西部邁の『虚無の構造』で哲学する。

  特にニーチェについて顕著ですが、ニヒリズムをどう考えるかという哲学上の問題があります。『虚無の構造』は、ニヒリズムを論じていますが、その論じ方はかなり独特です。『虚無の構造』におけるニヒリズムの記述を参照し、本書で示されている論理を追っていこうと思います。
 ニヒリズムという概念は、(その用語の起源はそれより古いのですが)一般的にはツルゲーネフの『父と子』などで示された概念です。特に、ニーチェによって、ニーチェ独特の意味でのニヒリズム概念が生まれたとも言えます。
 西部は、以下のようなニヒリズムの考え方を示しています。

 

 ニヒリズムは単なる訪問者ではなかったのであろう。またそれは、どれか特定の現代、たとえばニーチェが目の当たりにした十九世紀後半の現代にのみ特有のものでもなかった。絶えず延びていく時間の線分の最先端に自分は生きているのだと意識してしまう生き物の生に、つまり人間の生に、強かれ弱かれ取り憑いて離れない心的現象、それがニヒリズムというものであるにちがいない。

 

 このニヒリズムは、ツルゲーネフやニーチェのニヒリズムとは異なっているように思われます。好意的に解釈しても、意味の拡張がなされたニヒリズムです。
 つまり、西部はここで、ニヒリズムという用語の意味を、西部自身の判断によって設定してしまっているのです。
 中島義道は『ニーチェ ニヒリズムを生きる』において、〈ニヒリズムは、もっぱら「キリスト教の神が死んだ」すなわち「もともとキリスト教の神はいなかった」という衝撃に起因するはずなのだが、それを非キリスト教徒であるほとんどの日本人が大真面目に「われわれの問題」としてとらえ、しかもそこにほとんど疑いを抱かない〉ことを指摘しています。ニーチェが論じているヨーロッパのニヒリズムは、プラトニズムとキリスト教に起因するヨーロッパにおける特別な現象なのです。
 そのため西部は、ニヒリズムを問題とするために、ニヒリズムに新たな意味を負荷するということを行っているのです。

 

 自意識とは、「自分とは何者か」と問う意識のことであり、仮にひとまずその問いに答えが与えられたとしても、その答えの意味をさらに問うというふうに、自意識は進むからである。この問答の過程は、論理的には無限に続きうる。つまり、自意識の歩みには安住できる終着点のようなものはないのであり、そしてその「不安」がすでにしてニヒリズムの温床なのである。

 

 この新しいニヒリズムには、少なくとも二つの問題点があると思われます。
 一つ目は、「ニヒリズム」という有名な哲学的用語に、勝手な意味を付け加えるという行為についてです。西部の定義は、用語に隠されていた意味をあぶり出すといったものではなく、自分勝手な拡張解釈であるように思えます。まずは、このことの不健全性を指摘できます。
 二つ目は、確かに新たな意味を付け加えていることは否めないが、その意味については検討に値するのではないかという意見についてです。それでは、西部の言うニヒリズムの意味について検討していきます。
 ここで示されているニヒリズムの論理構造は、意外と単純です。自意識の問いにおける無限遡及が、不安となりニヒリズムの温床になるということです。〈自己不信、さらには自己喪失がその人を「ニヒリスト」に仕立てる〉というわけです。
 ここで疑問が浮かびます。例えば私のように、自意識の問いにおける無限遡及を不安とは思わず、むしろ面白いと思うような人物はどうなってしまうのでしょうか?
 もちろん、西部は対策を用意しています。すなわち、〈自分がニヒリストであることを自覚せぬまま、ニヒリズムの諸断片を状況の推移に応じて次々とだらしなく垂れ流している〉という論理構造です。私は、キルケゴールが『死に至る病』で示した「絶望である事を知らない絶望」の論理構造に似ているなと感じました。つまり、私のような人間は、ニヒリストであることを自覚しないニヒリストなのかもしれないわけです。
 さらに西部は、「ニヒリズムの克服」という考え方を提示しています。

 

 自分のニヒリズムを自覚するものは、それに浸ることの愚を察して、めざすべき価値について語るであろう。しかし価値についての語りは、語られゆくにつれ、もはや語ること叶わずの領域へと連れ込まれる。それは自分のニヒリズムを告白するほかない会話の局面である。そこで話者は、自分のめざした価値に確実な根拠はないということ、ただし自分は決意をもって(あるいは宿命の下に)何事かを価値の根拠として選んだ(あるいはその根拠の証人として自分が選ばれた)、というふうに構えるほかない。これもまた自家撞着的な表現法である。それを巧みに自分の生に組み入れる以外に、ニヒリズムを手懐ける方法はないのではないか。社交場の言葉における基本的な音調もまた、「ニヒリズムの克服」と「ニヒリズムの告白」とが交差するところに奏でられるのである。

 

 ニーチェは、能動的ニヒリズムや受動的ニヒリズムについての説明を残していますが、ニヒリズムの克服については語っていません。ですから、ここでの「ニヒリズムの克服」とは、西部の設定したニヒリズムにおける克服のことなのです。
 ニーチェは、ニヒリズムにおいて、消極的ニヒリズムではなく能動的ニヒリズムを肯定しました。そのため、超人という概念が登場します。能動的ニヒリズムは、当然ながら、ニヒリズムです。それに対して西部は、ニヒリズムの克服を言い出しているのです。
 ニヒリズムの克服を可能とするために、『虚無の構造』の終章では、ニヒリズムが克服可能なものになるような意図的な操作がなされています。

 

 世論による意味の(短期的)狭隘化と(長期的)不安定化の過程が際限もなく繰り返されるという大衆社会の推移のなかでは、言葉の意味剥奪が否応もなく生じるのだ。この現象にたいしては「ニヒル(虚無)」の形容を与えるほかなく、そしてその虚無になおも格別の意味を見出そうとする底無しの(虚無に陥ること必定の)企てをさして、「ニヒリズム(虚無主義)」とよぶ。

 

 ここにおいて、言葉の意味剥奪に意味を見いだそうとする行為が、ニヒリズムと呼ばれています。
 まとめます。意識の問いにおける無限遡及が不安となって、言葉の意味剥奪に格別の意味を見いだそうとすること、これがニヒリズムだと定義されているのです。
 著者独自の、かなり独特な考え方だと思われます。
 この意味でのニヒリズムを克服するための方法は、次のように語られています。

 

 ニヒルな心境に不可避的に陥るとわきまえた上で、そのいわば「自意識の罠」にはまることの愚を認識し、かくすることによってニヒリズムという現代における「最も不気味な訪問者」に退散を願うこと、現代人が引き受けなければならないのはそうしたニヒリズムとの接近戦なのだと私は思う。

 

 つまり、意識の問いにおける無限遡及が不安を招くことを認識し、大衆社会における言葉の意味剥奪に退散を願うこと、これが、西部の言う意味での「ニヒリズムの克服」なのです。
 ここには、かなり特異な志向性が埋め込まれているように思えるのです。まず、自意識の罠、つまり、意識の問いにおける無限遡及が不安につながるという思考回路そのものが、プラトニズムやキリスト教の考え方に多大な影響を受けています。さらに、その不安と言葉の意味剥奪を結び付ける手法も、かなり特異な精神作用だと言わざるをえません。
 もちろん、このような精神的経験をする人はいるでしょう。しかし、それは一般化できるものではないように思えるのです。特異な人が抱く特異な問題を、ニヒリズムという用語を乱用して論じているだけにしか思えないのです。
 そして、私が問題とするニヒリズムは、このニヒリズムではなく、やはりニーチェのニヒリズムなのです。ニヒリズムの克服ではなく、ニヒリズムにおいて、能動的ニヒリズムを肯定したニーチェに対し、どう対峙するかが私の関心事なのです。
 ニーチェのニヒリズムに如何に対峙するか、その回答のためには、例えば、日本史上におけるある随筆家の助けなどが必要になります。ただし、それはまた、別の話になります。

 

 

 

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