ミュンヒハウゼンのトリレンマに関する若干の考察
確実な知識?
何かを話すということは、実はいろいろと大変なことだと思います。
好き勝手に話してばかりいると、他の人から信用できないやつだと思われてしまいます。他人からの信用を失うと、学業や仕事など、日々の生活をしていく上で支障をきたしてしまいます。たまにふざけるくらいは良いとは思いますが、自分の言葉には責任が伴うのです。
そのため、きちんとしたことを話せるようになりたいと思うわけです。要するに、間違っていることではなく、正しいことを話せるようになりたいのです。
しかし、正しいことを話そうと心がけていたとしても、人間は往々にして間違ったことを言ってしまいます。何とか間違ったことを言わずに、正しいことだけを言えるようになりたい、そのようなことを考えた人間は、はるかな昔からたくさんいたのです。その人たちの中には、何とか確実な知識を見つけそれを積み重ねていくことで、正しい知識に到達できると考えていた人もいました。
このような考え方は、「知識の基礎づけ」と呼ばれたりしています。
確実な知識にはまだ到達していないけど、人間が努力を続けていけばやがては確実な知識に到達できるのだ。確実な知識を積み重ねていくことで、人間は本当の意味で正しいことが言えるようになり、人間は真に素晴らしい存在へ到達することができるのだ。人間は日々進化していくのだ。人間は完全な知識の下、神のような存在になるのだ。
でも、それって本当かなぁ?
「知識の基礎づけ」がアポリア(難問)に陥らざるをえないことを示す概念として、「ミュンヒハウゼンのトリレンマ(Münchhausen - Trilemma)」という考え方があります。
ミュンヒハウゼンのトリレンマ
「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」とは、ドイツの哲学者H.アルバートが『批判的理性論考(1976)』で示した概念です。「ミュンヒハウゼン」とは、ドイツ民話でほらを吹く登場人物の名前です。「ほらふき男爵のトリレンマ」と訳されることもあります。
『岩波 哲学・思想辞典』の「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」の項目から、一部を抜粋してみます。
アルバートによるなら、基礎づけを求めると、(1)或るものを基礎づけるものをさらに基礎づけるもの、さらにそれを基礎づけるものを・・・というふうに無限に遡ることになるか、(2)循環的に、(他のものによって)基礎づけられたものを基礎づけに用いることになるか、(3)もはやそれ自身は基礎づけられていないものに依拠することによって独断的に基礎づけを中断してしまうか、のいずれかを選択せざるをえなくなる。
さらに私なりに簡単にまとめると、次のようになりますね。
(1) 無限遡及
(2) 無限循環
(3) 独断的な仮定
このトリレンマの考え方については、古代ギリシャの哲学者アグリッパや、オーストリア生まれのイギリスの哲学者K.ポパーなども問題にしています。
このミュンヒハウゼンのトリレンマについて、少し考えてみようと思います。
トリレンマについての考察
まず、「トリレンマ」とは、三つのうちから一つを選ばなければいけないという三者択一の窮地のことです。ですから、人間は状況に応じて(1)か(2)か(3)を選ばないといけないということになります。ですが、これはおかしなことです。なぜなら、?と?には無限という概念が含まれているからです。無限とは、限りの無いことですから、人間には基本的には選べません。
コンピュータ言語を扱ったことがある人なら分かると思いますが、プログラミングには無限ループ(infinite loop)という概念があります。無限ループとは、プログラムの一連の命令が無限に繰り返されることです。コンピュータ上で無限の動作を実現することは比較的簡単ですが、バグとしてシステムに重大な影響を及ぼすこともあって注意が必要です。プログラムが意図しない無限ループに陥ってしまうと、システムはそこで停止したり暴走したりして、目的の作業ができなくなってしまいます。それを防ぐためには、条件による脱出処理を設けておいたり、例外や割り込み処理を利用したり、タスクの切り替えなどを使用することが重要になるわけです。閑話休題。
人間という生命体は柔軟性が高いため、無限ループに陥ることはまずないわけです。人間は無限の処理を実行し続けることができないため、(1)と(2)ではなく結局は(3)しかないのではないかという疑問が浮かびます。(3)を選ぶとしても、(1)と(3)の組み合わせで考えることと、(2)と(3)の組み合わせで考えることができると思います。
(1)と(3)の組み合わせは、公理系(Axiomatic system)という数学や論理学などに顕著な考え方に導かれます。それ以上の根拠を問わない公理をいくつか決めておき、それらを組み合わせて何らかの結論を得るわけです。
問題は(2)と(3)の組み合わせです。単に循環の輪の中の一つを公理にしてしまえば、循環の輪は途切れてしまいます。それでは、つまらないと思うのです。
ここで参考になるのは、マルティン・ハイデッガーが『存在と時間』で示した、〈決定的に重要なことは、循環のなかから脱けだすことではなく、まともな仕方でそのなかへ入りこむことである〉という考え方です。
このような考え方を理解できる人は、思想の形式を準備しておくことが重要だと分かるはずです。思想の形式とは、取り得るいくつかのパターンをその関係性においてとらえておくその図式のことです。準備したその図式群は、予め自己の思考に組み込んでおくことが必要になります。西部邁さんの『知性の構造』などが参考になると思います。
分かりやすくするために、簡単な例で説明してみます。
右手主義?
例えば、「ものを持つ」ということを考えてみましょう。右利きの人なら、たいてのものを右手で持つでしょう。疲れたら、左手に持ち替えることもあるでしょう。重いものなら両手で持つこともあるでしょう。体の調子や怪我などによって、持つ手を替えることもあるでしょう。
ほとんどの人は、これらの選択を特に意識することなく自然に行っています。右手を使うことと左手を使うこと、これらの関係は、周りの状況や心身の状態によって適切に処理されているのです。これらの調整は、「経験」を積むことで可能になっていくのです。右手を使うことと左手を使うことの循環構造には、状況や状態に応じた図式があるわけです。経験によって、この図式がそれぞれの個人に埋め込まれていくのです。
もし、10kg以下のものは右手で持つと決めている右手主義者がいるとしたらどうでしょうか? この条件がもっと複雑でも多くても構いません。もし右手主義者がいたら、変な人だと思うはずです。
それとは別に、物理法則や一般常識など、予め知っておいた知識で対応した方が良い場合も多々あります。ですから、決めておいた知識を適用すれば良い場合と、状況に応じて使い分けた方が良い場合があるということです。さらに言えば、これらのどちらかを決めるためにも、状況に応じた使い分けの思想が必要になるのです。
つまり、自分の状態や環境などの状況に応じて、異なった選択肢を使い分ける図式群、つまりは思想の形式が必要になるということです。そしてまた、思想の形式における図式群の構築のためには、その要素となる公理や公式も当然ながら必要になるのです。
再びアポリアへ
それでは、確実な思想の形式に到達するにはどうしたら良いのでしょうか? それを厳密に追い求めていくと、我々は再びミュンヒハウゼンのトリレンマなどのアポリアに遭遇することになるのです。
思想の形式は経験によって構築されていくため、歴史や伝統などの不合理な影響を受けてしまいます。そのため、思想の形式を意識的に構築していく場合には、歴史や伝統に対する解釈が必要になってくるのです。
わたしたちがわたしたち自身の思想の確実性を追い求める営為は、不可避的にアポリアへと迷い込んでしまいます。しかし、右手主義がおかしいと思うような者は、アポリアに陥ることを認識しつつも、思想を深めていくしかないのです。
それは、古代から現代まで続く思想史における営みなのです。人類史においていくたびも繰り返される思想の営為、それを愚かと思うか素晴らしいと思うか、それはあなた次第です。
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