体)は、どの時点で、おのずと由美の家に帰るようになるだろうか、という問いである。

 私の答えは、一ピースごとに思い出が入れ替わっていくことはありえない、そういう想定は(たんに言葉をそう組み合わせることができるというだけで)そもそも不可能な事態の想定である、というものである。想定が不可能とは、実現不可能という以前に、そもそも考えてみることさえできない、という意味である。考えてみることさえできないとは、それが実現したり実現しなかったりできるそのそれがそもそも存在しない、ということである。したがってもちろん、もとの翔太体がもはや「翔太である僕の記憶のある部分が由美のそれに変わってしまった」とは思わなくなって「由美であるわたしの記憶のある部分にまだ翔太の記憶が残っている」と思うようになる時点などは存在しない。

 

 この箇所も、それに続く説明も、私にはまったく理解できませんでした。

 この思考実験の前に、永井さんは、〈私〉が永井均から安倍晋三に(瞬間的に)変わることを不可能だと述べていますが、その論理は納得できます。むきだしの存在の〈私〉を与える「ライプニッツ原理」は超越的であり、世界の内部でその変化を認識できないからです。つまりコミュニケーションを可能とするための超越論的なカント原理によって、つまりは客観的な実在性によって、超越的な認識が越権だとして排除されるからです。ここまでは、その通りだと思います。

 しかし、その問題と心身交換は異なる条件設定であり、同列に論じることはできません。心身交換は、客観的な実在性による操作が入り込むことによって、十分に想定可能だと思われるからです。永井さんの見解を見てみましょう。

 

 思い出す記憶は必ず自分の記憶である。だれのということはない、単に自分の記憶である。自分が体験したことという形をとって現われなければそもそも記憶であるとはいえない。それならどうして、翔太は思い出したその自分の記憶が由美のそれであるとわかるのだろうか。それは彼が由美と知り合いで、彼女の修学旅行中の行動を知っているか少なくとも推定でき、また彼女の交友関係にかんする知識などからも、与えられた記憶の情景が由美の視点からのものであることを推論できるからであろう。それはあくまでも推論であって直観(推論を経ずに直接わかること)ではない。翔太が自分の記憶として思い出した情景は由美の視点から見られた(と推定された)情景であるだけであり、思い出された体験全体の由美的雰囲気もまたそこから推定されて由美的であると考えられたにすぎない。

 

 ここでの説明は、どうも要領をえません。たしかに思い出す記憶は、必ず自分の記憶になります。ですから記憶の入れ替え(具体的に言うと、脳メモリーの書き換えなど)が行われて、ある時期の翔太の記憶内容が由美の記憶内容に書き換えられたなら、その由美の記憶内容を自分の記憶として思い出すことになります。直観として、その記憶を思い出すことになります。そこまではその通りです。

 しかし、その記憶を客観的な実在性によって推論し、その記憶内容を他の記憶と比較して考えることができるのですから、翔太という特性を有した個体が、由美という特性を持つ個体へと変化し、途中から翔太の家ではなく由美の家に帰るようになることは可能なはずです。

 つまり私の見解では、記憶の変更のない「永井」→「安倍」への〈私〉の移動は超越的であり、(超越論的な)客観的な実在性においてありえないというのは正しいと考えます。しかし、記憶の変更(脳メモリーの書き換えなどの操作)によって〈私〉が「翔太」→「由美」へ成ることは、客観的な実在性による推論という強力な武器があるので、十分に可能だ、ということです。

 この「翔太」が「由美」になることが可能だということは、具体的に次のようなことが可能だということです。つまり、その実験の被験者が、〈私〉はあるときまでは「翔太」であったが、だんだんと「由美」の(記憶の)割合が増えていって、あるときからは「由美」の割合が「翔太」の割合より増えたことによって、どちらかというと、自分は「翔太」というより「由美」だと思うようになった、と言えるということです。記憶の置き換えの進展に伴い、翔太と由美の記憶が一つの人格に統合され、翔太という特性を持った個体から、翔太と由美の特性を併せ持った個体になり、最終的に由美という特性の個体になるということです。これは十分に想定可能な事態でしょう。

 ですから、次の言葉は(第9章の記述ですが)間違っていると思われます。

 

 翔太が由美の体になっていくことは可能だが、翔太が由美の心に(すなわち由美の体験を「思い出す」ように)なっていくことは不可能である。哲学は可能性と不可能性の境をこのように引く。

 

 ここで示されている境界線の引き方は、哲学的に間違っていると思われます。翔太が由美の心に(すなわち由美の体験を「思い出す」ように)なっていくことは可能であり、哲学的な思考実験により、客観的な実在性による推論を根拠として、可能でなければならないからです。

 

 さて、ここで可能とされている事態について、もう少し根拠を掘り下げておきます。哲学的というより、科学的な考察になりますが。

 まず、話を分かりやすくするために、心身の交換ではなく記憶の交換に絞って考えます。また、記憶の交換を実験として行う博士を用意し、被験者の翔太はその実験に同意していることにします。由美の存在をどう設定するかは(小説的に)面白い問題ですが、ここでは問題を簡単にするため、事故で植物人間になっているという設定にします。

 実験ではまず、記憶は脳のメモリー領域に蓄えられていますから、翔太と由美の記憶領域をスキャンし、それぞれの日にちごとの記憶内容を把握します。それによって、翔太の十歳の誕生日の記憶領域が分かり、そこを由美の十歳の誕生日の記憶内容に書き換えることができます。ここで、本当に科学的にそんなことが可能なのかという面白い疑問が浮かぶでしょうが、ここではそれを可能な技術だとみなして話を進めます。

 博士は、翔太の十歳の誕生日の記憶だけを、そこの脳メモリーの情報配置だけを書き替えます。その書き替え前には、翔太は十歳の誕生日のことを思い出してと言われると、男友達に祝ってもらったことを思い出します。しかし、書き換え後には、女友達に祝ってもらったことを思い出すことになります。これは十分に想定可能な事態です。

 ここで翔太は、「翔太である僕の記憶のある部分が由美のそれに変わってしまった」と思えることになります。そう思えるのは、客観的な実在性による推論のためです。そう思える根拠を具体的に、思いつくままに3つほど述べてみます。

 まず一つ目は、博士が記憶を書き替えたことを教えるという方法です。書き替え前と書き換え後で、翔太へ質問したことを映像媒体で記録し、それを翔太に見せるという方法などが有効でしょう。

 二つ目として、翔太が誕生日前、誕生日、誕生日後を順番に思い出し、その記憶の連続性がおかしいことに気づくことによって、記憶の変更の可能性に気づくことができるでしょう。この場合は、たとえ博士が悪意ある人物で、勝手に翔太の記憶を書き替えたようなときでも、翔太の気づきがありえることを示唆します。

 三つ目として、「誕生日の記憶そのもの」と「誕生日の記憶を思い出した記憶」の比較が考えられます。この想定は非常に重要だと考えます。つまり、翔太が記憶の書き換え前に誕生日のことを思い出したことは、翔太の脳の別の領域に記憶されているということです。そのため、以前に十歳の誕生日のことを思い出したときは、男友達に祝っていたことを思い出したが、記憶の書き換え後に思い出そうとすると、女友達に祝ってもらったと思い出されるな、と考えることができることになります。

 

 ここまでで、「翔太である僕の記憶のある部分が由美のそれに変わってしまった」と被験者が思えるということが分かっていただけたと思います。そして、引き続き、翔太の記憶を由美の記憶へ書き替えていく実験を続けます。そうすることで、その被験者は徐々に、翔太の特性に由美の特性が混じった人格になっていくことになります。

 ここで例えば、翔太はサッカー好きで、由美はテニス好きだとしましょう。実験で記憶を書き替えていくうちに、被験者は休日にサッカーをするかテニスをするか迷うようになり、やがてテニスをしたいと思うようになるでしょう。そのような時点で被験者は、「由美であるわたしの記憶のある部分にまだ翔太の記憶が残っている」と思うようになるでしょう。

 その時点で、もとの翔太(の時空連続体)が、おのずと由美の家に帰るようになるでしょう。

 

 上記の私の見解で、何かおかしいところがありましたらご指摘いただけると幸いです。

 

 

 

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