今号の特集は、「沖縄 戦後ニッポンの鏡」です。
沖縄を考える上で、「鼎談 ついに臨界に達した沖縄問題」における西部邁さんの見解は重要です。対談中で西部さんは、次のような問いを出しています。
いまからでも遅くはないから格別の御高配を、これから何であるかについて考える。それをせねばいけない理由は、要するに総力戦を戦ってくれた唯一の住民であるからです。
ところが問題は、沖縄はいまや平和の島になっているわけです。僕はあの戦さを自慢する沖縄人に会ったことがない。本心はどうなんですか。自慢しているの? 自分達が犠牲を被ったことを歎くだけで、戦ったことに胸を張る沖縄人はどれくらいいるの?
その答えも、ある意味において出ています。さらに、西部さんの言葉を引用しましょう。
沖縄に五回しか行っていないのに、初対面の方々に会う度にいま言ったような話を執拗にやって、全員に沈黙をもって応じられる。イエスとも言ってくれないが、ノーとも言わない。
これで、論じるに十分な材料はすでにそろっています。ここからは、個人的な見解によって歩むべき方向が変わるのでしょう。
私の意見を述べておくなら、格別の御高配は、その根拠の故に、今の沖縄の人たちには受け取る価値がないのではないかという疑惑を持っています。その疑惑を払拭するためには、西部さんの問いに、沖縄の人たちがどう応えるかにかかっているのです。
ここで、イエスでもノーでもないということで、いろいろな理屈をこねくり回すことができます。しかし、それがどれほどもっともらしくとも、イエスと言えないことによる疚しさが透けて見えてしまうのです。
イエスと言える人間が、沖縄に限らず何人いるのか。それが沖縄に対してどう向き合うのか、どう真剣に向き合うのかに決定的に重要になるでしょう。なぜなら、イエスという答えは、日本人による国防強化に向かうからです。
柴山桂太さんは、「日本の「半独立」が基地を永続化させる」で次のように述べています。
結局、日本が「半独立」から抜けだして国防強化に向かわない限り、真の意味での安全保障は確立されないし、沖縄と本土の間で広がる溝を埋めることもできないのだ。
また、東谷暁さんの「日本人にとっての「ソラリス」」の次の発言にも触れておきます。
いつかは沖縄が日本と一体になってくれるだろうと思っている人には残念なことに、地政学的にフロンティアに置かれる沖縄は、本土とは微妙なところで心理的に融け合うことはない。また、沖縄など日本から切り離したいと思う人にとっても、これまた残念なことに、いつまでも歴史・文化的繋がりのゆえに日本に親密につきまとうだろう。
たしかにそうなのですが、それにも関わらず、私は沖縄の人たちを同じ日本人と見なすことにしています。それ故に、沖縄の人たちがもし失望するようなことを言うのなら、他の日本人が言ったときと同じように、特別な配慮などせずに、発言に見合った対応をとることになります。軽蔑すべきときは軽蔑し、敬意を表すべきときは表す、ということです。