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永井均の『哲学の賑やかな呟き』で哲学する

  『哲学の賑やかな呟き』は、永井均がソーシャル・ネットワーキング・サービスの一つである「ミクシィ」に書いたものを集めたものです。その性質上、『マンガは哲学する』や『倫理とは何か』のような洗練されており思考を深めるタイプの作品とは違い、荒削りで多方面への思考の展開が可能な作品だと感じました。個人的には、洗練タイプの方が好きなのですけどね。
 本書の記載で気になった箇所について、哲学してみようと思います。

 

<p.005>
 神秘は(物理的な)人間たちのうちの一人がなぜかこの私であることに尽きる。しかし、この神秘の否定として、もう一つの神秘が付け加わる。それは「神秘は(物理的な)人間たちのうちの一人がなぜかこの私であることに尽きる」という言明が誰にでも妥当すること。つまり、「私の意味の二重性」。

→永井哲学における重要な論点ですね。

 

<p.019>
 カント原理のポイントは、まさにその「錯覚」こそが「現実」を成立させるし、そうならざるをえない、ということです。だから、それは「錯覚」ではなく、それこそが「現実」になるのです。それがカントの偉大な発見で、超越論的観念論が経験的実在論であるということの意味です。私の認定では、これは歴史上存在するすべての哲学的議論の中でダントツの優れたものです。こういうところで「哲学」の醍醐味を味わって欲しいものです。

→そうかもしれませんね。もうちょっとだけ付け加えると、その「錯覚」という「現実」において、日常における錯覚と現実が成り立つわけですね。

 

<p.022>
 私は、はっきりといずれは死んで皆無になりたいと思います。いずれは必ずそうなれるというのが、いわば唯一の確実な救いではないか、と感じます。

→確かに。

 

<p.043~044>
 ものを書いているときは、人の言っていることが理解できなくなる、という法則を発見しました。
 芥川賞等の審査委員がみんな作家であるのはおかしい。作家が批評家を兼ねることは不可能です。いろいろな理由づけが考えられますが、根本は、たぶん、愛の配分の問題でしょう。

→どういうことだろう? 良く分かりませんでした。

 

<p.084>
 道徳規範は、ひょっとすると、言葉に比されるべきものではないだろうか。道徳は、大昔から、少しも進歩していないのではないだろうか。
 こう言えば、昔は奴隷制が存在し、人身御供が平気で行われていたのに、今はそんなものはなくなったではないか、これは大変な進歩ではないか、と反問されるかもしれない。しかし、それは実は、言葉の意味が変わったことに比されるべきことではないだろうか。「情けは人のためならず」を新しい意味で使っている人が、昔の意味を間違っていると思うようなものではないだろうか。

→ここで述べておきたいことは二つあります。
 一つ目は、この視点に立つというだけで、論者の哲学的レベルが高いことを意味するということです。例えば、少し前にスティーブン・ローの『考える力をつける哲学問題集』を読んだのですが、そこには「古代のローマの人々が、自分たちの楽しみのために獣に喰い殺される奴隷を眺めるのは、道徳的に認められると感じていたのは事実だ。しかしその事実があるからといって、このような蛮行が是認されるわけではない」と安易に述べてしまっていました。哲学書なのに、権威主義的な結論を持ち込むのはやめてほしいですよね。
 二つ目は、永井の意見は一つの視点として成り立つということです。ですから、別の視点においては、道徳の進歩をそれなりの整合的で示すことも可能なはずです。そして、この両視点は、共に、成り立つと思うのです。この視点の複数性を自身の内部に構築するということは、けっこう大切なことだと思います。別に哲学者でなくとも。

 

<p.087>
 簡単に結論だけ言えば、「私」という語(客観的な第一人称)がいかにして可能かという問いの答えこそが、言語そのものの可能性の条件の答えなのだ、という考えです。これは天地がひっくり返るようなトンデモない考え方で、自分でもついていけません。

→!!
 (えっ? ビックリマークが足りないって? そうかも)

 

<p.121>
 勝利が決定的になったとき、負けた側に対する共感が自分の内部から新たに湧き上がり、この勝利の上に胡座をかいたすべてに嫌悪感を感じることは、たぶん、決定的な勝利のしるしだといえるだろう。

→この洞察は深いです。少なくとも、一側面における真実だと思います。

 

<p.157>
 リアリティとは、結局、脈絡(つながり)のことのようです。

→そうだと思いますが、そうすると、少なくとも〈今〉にちょっと前の過去を含めざるをえず、〈今〉が消滅する(ように感じられる)のではないかという疑問が浮かびます。ちょっと前の過去を含めるというより、〈今〉を点ではなく線でとらえざるをえない、と言った方が適切かな。〈私〉についても、点ではなく線となり、記憶という要素は〈今〉を点ではなく線だと想定せざるをえず、〈今〉も〈私〉も消滅する(ように感じられる)?
 例えば、「この痛み」は線であり、線の点化により、「この痛み」は消滅するのではないか、ということです。
 そうだとすると、〈私〉とは脈絡(つながり)が見せる錯覚のこと? さらに、〈私〉という言葉で指し示される意味も、脈絡(つながり)が見せてしまう錯覚のこと?
 などと、まとまっていない考えをつらつらと書いてしまいました。間違っていたら修正します・・・。

 

<p.166>
 いま直接読んでいるものでいえば、デカルトの『省察』とカントの『純粋理性批判』。この二つは、なぜか現在の私にとって依然として「純哲学」でありつづけている。
 とりわけ不思議なのは『省察』。第四省察も含めて、あの前後の神をめぐる議論は、字面の上ではまったく馬鹿げているとしか思えない(読んでいて何度も「こいつなんて馬鹿なんだろう!」と思う)。にもかかわらず、そうした字面の馬鹿馬鹿しさを超えて、私が知っているある問題について私が知らない何かをこいつが知っていることは間違いない、とも感じるのだ。

→分かります(笑)。『省察』や『純粋理性批判』がではなく、この感覚がという意味で。

 

<p.273~274>
 その他もろもろ、人は意外なほど自分の好みを相対化する能力がないように思う。

 ところで私は、この能力がかなりあるのではないか、と感じることがよくある。
 それだけなら、公正で客観的な見地に立てるという立派なことだともいえるが、実は、時としてこの能力がありすぎて(?)自分の本来の好みとか意見とかが分からなくなることがある。

→ここには、哲学的に極めて重要な論点がありますが、日常生活的にはむしろ有害な可能性があります。確かに、永井レベルでの公正さを持ち得ている人は、(人類史レベルで見たとしても)ほとんど存在しないと思います。
 面白いのは、一般的に公正観念が強い人が注意深くみると、永井レベルの公正さは、むしろ公正ではないように見えてしまう可能性があるということです。ここのカラクリは、丹念に考えていけば、ある程度整合的に論じられる気がします。善悪と真偽における相違性などの観点からですね。

 

<p.275>
 理由を考えると、私はもしかすると自分を危険視していて、バランスを求めないと危険だと思っているのかもしれない。その辺は自分だから、わからない。

→永井が実はどうだ、というのは分かりません。しかし、私自身は自分を危険視していて、バランスを求めないと危険だと思っていました。今も思っています。

 

<p.311>
 一般に教祖は信者の一人ですが最も信心深くない信者ですから。ちなみに哲学者の場合も同じ。プラトンはもちろんプラトニストですが、他のプラトニストたちに比べるとプラトニズムが半ばインチキであることも知っている。

→お見事!

 

<p.327~328>
 簡単にいえば、生を実存(存在)と捉えるか本質(意味)と捉えるかの違いである。早すぎたり苦痛を伴ったりすること以外に(以上に)、やるべきことをまだやり終わってないという理由で死を嫌がるのもまた、死を本質(意味)として捉えている人である。そういう人は、もし生がマイナスの意味で満たされたなら、死にたくなる(少なくとも死んでも全然かまわないと思う)であろう。
 私は長らく実存(存在)派だったが、最近になって本質(意味)派の感覚がつかめるようになった。しかし、私の実感ではそれはやはりくだらない感覚である。
 だが、・・・・・・途中の議論は省略するが・・・・・・、私は長いこと、生を実存(存在)として捉える人が死そのものを端的に恐れるのだと考えていた。最近になってまた、生を実存(存在)として捉えるがゆえに死そのものを端的に望むこともありうることにも気づいた。私の実感ではこれはそんなにくだらなくもない。

→私は本質(意味)派だが、生を実存(存在)として捉える人が死そのものを端的に恐れることについては、私の実感ではそれはやはりくだらない感覚である。
 だが、実存(存在)派が、死そのものを端的に望むこともありうることについては、私の実感ではこれはそんなにくだらなくもない。
 そして、本質(意味)派が、実存(存在)の要素を含めて死そのものを端的に望むこともありうることについては、私の実感ではこれはくだらなくない。

 

<p.329>
 私はむしろ、いかなる刑罰でもない死刑(というのは矛盾した表現になりますが)があったらよいと思います。つまり、殺してもらいたい人が犯罪なんか犯さなくても安全で確実に殺してもらえる制度的保証が。

→この議論に続き、永井は「私の二つの前提」として、1・2・3の文章を示しています。おそらく、1と2が前提で、3はその前提の実例だと思います。間違っていたら修正します。
 で、ここでは一つ目の前提、すなわち「自殺権は最も重要な人間の権利の一つであり、常に守られねばならない」について。この前提については、何てくだらないことを言うのだろうと思ってしまいます。通常考えられるような生命尊重主義とはまったく相容れない立場において。
 私などからすると、個人的な欲求をかなえてほしいという願望を社会的に保証してもらおうとする考え方が馬鹿げているように思えてしまうからです。社会は、社会そのものの都合によって、個人を殺したり生かしておいたり延命させようとしたりするに決まっているからです。
 哲学ではなく社会学的に考えると、「安全で確実に殺してもらえる制度的保証」を社会的に実現しようとした場合、その実現のための条件として可能性が高いのが、年齢や病気による制限だと思います。例えば60歳以上および重病者に限るなど。
 ちなみに、二つ目の前提は、単にその通りなのであり、パラドックスではないと思います。

 

<p.330>
 誰かが何かを言うと、人々はよく、その事柄そのものについての「自分の意見」を述べる。これは世の中ではあたりまえのことのようだ。長年哲学をやっていてついた癖の一つに、このことに対する嫌悪がある。意見(opinion)ではなく論脈に即した議論(argument)を語ってくれないと、と思うのは我々の職業病なのかな。

→なるほどねぇ。参考になります。

 

<p.348>
 その意味で、哲学においては、物事を相対的に見ることができない者に「勝ち目」はないといえるでしょうね。
 そういう意味では相対性(複眼性)がどこまでも必要とされる仕事のようです。という意味で、「永遠に客観性には辿り着けない」というのは、その通りなのではないでしょうか。

→その通りだと思います。

 

 

 

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