『ハイエク批判の地平(前編) ―適切と最小―』

 新自由主義と呼ばれるイデオロギーが行き着くところまで進んだとき、市場経済は大惨事に見舞われました。
 会社員である私の周りでも、その影響は無視できない規模で拡大していきました。
ごくごく私的な面から言うと、私にとって新自由主義崩壊による金融危機は、残業などが減って人間らしい生活を過ごせるようになったという点でありがたく思えました。ですが、外注さんなどを含めた仲間たちの悲惨な状況をかんがみるに、公的にはこの悲劇を思想的に総括しておくべきでしょう。
 新自由主義の崩壊後において、特に気になるのは保守派にみられる「フリードマンは悪いけどハイエクは悪くない」という意見です。『蟹工船』ブームなど、マルクスの亡霊が復活したことへの対抗軸として、ハイエクが見直されているのでしょう。
 確かにマルクス主義は、ハイエクの批判で理論的に論破されています。格差社会という現実における対応という点では共産党に見るものがありましたが、今さらマルクス主義を持ち出してもどうしようもありません。先が無い状況で無理に突き進めば、破壊をともなう破滅が待っているだけでしょう。
 それとは別に、「フリードマンは悪いけどハイエクは悪くない」という意見についてはよく考えてみる必要があります。確かに、ミルトン・フリードマンとF・A・ハイエクの考え方には無視できない相違があります。
 ですが、私の見解ではフリードマンの提案が受け入れられないのは当然として、ハイエクの提案も受け入れられません。フリードマンとの相違にかかわらず、ハイエクの思想を拒絶することが後々重要になってくると思われるのです。フリードマンは悪いけど、ハイエクは悪くないという議論は間違っていると思うのです。ハイエクのマルクス主義批判が正しいからといって、代わりに提示されているハイエクの提案が正しいとは限りません。
 そこで、まずはハイエクの理論を見ていきましょう。
 ハイエクは新自由主義の理論的支柱と見なされていますが、本人の著作を読む限りでは(古典的な)自由主義者です。
 ハイエクは、「自由を定義して抑制と拘束がないこと(『自由の条件』)」と述べています。これが、ハイエクの自由の意味になります。
 しかし、抑制や拘束をすべて無くしてしまうことなど不可能です。そのことはハイエクも十分に認識していて、「自由主義は、もし全員ができるだけ自由であるべきだとすれば、強制力は全廃できず、個人や集団が他人に対して恣意的に強制力を揮うのを妨げるのに必要な最小限にそれを削減できるだけにすぎない(『自由主義』)」と述べています。
 そのため、「社会において、一部の人が他の一部の人によって強制されることができるかぎり少ない人間の状態(『自由の条件』)」が「自由(libertyあるいはfreedom)の状態(『同上』)」となり、「自由のための政策課題は強制あるいはその有害な影響を最小にすること(『同上』)」になります。よって自由主義に対し、「事象の秩序づけに際し、社会の自発的な力をできるだけ多く利用し、強制に訴えることをできるだけ少なくするという基本原理(『隷従への道』)」が掲げられます。
 ここでの自由は、「われわれは自由が単にある特定の価値であるばかりでなく、大部分の道徳的価値の源泉であり、条件である(『自由の条件』)」と位置づけられています。
 以上のような意見を読むと、儒教における中庸の思想に馴染んだ日本人なら違和感を覚えることでしょう。強制を「適切」にするのではなく、「最小」にするということは中庸を外れています。中庸から外れている概念が、「価値の源泉」であるわけがありません。
 なぜ、強制を「最小」にするという考え方が不適切なのでしょうか。それは、短期的には余計に思われるが長期的には有効に働くような強制に対し、「適切」では残したり限定的に停止したりするのに対し、「最小」では排除する傾向があるからです。
 強制を「最小」にするという考え方は、「希望は性質上「進歩的」である人びとを説得し指示を得ること(『同上』)」とする楽観的で単純な世界観を持つからこそ出てくるものなのです。そのためハイエクは、「そのようなルールがなぜ発達する傾向があるかというと、より有効な行為秩序をもたらすルールをたまたま取り入れた集団が有効性の劣る秩序をもつ他の集団より優位に立つ傾向がある(『法と立法と自由』)」と不用意に言ってしまうのです。
 短期的には有効に思われても、長期的には有害に働く可能性が高いのが自由という概念の怖いところなのです。それに反し、短期的には有効性の劣る秩序が、長期的には安定化をもたらすということも大いにありえる話なのです。期間をどのくらいに設定するか、どのような状況を想定するかによって評価は変化します。
 例えば、経済的効率性と社会的安全性はトレードオフの関係にあるため、「適切」では両者の間でバランスを取りますが、「最小」では効率性を追求して安全がおろそかになるといった事態を招きます。ハイエクの世界観には、様々な因子のトレードオフがまともに考慮されていないのではないでしょうか。
 ある状況Aでは、強制aを強め強制bを弱める政策が良く、別の状況Bでは強制aを弱め強制bを強める政策が良いという場合があるのです。この二つの状況A→Bと経過した後、「適切」では強制aが弱く強制bが強いという状態ですが、「最小」では強制aと強制bがともに弱められた状態になってしまっています。「最小」では、段階ごとに強制が削られていきます。まともに考えれば、強制を「最小」にするという自由主義はうまくいかないと思われます。しかし、ハイエクは「自由の究極の目的は人間がその祖先に優越する能力の拡大(『自由の条件』)」を唱えるのです。強制を「最小」にすると、能力が拡大するという単純な世界観です。私には、とても同意できないのですが、「人間が現在の自分を超えるところに到達し、新しいものがあらわれ、そして評価を将来に待つというところにおいて、自由は究極的にその真価をあらわす(『同上』)」とも言っています。あまりに安易な進歩史観です。
 ハイエクは『ケイト財団政策リポート 第五巻二号』において、フリードマンの実証経済学について、完全な知識があるという前提に基づいていると批判しています。ハイエクは、自身の自由主義は完全な知識があるという前提には基づいていないと思っているのでしょうが、私にはハイエクの考えも完全な知識があるという前提に基づいていると思われます。
 ハイエクの自由主義では、状況をくぐり抜けて行くたびに強制が最小化されていくので、「自由主義的立場の真髄はすべての特権の否定(『隷従への道』)」と言うに至ります。ハイエクは、すべての特権の否定が正しいという完全な知識をどこから入手したのでしょうか。
 私は、我たちには完全な知識がないからこそ、特権が有害に働くだけではなく、社会の安定化にとって有効に働くこともあると考えます。ですから、すべての特権を否定してはならないのです。
 またハイエクにとって、「道徳の名に値するのは、個人的目的に従った個人的決定において考慮さるべき、一般的で抽象的なルールだけ(『致命的な思いあがり』)」なのだそうです。私にとって道徳とは、一般的で抽象的なルールと、個別的で具体的なルールの間において見いだされるものです。
 私は、我たちには完全な知識がないからこそ、一般的で抽象的なルールが完全になることはなく、個別的で具体的なルールで掣肘する必要があると思うのです。
 完全な知識を持つことができないからこそ、強制を「最小」にすることが進歩につながるなどと言うことはできないのです。私が強制を「適切」にすることを主張するのは、「適切」にしたら社会が進歩すると言っているのではありません。そうではなく、強制を「適切」にすることは、社会を安定化させる可能性があるということを言いたいだけです。強制の「最大」も「最小」も社会を不安定化させます。諸々の強制の強弱を調整し、「適切」を試行錯誤するしかないのです。そこまでしても、うまく行く保証はなく、悪くなるかもしれないのです。ただ、「最大」や「最小」に比較して「適切」を目指すことは、安定化の可能性がいくらか高いというだけのことです。

 

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