経済成長についてどう考えればよいのか ―佐伯啓思と藤井聡の考え方を参考にして―
『表現者73』の特集は、「テクノマネーマニアックの時代に ―反乱は可能か」と題され、座談会が開かれています。また、特集原稿として10名の原稿が寄稿されています。その中で、佐伯啓思さんの『貨幣の独裁』と藤井聡さんの『反・反成長論 ~反成長運動が日本にもたらす悪夢~』が目をひきました。
『貨幣の独裁』
まずは、佐伯さんの原稿から紹介します。この原稿では、経済成長を求めることに疑義が呈されています。
われわれは、科学技術の無限の進歩と、やはりまた無限の経済成長を求めているのだが、「何のために」と問えば、まったくそこには答えはないからである。つまり、科学技術のイノベーションと貨幣で測定した経済成長が、それ自体として追及されており、そのことを意味づける「価値」はどこにもないからである。だからこそ、技術のイノベーションと経済成長の追求それ自体があたかも絶対的な価値であるかのように見えてしまうのであって、逆にいえば、それに対する歯止めはまったくどこからもでてこないのだ。
このように、経済成長という現象を考える上で、否定的な視点に立っているのが佐伯さんです。特に、保守主義という立場から経済成長主義に批判的なのです。
保守は、何よりもまず、技術的なイノベーションと貨幣による経済成長主義に対する批判に堡塁をかまえなければならないはずである。
この見解に反する考えを示しているのが、次にみる藤井さんの原稿です。
『反・反成長論』
藤井さんの原稿では、反成長論についての反論がなされています。
そして今、反成長論や反成長運動は、良き影響のみならず、巨大な悪しき影響をもたらす深刻な危険性を秘めている。にもかかわらずその点に思いを馳せずに、反成長論を振り回し、反成長運動を拡大し続ければ、我が国日本に対して、そして私たちの子々孫々に対して愚か極まりない悪夢の帰結をもたらすことは必定な状況に今、日本はおかれている。
その根拠がいくつか展開されています。私なりに要点をまとめますと、〈世界各国は「成長」を放棄などしない〉ので、日本だけ経済成長を止める〈「ゼロ成長」は「貧困化」を意味〉することになります。つまり、〈我が国一国が、「相対的に貧困化」していく〉ことになるわけです。また、〈このままの状況を放置しておけば、日本人が必要なものを日本人がつくれない状況になっていく〉ことも指摘されています。これらは、もっともな見解だと思われます。
多くの反成長論、あるいは反成長運動は、世界中が成長しているという現実を無視している。だから反成長論者はみな基本的に、昨日までの暮らしを今日も明日も続けられるという淡い期待を前提に、反成長論を唱えている。しかし、それは単なる「幻想」であり「勘違い」に過ぎない。
この指摘は傾聴に値します。
藤井さんは、〈衣食足りて礼節を知るという構図が厳然として存在する以上、品位ある政治、社会、文化を築き上げ、展開していくためにも、一定の成長論は不可欠なのである〉という立場なのです。
二つの考え方について
さて、佐伯さんと藤井さんの二つの原稿を参照し、経済成長に対する考え方の違いをみてきました。藤井さんの原稿はかなり具体的ですが、佐伯さんの原稿は抽象度が高いため、近著の『経済成長主義への決別』を合わせて読むと、より考え方の違いが分かりやすくなるでしょう。例えばこの本の第5章では、次のように成長主義がやり玉に挙がっています。
ここで「成長主義」というのは、「GDPのような指標で計測された市場化されるモノ・サーヴィスを年々増大することこそが、様々な問題を解決し、われわれを幸せにする」という観念である。いや、端的にイデオロギーといっておこう。
佐伯さんの立場は、厳密には「脱・成長主義」というものなのですが、その内容をみてみると、藤井さんの「反・反成長論」の批判が当てはまるものになっています。
ただし、この二名は自説と異なる意見を否定的に論じていますが、具体的な人名は出していません。もちろん、否定している論者が複数なので、あえて特定の人物に絞って論じているわけではないだけなのかもしれません。
ですが、この二名の主張を読めば、相容れないものであり、互いへの考え方への批判になっていると見なせると、私には思えます。
そして、その上で、どちらの考え方がより正しいかと言えば、私は藤井さんの方に軍配を上げます。
意見の正しさについて
ここで、少し脱線した話をしてみます。興味のない方は、ここまでで本論稿の主なポイントは終わっているので、読み終わっていただいて構いません。
さて、あくまで私の個人的な体験のせいなのですが、私は人格的には佐伯さんを尊敬していますし、藤井さんを尊敬していません。ですから、人物的な好悪の感情がないと言えば嘘になります。しかし、そういった好悪と、経済成長などを巡る意見の正しさは別物です。
もちろん、人物の好悪の感情によって、どの主張に賛成するかを決めてしまったり、影響を受けてしまったりする人はかなり多いでしょう。しかし、私は、好悪の感情とは別に、意見の正しさはきちんと評価したいと思っています。そうすることが、本当の正しさだと言っているわけではありません。ただ、私が勝手にそうしたいと思っているだけです。
ですから、他人に対して勧めたり、押し付けたりすることもありません。ただ、私は、好悪の感情とは別に、意見を公平に評価できる人を好む傾向があります。このように、感情と意見は、複雑に絡み合うものなのです。なんてね。
私の考えについて
さて、興味のある方はあまりおられないと思いますが、最後に私の考えも少し述べておきます。
佐伯さんと藤井さんの考え方では、後者へ軍配を上げましたが、必ずしもすべての意見に同意しているわけではありません。そういった意味で私は、「成長主義者」でも「脱成長主義者」でもありません。
特に、私は〈一定の成長論は不可欠〉とは考えていません。ゼロ成長や、マイナス成長ですら、有益で説得的な理論が示されれば賛成するつもりだからです。
現時点ではあくまで仮説ですが、経済のサイクルを考えたとき、プラス成長のみよりも、ゼロ成長やマイナス成長がどこかで組み込まれていた方が良い可能性はありえると考えています。なぜなら、平和や豊かさが心を蝕むといった、人間の心理に関する問題があるからです。
他にも、戦争や災害などの緊急事態を想定するなら、突飛なアイディアが打開策につながることもありえるので、的外れな見解も排除せずに想定しておく必要があるでしょう。平時における安定的な経済成長を考える上でも、毎年同じくらいの成長率で良いのか、周期的な成長の方が好ましいのかといったことが考えられるでしょう(直線か正弦曲線か)。
好ましい政策は環境および状況に依存するため、多様な可能性を想定し、むやみに排除しないことが大切だと思われます。その上で、限られた時間のなかで、何とかより良くなると思える方針を選択し、足掻いて行くしかないのでしょう。
PS.
前回の『≪読書感想文≫ 佐伯啓思『経済成長主義への決別』』も、合わせて参照していただけるとありがたいです。
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