中野剛志『日本の没落』(幻冬舎新書)

| コメント(0)

<21世紀のノストラダムスの大予言(涙)>


 シュペングラーの『西洋の没落』を参照した、中野剛志が描く『日本の没落』を読んでみました。結論から言うと、本当にあの中野剛志かと疑うほど酷い内容でした。とても『富国と強兵』と同じ作者とは思えません。まあ、文体や細かい記述から、同一人物なのは間違いないのですが...。

 シュペングラーの『西洋の没落』は分量が多く、大言壮語かつ誇大妄想で、どうとでも捉えることができてしまうような代物です。そのため、勝手な解釈を繰り広げることで、シュペングラーの予言が当たったと言えてしまう、ということです。でも、この仕組みって、ノストラダムスの大予言と同じですよね。年代的に、あの大予言のバカ騒ぎを聞いてきた私(1981年生)としては、その二番煎じにはうんざりしてしまいます。

 中野は第八章で、次のように述べるに至っています。



はなはだ遺憾なことではあるが、我々が、百年前にシュペングラーが予言した没落する世界の只中にいるということは、ほぼ間違いがなさそうである。前章までの検証は、彼の「歴史を前もって定めようという試み」がおおむね成功を収めたことを示している。



 誠実に述べておくなら、シュペングラー云々を除けば、本書の内容はかなりまともです。例えば、ダグラス・マレーの『The Strange Death of Europe(ヨーロッパの奇妙な死)』(邦訳が出てほしい!)を参照した移民問題や、第七章の「信用貨幣論」や「現代貨幣理論(Modern Monetary Theory)」はきわめて重要です。しかし、それらをシュペングラーと無理やり結び付けて論じてしまっているので、うさん臭さが半端ないのです。

 その詐欺的なテクニックを一つ取り上げてみましょう。



西洋の「時間」の観念がなければ、信用貨幣は成立し得ない。信用貨幣は、まさにファウスト的魂の産物なのである。

 そこで思い出すのが、ファウストの最期である。ファウストは「時よ、とどまれ」と口走ったために死んだ。時間が止まるということは、ファウスト的魂の死を意味する。それは同時に、信用貨幣があり得なくなるということでもある。信用貨幣が成り立ち得なければ、それを基礎としてきた近代資本主義経済も、不可能となる。ファウストが、メフィストフェレスとの間で、時間と魂を賭けの対象にしたことの象徴的な意味の深さが改めて分かるであろう。



 ここで「時間」を、〈西洋の「時間」の観念〉に限定して論じていることに疑義を呈しておきますが、それよりも問題なのは、ここの強引な論述です。ここの異常さを分かりやすくするために、「信用貨幣」を「○○」に、「近代資本主義経済」を「××」に置き換えてみましょう。



西洋の「時間」の観念がなければ、○○は成立し得ない。○○は、まさにファウスト的魂の産物なのである。

 そこで思い出すのが、ファウストの最期である。ファウストは「時よ、とどまれ」と口走ったために死んだ。時間が止まるということは、ファウスト的魂の死を意味する。それは同時に、○○があり得なくなるということでもある。○○が成り立ち得なければ、それを基礎としてきた××も、不可能となる。ファウストが、メフィストフェレスとの間で、時間と魂を賭けの対象にしたことの象徴的な意味の深さが改めて分かるであろう。



 いかがでしょうか?

 あなたが主張したい概念を「〇〇」に、「○○」の基礎になると思われる概念を「××」に入れてみてください。そうすると、上記の文章では、大抵の言葉が該当することが分かるでしょう。それもそのはずです。時間と無縁な概念など、まずありえないからです。つまり、中野はここでシュペングラーの予言のすばらしさを説いているのでしょうが、その実は、どうとでも解釈できることを、無理やり都合の良いように論述し、教祖シュペングラーをまつりあげる敬虔な信者と化してしまっているのです。

 というわけで、本書の題名は『日本の没落』ではなく、『シュペングラーの大予言』が相応しいでしょう。



 終章の〈レーヴィットの日本批判〉にも苦情を述べておきましょう。中野は、哲学者カール・レーヴィットの論文『ヨーロッパのニヒリズム』を持ち出して引用します。



ヨーロッパの精神と対照をなすものは、それゆえ、境界をぼやけさせる気分による生活、人間と自然界との関係における、感情にのみ基礎を置いているがゆえに対立のない統一体、両親と家族と国家における、批判を抜きにした絆、自分を明示せず、あらわにしないこと、論理的帰結の回避、人間との交際における妥協、一般に通用する因襲的遵守、仲介の間接的な組織等である。



 このレーヴィットの見解に対し、中野は〈このレーヴィットの日本批判は仮借のないものだが、しかし真実を突いていることは否めない〉と言ってしまうのです。

 私も、筑摩書房の柴田治三郎訳『ヨーロッパのニヒリズム』を読んでみたことがありますが、具体性を欠いた抽象的な文言が並んでいるだけでした。抽象的な批判を羅列しているので、たいていの人は心当たりがあるのは当たり前の話です。このレーヴィットの日本批判を持ち出すのは、きわめて恥ずかしいことだと私には思われます。

 なぜなら、この日本批判はホストの手口と似ているからです。ホストは客の女性に対し、誰にでもあてはまるような抽象的な言葉を紳士ぶって投げかけます。ホストに行くような女性は、その言葉を真に受けて、本当の私を分かってくれていると思うわけです。それは、誰にでも当てはまるような中身のない(具体性のない抽象的な)言葉でしかないのですが...。

 レーヴィットによるヨーロッパ的な自己批判を持ち出して日本を非難する者は、自分だけは、ヨーロッパ的な批判精神を持っていると思っているのでしょう。あたかも、ホストに君だけは特別だと言われて、舞い上がってしまう女性のように。



 ただ、繰り返しになりますが、今までの中野の著作を読んできた者としては、今回の『日本の没落』が如何に酷かったとしても、今後に期待したいという想いがやはりあります。次回作は、きちんとしたものを期待したいです。



 最後に、シュペングラーへの評価として、本書とは違い参考になる文章を引用しておきましょう。私が尊敬するヨハン・ホイジンガの言葉(『ホイジンガ選集3』内の「天使と闘う二人」から)です。



我々はシュペングラーを読んで感嘆するが、この感嘆は決して共感にはならない。「我々は冷酷を必要とする。」それは、歴史が我々に教える最大の教訓であろうか。たぶん――自分が大変賢明であるので、同じ人間仲間の歴史のなかには、究極の無駄しか見いだしえないと考える者にとっては――そうであろう。



コメントする