2012年12月アーカイブ

 私はよしりんファンですが、よしりん信者ではありません。よって、よしりんが述べていることが正しければ賛成しますし、間違っていれば批判します。最近の言説で言えば、女系公認論も反TPPも脱原発も賛成です。ですが、本書に関してはひどい出来でがっかりしました。「ニセモノ政治家の見分け方」というより、「気にくわない政治家のおとしめ方」という題名の方が合っていると思います。
 例えば、まえがきの最初の2ページで既に論理がおかしくなっています。〈初めから野田佳彦が首相になって、保守の純化を進めればよかったのだか、・・・(p.7)〉と述べて野田を保守だと持ち上げています。それに対し、〈安倍晋三や現在の保守論客は、・・・「エセ保守」に過ぎない(p.7)〉と述べています。その上で、「エセ保守」が〈TPP参加で「関税撤廃」を目指す方向に進もうとしている(p.8)〉と論じているのです。安部自民党はTPPに関し、「聖域なき関税撤廃」を前提にする限り、TPP交渉参加に反対しますという態度であり、野田はTPP推進派ですよ。いったい、何を言っているのでしょうか? 誤誘導しようとしているのでしょうか?
 また、『希望の国日本(飛鳥新社)』で安部晋三を持ち上げ、本書でこき下ろしています。その理由として、〈まさか「潰瘍性大腸炎」という難病だったとは知らなかったのだ(p.104~105)〉という理由と、〈皇位継承問題で、・・・もう少し柔軟な立場を取れる人間だと思っていた(p.105)〉という理由を挙げています。それなら、今更『希望の国日本』では許容していた「対日非難決議案」の問題をここで蒸し返すのはおかしいでしょう。私は「対日非難決議案」で安部晋三を擁護するつもりはありません。ただ、非難する側のダブルスタンダードがおかしいと指摘しているのです。
 安部晋三をこき下ろすあまり、野田佳彦に対する評価は不正に高いです。〈人権擁護法案を閣議決定したことはわしも失望したが、サヨクを抱えた党内事情だからこその妥協なのだろう。(p.93)〉と述べ、〈すでに国際常識化してしまった事案を、後を継いだ首相が、そう簡単に「慰安婦は性奴隷ではない」と米国紙に異議申し立てなどできるわけはない。(p.132)」と述べています。すげ~な。人権擁護法案を進めたり、性奴隷に異議を唱えなくても、野田は保守だったんだ。すげ~な。マジで。
 他にも、おかしなところはたくさんあります。
 在日問題に関して、〈日本国籍を取ってほしいというのが、一番の願いだが、それができないリアルな事情がある例も知っている(p.66)〉と述べています。そう言うのなら、そのリアルな事情を説得的に論じてください。
 尖閣問題については、〈地元の漁民のために「船だまり」を造るというようなことは、中国がガタガタ言ってこないような時期を見計らって、こっそり徐々にやればいいのだ(p.77)〉と述べています。大爆笑ですね。中国がガタガタ言わない時期って、いつなんでしょうか(笑)。
 経済については、〈経済一辺倒とは、要するに「カネが一番大事」ということであり、・・・(p.86)〉とあります。日本人である私にとっては、経済とは「経世済民」のことですが、よしりんの認識では違うようです。p.100の二宮金次郎の名言も、経済は「経世済民」だからこその言葉ですよ。
 p.104の〈安部晋三が退陣して誰も期待しなくなっていた時、新たな期待を盛り上げようと最初に画策したのはわしである。〉というのも、間違っています。例えば、西部邁さんなどは、安部晋三の首相への返り咲きを見据え、よしりんよりずっと前から画策しています。
 p.120の〈「美学の追究」とはあくまでも「私的」なものであって、「公的」な使命を果たすというものではない。〉というのも意味不明です。「美学」は、「私的」にも「公的」にも結び着きます。公的な美学のない政治家など、それこそ願い下げだと私は考えます。もう少し分かりやすく述べるなら、「公的」な使命を果たすという「美学」を、「私的」に引き受けることを選んだ者こそが、政治家であるべきなのです。
 他にも、おかしなところは多々ありますが、めんどくさいのでこの辺にしておきます。私に安部晋三を擁護するつもりはありません。あくまで、安部晋三を批判する論理が、公正さに欠けているから信用できないというだけの話です。

 

『表現者46』

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 『表現者46』の特集は、「独立しない日本、共栄できない日中韓」です。今号は多角的な視点が見られて面白かったです。気になった論考にコメントしてみます。

<没落するのかヨーロッパ(榊原英資)>
 EUの危機にについて論じられています。p.013に、〈論理的解決策は二つある。一つは財政統合を進め、ドイツもギリシャも一つの国にすること、ヨーロッパ合衆国の創設だ。もう一つはユーロを解体するか、ギリシャのような弱小国をユーロ圏から出してしまうことだ。〉とあります。この解決策は、論理的にはその通りだと思います。
 榊原さん自身は、〈ヨーロッパ全体の没落が続くなかで、ヨーロッパ統合という決断をドイツ等がいつ出来るかが鍵になってくるのだろう。〉と述べています。いわば、前者の可能性に賭けているわけです。しかし、私には前者の可能性はほとんどありえないと思われます。自発的か強制かはさておき、まずはギリシャがユーロ圏から外れるのが最もありえる可能性だと予測しておきます。

<北朝鮮を生き抜いた二人の「日本人」(三浦小太郎)>
 この人の論考は、毎号感銘を受けています。〈彼を「名誉日本人」と呼ぶことに私は何のためらいもない。(p.014)〉という箇所に同意いたします。保守人権派とは、私の感性からすると、日本における儒教の流れをくんだ「人道」の立場とほとんど同じだと思います。今後の論考も楽しみです。

<反日デモの考察(柴山桂太)>
 柴山さんに関しては、毎号の論考のレベルが驚異的な水準に達していますね。p.067の〈中国にとって国内の日本企業は、ちょうどいい「人質」なのである。〉という意見や、p.068の〈中国の反日デモはこれからも続く。安易な幻想を捨て、日中関係の厳しい現実にもっと目を向けなければならない。〉という意見は秀逸です。経営者などは、特に心しておいてほしいですね。

<中国の悲劇(中野剛志)>
 中野さんの論考は、独自の観点に視点を置いて論じている場合が多く、なるほどと思わされます。p.085の〈中国こそ、グローバル化の最大の犠牲者である。〉という意見は、(その真偽はともかく)面白いですね。

<日本は伝統的な対中国政策に回帰せよ(東谷暁)>
 〈中国の経済成長につれて賃金は高くなってゆき、生産地としての優位性は失われてゆく。日本はかつての中国に対して一定の距離をおく伝統的外交に回帰すべきだろう(p.088)〉と述べられています。まったくその通りだと思います。

<中国自身のチャイナリスクにどのように対峙するのか(宮本光晴)>
 ちょっと・・・、論考のレベルとしてどうかと思います。
 例えば、p.091に尖閣問題について、〈日本と中国双方の侵入を禁じるという条件を提示したうえで、帰属を交渉することが考えられる。〉という意見があります。その後、中国が〈尖閣に一気に侵入するかもしれない。ゆえに尖閣への侵入を阻止する軍事力は不可欠であるが、そのうえで我に理があると、国際社会に向けて主張すればよい。〉と述べています。この人は、中国の実効支配を実現するための工作員なのでしょうか?
 他にも、〈中国人留学生を増やす必要がある。〉とも述べています。正直、この人の意見には同意できません。

<保守放談 iPS細胞を礼讃していいのか(p.145)>
 保守思想の面目躍如ですね。考慮すべき視点だと思います。

 『心と他者』は哲学書です。分かりやすい文章で、一歩ずつ哲学を進めています。本書では、著者である野矢の意見に対し、師である大森荘蔵のコメントも記載されています。
 例えば、p.106の〈独断的に私の意見を述べておくならば、いっさいの身体運動や状況と切り離された純粋に心の状態ないしできごととしての意志なるものなどありはしない、と私は考えている。〉とあります。この意見に対し、大森は〈これは私の意見〉とコメントし、野矢は〈はい。〉と返しています。微笑ましいですね。
 本書の中で、私が素敵な表現だと思った箇所を紹介してみます。

 何か〈神〉は勘違いしているのじゃないか。
 勘違いしているのである。(p.103)〉

 人間たちは人間どうしのつきあいをこのような心ある描写を用いる形で定着させてきた。なぜ、そうした生き方をしているのか、根拠などありはしない。ただ、長い歴史と伝統があるのみなのである。(p.117~118)

 現在のわれわれにとって、人間はけっしてたんなる物ではない。あるいは物プラス心というのでもない。人間は物とは根本的に異なった〈心あるもの〉なのである。(p.118)

 たんなる世界の眺めであったものが私の心の眺めとなるには、心ある他者の存在が不可欠なのである。(p.136~137)

 私は心を登場させるその契機をこそ、〈他者〉と呼びたい。他者がいなければ世界はただ透明にその姿を現すだけであろう。他者の存在によってはじめて、世界は透明性を失い、心という襞をもつ。(p.145)

 それゆえ、たんにアメとムチを与えるだけではなく、アメやムチが与えられる理由もまた、明らかにされねばならない。(p.321)

 上記に挙げた記述は、前後の文脈とあわせて読むと、その妙がより深く味わえると思われます。良書なので、「心」って何だろうとか考えたことのある人は、少なくないヒントが得られると思うのでお勧めです。 

 保守思想家の西部邁さんが、自身の金銭にまつわる話を中心に語っている自伝的な本です。私が個人的に素晴らしいと思った箇所をいくつか挙げてみます。

<p.065>
 「あの親父はいい奴だった。とくにあの微笑みはいいものだった」と私は、今、思います。
→この前後の文脈を味わってみてください。西部邁という思想家が、他の思想家から特出している理由が分かると思います。

<p.069>
 その自己嫌悪は罪悪感というのとは違います。自分が自分にとって見知らぬ者に変化していく、ということへの恐怖が私をむんずととらえるという趣でした。
→この描写は秀逸です。私もこのような感覚を味わったことがありますが、その感覚をこのように描写すれば良いのかと感心してしまいました。

<p.077,078>
 最近、七十五歳になった兄に、「あれは無理をして教養のほうを選んだのか」と確かめましたら、「うん、相当の無理をしてな」ということでありました。
→素直に、良い話だなと思います。〈兄が迂闊であったのは、その公共財にたいする弟の需要が零であることを考慮しなかった点です(p.080)〉という意見は、必要悪としての蛇足ですね(笑)

<p.104>
 「帰る家」のない人には申し訳ない言い方と知りつつも、あえて断言します。家に戻って「メシとミソ汁」を食べることができるかどうか、それが決定的な岐路になる人生の瞬間があるものなのです。
→残酷な人生の真実ですね。本当に、残酷でしんみりくる真実です。

<p.196>
 前途有望な青年たちに論文発表の場を提供すると構え、稿料も相場より多く払い、またたとえあらゆるメディアから縁切りされて独りになろうとも発言を止めないとの姿勢をとる、それが自分のうちに確認することのできたささやかな公共心だったのです。
→西部さんがこのように生きたことは、実は日本にとって少なくない良い影響を及ぼしたと思われます。例えば、中野剛志さんや柴山桂太さんなどが世に出ることに対し、少なくない助けになったと思われるのです。

<p.221>
 というわけで、「カネは何とか作るから、お前もできるだけ延命するよう励んでくれ」という何の変哲もないことしかいえないということになります。
→ここの前後の文章は、とんでもない水準に到達しています。私ごときには安易な感想を述べることは不可能なので、是非、実際に読んでみてください。

 本書の背景には、〈つい最近まで官僚だった者たちが「外国の力を国内に意図的に引き込んで、日本の政治を動かしてやるのだ」と公然と言って憚らない世の中となったのである(p.14)〉という事態があります。こんな官僚が政治に関わっている国は、普通に考えてやばい状況にあります。本書ではこの異常な状況に対して、鋭い洞察が示されています。
 中野氏は、〈改革であれば事態を悪化させるものであっても正当化出来るというわけではない(p.54)〉と至極まっとうなことを述べています。あまりに当たり前なのですが、今の日本は、改革案の検討もまともに行わず、改革の結果に対する反省すらまともに行っていないという危機的状況なんですよね。
 中野氏の意見で注意が必要だと思われる箇所は、〈自由民主主義を守るために、暫定的に自由民主主義を否定せざるを得ないこともある(p.19)〉というところです。〈自由民主政治は本質的にナショナルである(p.190,191)〉という点を考慮すると、国家の自尊自立を守るために、暫定的に自由民主を否定せざるを得ないこともあるというのが正確な言い回しだと思われます。
 中野氏は民主政治について、〈間接民主的な「自由民主政治」」(p.145)〉と〈直接民主的な「大衆民主政治」」(p.145)〉の二つのタイプに分類していますが、ここら辺の定義にも注意が必要です。間接民主政治は、どちらかというと貴族政治(本書に即して言うならエリート)と民主政治の混合として捉えるべきだと思われます。プラトンが『国家』で考察しているように、民主政治が自由と融合したとき、むしろ大衆迎合型の政治になってしまう可能性を指摘できます。大衆化に抗するには、自由そのものではなく、エリート(貴族)の要素が必要なんですよね。エリートは規範を引き受けるところに生まれるわけですから、束縛の不在である自由とは重ならない部分もあるわけです。
 また、〈奇妙なことに実際には、新自由主義的な構造改革もグローバル化も民主政治の支持、しかも熱狂的な支持を得ていたという例が少なくないのである(p.142)〉とあり、〈新自由主義によって破壊される民主政治もあれば、新自由主義を歓迎する民主政治もあるのである(p.144)〉と指摘されています。この見解は、きわめて重要だと思われます。
 題名に日本という語がありますが、世界各国の文献の実例をもとに、恋愛について語られています。数多くの例が示されていますが、割とさくさくと読めました。
 p.26に、〈日本では「非モテ」を語らずに恋愛を語ることは出来なくなり、また語らない恋愛研究の類は見向きもされなくなった。恐らく、西洋にはまだそういう文化はなく、恋愛論のレベルは、世界的に日本がいちばん高いのである。〉と主張されています。本当でしょうか?
 個人的に面白いと思った箇所は、p.133の〈性的人間というのは、死への恐怖というものをあまり持たないのかもしれない。あたかも、飲酒運転をする人間が、自分だけは大丈夫だと思うように。〉という意見です。本当でしょうか?