カール・レーヴィットによる安易な日本批判について

 ここでは、カール・レーヴィットの『ある反時代的考察―人間・世界・歴史を見つめて』(叢書・ウニベルシタス)内の日本批判を検討していきます。


『ヨーロッパのニヒリズム』

 カール・レーヴィット(Karl Löwith、1897~1973)は、ドイツの哲学者です。ユダヤ系であったためナチス政権の迫害を受け、1936年に日本へ教授として来日しています。その後の第二次世界大戦で、日本とドイツが同盟を結んだため、1941年にアメリカへ渡りました。

 レーヴィットの1940年の論文『ヨーロッパのニヒリズム』には、「日本の読者に寄せる後記」があります。この後記では、ヨーロッパの自己批判の弁明と日本の自己愛への批判が図られています。これは、日本を悪く言いたい人にとって、たまらないしろものなのです。なにせレーヴィットは、ナチス政権に迫害されたユダヤ系ドイツ人であり、早くからハイデッガーを批判した実績があり、洋の東西の両方を学んだ哲学者という肩書きを持っているのですから。

 しかし、重要なのは肩書きではないでしょう。その日本批判がまともなものなら、指摘に感謝し真摯に反省すべきでしょう。批判がおかしなものなら、きっちりと反論すべきでしょう。ここで私は、レーヴィットの日本批判がまともな内容になっていないことを示したいと思います。レーヴィットは、次のような言葉で日本を批判しています。



 ヨーロッパの精神と対照をなすものは、それゆえ、境界をぼやけさせる気分による生活、人間と自然界との関係における、感情にのみ基礎を置いているがゆえに対立のない統一体、両親と家族と国家における、批判を抜きにした絆、自分を明示せず、あらわにしないこと、論理的帰結の回避、人間との交際における妥協、一般に通用する因襲的遵守、仲介の間接的な組織等である。この間接的な組織は、個人としての人間を排除し、自分自身のために行動することを、自分自身について語ることを、自分自身のために弁明することを許さないのである。




 こういった批判に対し、中野剛志は『日本の没落』で、〈このレーヴィットの日本批判は仮借のないものだが、しかし真実を突いていることは否めない〉と言ってしまっています。確かにこのような抽象度の高い意見を並べたてれば、それは何かしら真実を突くことになるでしょう。多くの人にあてはまることを羅列すれば、自分のことだと思ってしまう人が出てくるものなのです。

 しかし、それは詐欺師の常套的なテクニックの一つです。レーヴィットは、ヨーロッパには批判精神があり、東洋にはないと考えています。しかし、その指摘は抽象的で具体性を欠いたものです。レーヴィットの意見に騙されないためには、個別に批判点を検討してみることが必要です。


(1) 境界をぼやけさせる気分による生活

 ヨーロッパ人は、境界をはっきりさせる理性による生活をしている、ということなのでしょう。西洋人からすると、日本人は境界をぼやかしていると見えてしまうことがあるのでしょう。

 しかし、人間が生活において引く境界は恣意的です。そこには文化や伝統の影響があります。ヨーロッパの精神から日本人を批判するなら、どのような対象において、ヨーロッパ人がどのような境界を引き、日本人がどのようにぼやけさせているかの具体例が必要です。その上で、比較検討し評価を下すべきでしょう。境界には、はっきり引くべきときも、ぼやけさせておくべきときも、ありえるからです。


(2) 人間と自然界との関係における、感情にのみ基礎を置いているがゆえに対立のない統一体

 日本人が感情にのみ基礎をおいているというのは、もはや言い掛かりでしょう。日本人は感情と理性(道理)の両面から自然界との関係を築いてきたからです。このような非難は、ヨーロッパの優越性を前提とした感情的な傲慢さに過ぎないでしょう。


(3) 両親と家族と国家における、批判を抜きにした絆

 ヨーロッパ人は、両親や家族や国家を批判しているということなのでしょう。しかし、まともな社会ならば、第三者に対し、両親や家族や国家を擁護したいという気持ちがあるはずです。擁護と批判のバランスが重要です。そのバランスについて言及していないなら、理にかなった評価は下せません。


(4) 自分を明示せず、あらわにしないこと

 これも、程度の問題でしょう。どういった場面であらわにしないから、どのような理由でダメだという指摘がなければ無意味でしょう。


(5) 論理的帰結の回避

 論理はどのような人間集団にも見られるものです。また、学問的に整理された論理学は、日本人が十分に理解可能なものです。何をもって論理的帰結の回避と言っているのか、具体的な事例がないと何とも言えません。


(6) 人間との交際における妥協

 ヨーロッパ人は、人間との交際において一切の妥協をしないということなのでしょうか? 人間交際において、ある程度の妥協は当然ながら必要でしょう。どの程度の妥協なら許容されるかの検討が求められるでしょう。単に妥協がダメだというのでは、批判としてレベルが低いと言わざるをえません。


(7) 一般に通用する因襲的遵守

 どのような社会も、そこで一般的に通用している因習があります。日本人から見るなら、キリスト教やヨーロッパの人権意識はかなり因習的に見えてしまう場合がありますし、それをヨーロッパ人が遵守しているようにも見えます。日本人がおかしいという前提ありきの意見だと言えます。


(8) 仲介の間接的な組織等

 レーヴィットは、日本における組織が個人を排除していると非難しています。しかし、単に自分を主張すれば良いというだけでは、議論として不十分でしょう。どういった日本人の振る舞いが、個人としての人間を排除しているのか、事例の検討が必要でしょう。当時の時代状況を考えれば、具体的で説得的な論拠が示されていなかったことは、日本人にとっても残念なことだったと思われます。



『東洋と西洋の相違に対する所見』

 次に、1960年の論文『東洋と西洋の相違に対する所見』を参照してみましょう。本書では東洋の例として日本のことが多く語られ、一見すると日本思想への深い理解があるように見えます。しかし、それはどうやら西田幾多郎などの日本人が、レーヴィットへ丁寧に語ったこと以上ではないようなのです。

 「訳者解説」で中村啓が、次のように書いています。


 そして、西洋の思考方法を体得するには、仏教、儒教を切り捨てることによるしか可能ではないと断定される。レーヴィットのこの批判は、狭い専門領域を越えた思考方法そのものの批判であり、その点について、東洋の思考の否定に行きついている。

 日本においては、明治維新以来西洋の思想は本の輸入と翻訳によって広く紹介され、知識人はひたすら西洋に目を向けてきた。しかし、知識としては西洋の思想が高度に吸収されているものの、生きた思考としては不十分と見なされる。レーヴィットの洞察によれば、それは不可能と判断されている。




 ここにはヨーロッパの優越性を頭から信じ込んでいる、批判精神のない愚かな人物の姿が浮かび上がっています。レーヴィット自身の記述を引用してみましょう。



 西洋の思考方法を本当に自分に取りこみうるために、東洋が支払わなければならない代価は、実際、真の活動が「無為」(中国語でWu-Wei)である、それとも放任である、という道教の、また儒教の放棄であろう。




 東洋の、特に仏教の刻印を受けた精神は自分からは、世界に対し、また自分自身に対するこの類いの具体的な、抽象化する降舞いを知らない。その精神は、存在するものの全体の中へ、無の中へ直接沈みこみ、包括する全体に悟性的に対峙することなく、その全体を解体することなく、説明することなく、全体を対話的に、弁証法的に表現することなく、全体の無の中へ埋没する。




 このような浅い低レベルの見解を受け入れた者だけが、レーヴィットの権威を利用して日本を批判できるのです。それがもし日本人ならば、自分だけはヨーロッパの批判精神があるとうぬぼれているのでしょう。

 批判精神はもちろん大切です。洋の東西を問わず、適切な批判は尊重されるべきでしょう。そういった観点から、レーヴィットによる安易な日本批判には、注意が必要です。





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