≪読書感想文≫ 佐伯啓思『経済成長主義への決別』
今回は、京都大学名誉教授・佐伯啓思さんの『経済成長主義への決別』(新潮選書)を批判的に検討していきます。
本書の立ち位置
本書は題名が『経済成長主義への決別』となっていることからも明らかなように、経済成長を追い求めることに否定的なスタンスです。序章では、次のように論じられています。
私は、「脱・成長主義」というものを論じてみたい。それは、第一に、今日、われわれはもはや経済成長を生み出せる状況ではなくなりつつある、と考えるからであり、第二に、それにもかかわらず経済成長を第一義的な価値とする「成長主義」は、われわれにとって、もはや幸福を約束するものではないと考えるからである。
ここで語られている内容は、本書で何度も強調されています。第7章では、〈今日の経済は、成長の追求が困難であるだけではなく、成長追求は必ずしも望ましいことではない〉と語られています。終章においては、〈日本はほぼゼロ成長の状態にあると考えている〉と述べられています。つまり、日本はほぼゼロ成長の状態であり、経済成長は無理なので、経済主義的な考え方を戒めているわけです。
脱・成長主義について
序章では著者の立場について、脱・成長主義だと主張されています。
私は、本書を「脱成長主義」という立場で書いている。繰り返すが、私は必ずしも経済成長をやめろといっているわけではない。経済成長を至上の価値とすることをやめようといっているだけである。「脱成長」ではなく、あくまで思想や価値の次元の問題を論じているのであって、だから「脱・成長主義」なのだ。
ここの記述は、そのまま読めば健全なものでしょう。確かに、経済成長を至上の価値とすることは不健全だからです。しかし、今の日本に経済成長を至上の価値としている人など、どれほどいるのでしょうか?
そんな人はほとんどいないでしょう。いたとしても、ごく少数の異端者でしかないでしょう。日本が経済成長できると主張している人たちのほとんどは、日本人の豊かさ・生活の質・幸福などのために経済成長が必要だと主張しているのであって、経済成長そのものを至上の価値としているわけではないからです。
正直なところ、ここの著者の記述には違和感を覚えました。経済成長できるという論者に非難されたとき、言い逃れできるようにしているだけだと感じられてしまうからです。あくまで経済成長を、至上の価値としている者を批判しているだけだと。
しかし、はっきりさせておきますが、日本人で経済成長を至上の価値としている人など、ほとんどいません。また、今後も多数派になることなどありえないでしょう。ですから、本書の内容を生産的に論じるなら、現在の日本は成長できるか否かというポイントに焦点を当てることが必要になります。
実際に著者は、第5章で成長主義を次のように定義しています。
ここで「成長主義」というのは、「GDPのような指標で計測された市場化されるモノ・サーヴィスを年々増大することこそが、様々な問題を解決し、われわれを幸せにする」という観念である。いや、端的にイデオロギーといっておこう。
こういった意味にとらえれば、成長主義者の日本人はかなり多いと思われます。ですから本書では、この意味での成長主義と、著者の立場である脱成長主義を比べて考えていくべきだと考えます。なにより著者が、〈成長しなければ問題が解決できず、成長こそがわれわれに幸福をもたらす、という「成長主義の思考」から脱すべきだ〉と言っているのですから。
現代日本は経済成長できないのか?
まず、本当に現在の日本は経済成長できないのでしょうか?
本書の著者は成長できないと考えているようです。もちろん、日本は経済成長できるという論者もたくさんいます。そういった意見について、序章では次のように語られています。
問題はむしろ、さして根拠もない推測や予測に基づいて日本経済はもっと成長できるだの、3%成長を目指すべきだ、などという無責任な言説があまりに多すぎる点にこそある。そうした成長待望論者に限って、脱成長という悲観論などケシカラン、という。
これは驚くべき見解です。経済成長できるというのは、無責任な言説だというのです。では、著者はなぜそのように考えているのでしょうか?
ここでは、いわゆるアベノミクスの内容と成果をどう見ているかによって、見解が分かれるところです。例えば、序章では三本の矢について次のような意見が展開されています。
過度な金融緩和は、ますます浮動する資本を増長させ、金融市場の投資家に甘いえさをばらまくことになる。他方、財政政策は財政赤字を生み出し、過剰に国債を発行すれば、それはまた投資家に狙われる。あるいは、新自由主義者にそそのかされて緊縮財政や競争促進政策をとれば、いっそうの景気の悪化や労働賃金の低下を招きかねない。どれもが手詰まりになる。政府が取りうる政策手段は限られているのだ。
また、第5章では次のように論じられています。
「何でもあり」の結果がこの状態であれば、先行き不安になるのも致し方ない。長短金利をマイナスにする金利政策まで導入した異次元の金融緩和や、100兆円まで膨れ上がる機動的財政出動の結果がこれだというのである。こうなるとアベノミクスは失敗だと断じたくなるのももっともであろう。しかし、それでは他にいかなる代替案があるのかというと、何もでてはこない。アベノミクスは「やれることは何でもやっている」からである。
これに対し、経済成長できるという現実的な論者(三橋貴明さんや藤井聡さんなど)の見解には、アベノミクス第二の矢である財政出動が足りていないという指摘があります。この指摘は実際のデータ(安倍政権による14年度からの消費税増税や政府支出削減といった緊縮財政)に基づいて展開されているので、私は経済成長できるという意見の方に説得力を感じます。とすれば当然ながら、無責任な言説はむしろ本書の著者の方ではないかと感じられてしまうのです。
江戸時代の認識について
第4章では、江戸時代について言及があります。
江戸時代の日本はおおよそ350年にわたって大きな変化もなく経過した。だが「文明化」されたわれわれには、こうしたことは耐えがたく感じられる。同じことの繰り返しである「静止状態」をわれわれはほとんど犯罪的なものであるかのようにみなしているが、どうしてそれではダメなのであろうか。
ここの考え方もおかしいと感じられます。江戸時代は、決して静止状態の社会ではありませんでした。ゆるやかに経済成長をしていましたし、貨幣経済が浸透していきましたし、人口も増えていきました。そのため為政者は、経済政策に頭を悩ませていました。経世家と呼ばれる参照すべき江戸時代の思想家も、数多く挙げることができます。
このように、著者の脱成長主義を補強する議論は、かなり甘いというよりも、そもそも事実に反しているように思われるのです。他の例を挙げると、終章での住み心地満足度についての見解があります。
実際、無残な姿をさらけ出している街もかなりある。しかし、住民の住み心地満足度調査などでは、富山、石川、福井、それに鳥取、島根などがかなり上位に入ってくるのである。
このデータなど、あきらかに北陸新幹線による経済の活性化が影響していると思われます。そして、経済成長やGDPの要素が影響しているのかもしれないのですから、そういった要素をしっかりと具体的に考えていくべきでしょう。
無責任なのは誰か
終章において、著者は次のように述べています。
私は、今日、先進国では、ある程度の経済成長ももはや無理だと思っている。日本はほぼゼロ成長の状態にあると考えている。程度問題ではあるが、これに対して、たいていのエコノミストやジャーナリストさらには経済人も、適切な政策をとれば経済成長は可能である、という。さらには、一歩前進して、何が何でも成長しなければならないのだ、ともいわれる。
そのことを私はあまり争う気はない。いずれ、これは将来予想にかかわることで、実際には誰も将来のことなどわかりはしない。
ここの論述を読んで、私は気が抜けてしまいました。〈争う気はない〉ということは、おそらく日本の経済成長の可否について、反対論者とは議論しないということでしょう。そのようなことを言ってしまう者の意見など、まずもって疑ってかかるべきだというのが、私の意見です。
確かに、〈実際には誰も将来のことなどわかりはしない〉でしょうが、だからこそ議論をすべきで、将来のことが分からないから争う気はないというのは、筋が通りません。だいたい、成長できるという見解に対し、序章で〈無責任な言説〉だと言っておきながら、終章で〈争う気はない〉と言うのでは、無責任だとの誹りを免れはしないでしょう。
考え方について
本書の最後で著者は、〈私が意図したことは、あくまで「脱成長主義」という「考え方」を提起することであった〉と述べています。なぜ、わざわざ「考え方」だと主張する必要があるのかと言うと、脱成長主義についての具体案を求められてしまうからです。著者は、次のように述べています。
「脱成長はどうすれば可能なのか、どういう政策があるのか」と問われても、私には別に具体的な提案があるわけではない。それは本書の関心の外である、と逃げるほかない。しかし、「具体案がなければ、脱成長など無意味だ」といわれるとすればそれは心外である。私が、ここで長々と論じてきたこととは、せんじ詰めれば、まさにこの種の「考え方」を批判することだったからである。
「考え方」には、いろいろな「考え方」がありえます。具体的な提案の無い「考え方」もあれば、具体的な提案のある「考え方」もあるでしょう。もちろん提案の具体性については、有益か、無益か、有害か、などの区別や、その度合や割合を考えていく必要があるでしょう。
私としては、具体的な提案のない「考え方」は、考え方の中でも程度が低いと考えています。なぜなら、具体的な提案がなければ、検討や議論が成り立たないからです。
少なくとも、「ゼロ成長」を論じるに当たっては、国際比較や格差拡大の問題について、何らかの提案が必要だと思われます。
私の立ち位置について
さて、興味のある方はあまりおられないと思いますが、最後に私の立ち位置を述べておきます。
私は、著者の言う意味での「成長主義者」でも「脱成長主義者」でもありません。経済については、それが私たちの生活に深く関わるものであるため、職業や生活状況などに応じて、それなりに適切に考えておくべきだという見解です。経済成長については、大雑把に(1)プラス成長、(2)ゼロ成長、(3)マイナス成長という概念があり、それぞれについて国民生活に関わる影響を考慮すべきだと考えています。特に、プラス成長については、高成長や低成長という場合分けが必要ですし、何%の成長かといった観点から、細かいところまで考えていくことが求められるでしょう。
その上で、理論面および実践面から、有益な見解に与するべきだという当たり前の立場です。ですから、経済成長を至上の価値としてはいませんし、一定の成長が不可欠だとも見なしていません。もっとも説得力のある見解に与するだけです。より説得力のある見解が提示されれば、そちらへ鞍替えします。
そして、本書の見解には与することができませんでした。もちろん、ゼロ成長でも国民の生活が充実するという説得的な理論が今後示されるなら、脱成長主義に賛成することもあり得るでしょう。しかし、残念ながらその可能性は低いように思われるのです。
PS.
次回の『経済成長についてどう考えればよいのか ―佐伯啓思と藤井聡の考え方を参考にして―』も、合わせて参照していただけるとありがたいです。
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