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『永井均の『悩みのレッスン』で哲学する。』

 

  『悩みのレッスン』という論文は、永井均の『哲学の密かな闘い(ぷねうま舎)』に収録されています。本論文の意見について考えることで、哲学(ごっこ)をしてみようと思います。
「人生」における「悩みのレッスン」において、永井は次のように語っています。

 

 社会には個人を排除する権利があります(代表的なのは死刑)。個人が社会とうまく適合するとは限らないからです。同様に、個人には社会から自分を排除する権利があります(代表的なのは自殺)。社会が自分とうまく適合するとは限らないからです。これは人間社会の不変の原理です。でも死刑と自殺には、気づかれにくい一種の「越権」が含まれています。

 

 ここでの「権利」という言葉の使い方は、あまり日常的に聞く文脈ではないため、違和感を覚えてしまうかもしれません。
 「権利」は、ざっくり言うと、(1)資格上の能力、および、(2)法律上の能力という二つの側面があります。(2)の意味で権利をとらえている場合に、違和感を受けてしまうのかもしれません。(1)の意味も意識しているなら、永井の意見にそれほど違和感を覚えないのかもしれません。武士道などに馴染みがあると、腑に落ちるところがあると思います。
 永井の提示したこの見解は考察に値します。ただし、ここまで言ったのなら、もう少し、哲学的な深化が可能です。すなわち、次の見解です。

 

 個人には社会を排除する権利があります。同様に、社会には個人から自分を排除する権利があります。

 

 私は、この水準の思考で生きてきました。そのために生まれた思想は、ここでは開陳しませんが、私の一部となっています。この観点からの考察は、意外に面白い哲学を生むのですが、ここでは保留にして先へと進みます。
 続けて、永井は次のように語ります。

 

 変な比喩ですが、真っ暗な宇宙の中に一台のテレビだけがついているさまを思い浮かべてください。テレビの番組が社会にあたり、テレビがついていることが生きていることにあたります。どの番組も全然つまらないかもしれません。これから始まる番組が面白いという保証もありません。でも、テレビそのものを消してしまえば、ただ真っ暗闇です。もう一度つけることはもうできないのです。番組の内容とテレビがついているということは、実は別のことです。ですから、「なぜ生きているのか」という問いは、番組の中身を超えた問いなのです。
 番組のつまらなさが、テレビがついていること自体の輝きを上回ってしまう場合もありうるでしょう。それでも、つまらない番組を見ないために、その世界の唯一の光を、無限に時間の中に与えられた唯一の例外的な時を、抹殺してしまってよいでしょうか。それは一種の「越権」ではないでしょうか。
 これが、人が生き続ける理由だと思います。

 

 ここの言説には、思わず頷いてしまいそうになる説得力があります。ですが、ここで一文一文をしっかりと見ていくと、間違い、もしくは嘘が含まれていることが分かります。
 番組の内容とテレビがついているということは、確かに別のことです。この差異を考慮して答えるなら、「なぜ生きているのか」という問いは、番組の中身を超えた、番組の中身における問いだということが分かります。「テレビがついていること」という「番組の内容」における問題なのです。
 永井は「テレビがついていること自体の輝きを上回ってしまう場合」を示しながら、「越権」を提示するという無理のある論理を展開しています。なおかつ、それを、「人が行き続ける理由」だと述べています。
 間違っています。それが「越権」であるのは、「テレビがついていること自体の輝き」を最高位に置いている人物にとってのみなのです。「テレビがついていること自体の輝きを上回ってしまう場合」がありふれていることを知っている人にとっては、それは「越権」ではありえないのです。永井は、ここで永井の言う意味での「哲学」ではなく、永井均の宗教を語ってしまっているのです。
 「テレビがついていること自体の輝き」を「人が生き続ける理由」に結び付けてしまうことは、哲学的に間違っていますし、思想的には幼稚です。「テレビがついていること自体の輝き」は、「人が(現に)生きている理由」ではありますが、「人が生き続ける理由」ではないのです。それゆえ人は、自分が生き続けるために、思想における理由を探し求めるのです。
 永井の言う哲学においては、「人が生き続ける理由」を示すことはできません。それゆえ永井は、ここで、「善なる嘘」を語っているのかもしれません。そうであるなら永井は大人として意見を述べたのであり、私は幼稚にも「邪悪な真理」を語ってしまったことになります。

 

PS. 『なぜ人を殺してはいけないのか?』の永井均の文章より
 私の用語としての「善なる嘘」は、事実に反している(ことは知っている)が、それが事実であるかのように語ることで世の中がよくなるような言説のことである(その逆を「邪悪な真理」という)。

 

 

 

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