スティーブン・ローの『考える力をつける哲学問題集』で哲学する。
スティーブン・ローの『考える力をつける哲学問題集』を読みました。
本書では代表的な哲学の問題が示されています。そのため、手っ取り早く哲学で問題になっていることを知りたい場合には参考になるかもしれません。
ローは、哲学について次のような見解を述べています。
哲学的なトレーニングを積むと、自分だけの力で考えるために必要な技能が手にはいる。そしてほかの人々が自明のこととして考えていることを、疑ってみることができるようになる。勇気をもって、道徳的な見解を主張できるようになる。
確かに、その通りです。それゆえ、本書で哲学することで、ローの議論を疑ってみることもできますし、勇気をもって哲学的な見解および道徳的な見解を主張できるかもしれません。
ローの議論の進め方には、独断と思われる論理があり、うなずけない箇所も多く見られます。
例えば、第8章の「デザイナー・ベビーの誕生」では、〈ナチが優生学を使って、人種的な 純粋性 を追い求めたことについては、どう考えればよいだろうか。これが道徳的に許容できないことは明らかだ〉と語られています。ローは、歴史的経緯から悪と認定しやすいナチという(悪の)権威を利用して、道徳的な判断を導いています。この方法は、哲学的には浅いと言わざるをえません。
なぜなら、ナチが道徳的だと考えて人種的な純粋性を追い求めた結果、それが敵対する軍事力によって挫かれたというのが歴史の事実だからです。ナチを持ち出すローの議論は、「(道徳的な)正義は(軍事力によって)勝つ」という特殊なアメリカ的な価値観を持ち込んでいるだけです。それでは、多くの語るに値する論点が見逃されてしまうのです。
例えば、第一世界大戦後の天文学的なドイツへの賠償請求などが、ナチを生む遠因になったことなどは考えるに値します。単に悪だとして片付けるのではなく、なぜその悪だと思われることが善として遂行されたのか、その考察が必要になってくるはずなのです。
他にも、第11章の「悪さを見抜く色眼鏡」では、〈古代のローマの人々が、自分たちの楽しみのために獣に喰い殺される奴隷を眺めるのは、道徳的に認められると感じていたのは事実だ。しかしその事実があるからといって、このような蛮行が是認されるわけではない〉と語られています。これも、奴隷の否定という現代的価値観を持ち込んでいるだけです。過去には道徳的に許容されていたものが、時代の変化で許されなくなっている。その経緯を丹念に考察していくことが、私には重要だと思われるのです。
つまり、過去には許容されていたものが現在では許容できなくなったという問題に対し、現代的価値観を持ち出すのは哲学的には幼稚なのです。なぜなら、価値観はまた替わってしまう可能性があるからです。許容されるか否かの境界の見極めこそが、哲学や思想と呼ばれる営みにとって重要なのです。
そうでないと思うなら、単にそのときの価値観に、つまりそのときの多数派にくっついて行けばよいだけです。それを下劣な人生だと思うような人間は、思想や哲学という営みに対して真剣にならざるをえないのです。
道徳的な価値はきわめて重要ですし、哲学的にも面白いものです。ローは第11章において、道徳的な価値について誤謬理論を用いて次のように論じています。
誤謬理論ではまず、「善」と「悪」についてのぼくたちの道徳的な概念から考えて、善とか悪という語の特性は、客観的なものでなければならないことを指摘する。しかしぼくたちから独立して「外に」、こうした客観的な特性はないと思われる。だからこうした言葉で語るすべてのことが、そのままで偽りとなってしまう。盗みは悪だというのは偽りである。それが善であるというのも偽りだ。だから、ぼくたちがある行動に道徳的な特性があると考えると、「誤謬」を犯しているのだということになる。道徳的な価値というのは、究極的には幻想だということになる。
しかしこの「誤謬」理論も、うけいれがたい。 究極的には道徳的な価値などというものはない ということになるからだ。ぼくたちはこの謎に、もっとまともな答えを考えだせるだろうか。
ローは道徳的な価値において、哲学的に深い水準で思考できていないように思われます。
ある種の回答を述べてしまうと、ぼくたちから独立して存在している道徳的な価値などありえない、ということなのです。究極的に、つまりぼくたちの「外に」、道徳的な価値などというものはないのです。
そして、ぼくたちの「外に」道徳的な価値がないということは、道徳というものの本質なのです。この考え方は、哲学的に深みのある道徳論の成立条件でもあるのです。
以上のように、ローの意見についてかなり辛辣に述べてきましたが、もちろん参考にすべき意見もあります。例えば、第17章の「ジョディーとメアリーの最大幸福」における権利についての意見などです。
人間には生きる権利をふくめて、道徳的な権利があることは、ぼくも喜んで認めたい。でも、人間の道徳的な権利を侵害すべき状況があることも、明らかだ。一般に権利は尊重すべきものである。しかしいかなる犠牲のもとでも、尊重しなければならないというわけではない。
この意見に賛成できない人は、単に愚かなのだと思います。この意見に内心同意しながら、口では別のことを言う人は、単に卑劣なのだと思います。
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