2013年6月アーカイブ

 一時期ハイデッカーの弟子でもあったレーヴィットの『共同存在の現象学』を読んでみました。オルテガの『個人と社会』に若干似ているかなという印象を受けましたね。もちろん、ハイデッカーの影響も比較的強い作品だとも思います。
 「共同世界」や「周囲世界」という用語は、存在論における常套句ですね。例えば、〈人間は、じぶんにとりわけ重要であるもの――みずからの人間的生――について、周囲世界ではなく共同世界に依存している。だからこそ人間は、とりわけて共同世界において、また共同世界から、「自立性」を、すなわち存在者が有する実在的な自体的存在を経験するのである〉とあります。
 そこでは、他者が問題になるわけですね。〈「共同世界」は、こうして、だんじて純粋にそれだけで出会われるのではない。それはつねに或る構造連関の内部で出会われる。その構造的な分肢は、他者たちと共に―世界内存在する―自己なのである〉というわけです。
 「他者」という概念が登場すれば、他者へのさらなる考察へと進んでいきます。〈他者たちとその相互の関係は、原理的にいって、或る者自身と、他者たちに対する或る者固有の関係に、さかのぼって関連づけられている。そこから生まれるのは、経験的にはよく知られた区別、親密な者と疎遠な者、身内の者と未知な者という、他者をめぐる根本的な区別である〉というわけですね。
 この「自己」という概念と「他者」という概念から、次のような現象学的な帰結が導き出されています。すなわち、〈いわゆる自己中心主義と他者中心主義という実体化された性質をはなれて、その事実的な現存在様式に立ちもどるなら、両者がその意味からして、他者に対する或る者自身のことなったふるまいかたを意味しているしだいが見てとられる。我―欲的―であることも無私的―であることも、他者―に対する―ありかたである。自己中心主義は、したがってまた、他者に対する明確な自己中心主義的なふるまいとして表現される必要すらもない。自己中心主義は、自己中心主義なしかたで強調された顧慮のありかたにあっても同様に、否むしろそこにおいてこそ主張され、顕示される。ニーチェの分析術は、そのすくなからぬ部分において、一見したところ無私的なものとみえる。さまざまな徳の仮面を剥ぐところにあるのである〉というわけです。
 つまり、〈≪私自身≫であってはじめて、自己中心主義的でも他者中心主義的でもありうるのである〉ということになります。そのため、〈自己中心主義から他者中心主義的な装いという仮面を剥がすこころみは、しばしばくわだてられる。その施行は、けれども、自己中心主義の慎ましく偽装された装いのうちに、ひどく極端な無私性を発見するという、くわだてられることの稀なこころみ以上に原理的にいって見こみのあるものではない〉と語られているわけです。
 これらの関係性の洞察に伴い、「歴史」が登場します。〈これほどまでに自立化した共同相互存在の世界を解きゆるめる正当な動機を与えるのは、その世界が形成された歴史である。関係が生成するのは一般にただ、相互に対してさしあたりは自立的なふたりの個人が出会うことによってである。そして関係が解消しうるのも、ただまた、一方と他方のこの根源的な自立性が、関係にそくして―いない規定として関係においてあらわれることによってなのである〉とあります。
 レーヴィットの述べている≪私自身≫は、個人主義とかではまったくなく、現象学的に、世界がそうなっていざるをえないから、現にそうなっていることを、端的に現している表現なのです。≪私自身≫においてしか、自己中心主義的な振る舞いも、他者中心主義的な振る舞いもできないという、あまりに当たり前過ぎて、それゆえ神秘と呼ぶしかないような現象についての言及なのです。

 本書は、西部邁さんの1999年刊行の単行本『福澤諭吉:その武士道と愛国心』の文庫版です。単行本を持っていながら、この文庫版も買う自分も自分だと思います(笑)
 本書では、特に戦後において歪められていた福澤諭吉像が、適切に修正されていきます。文庫版では、西部さんの弟子である中野剛志さんの解説があり、それも本書にさらなる価値を付加しています。
 本書の内容およびその解説から、ほとんどの人が気づかなかった論点を示してみたいと思います。
 まず西部さんは、〈私は諭吉の学問的本質は日本で最初の社会学者という点に見出されると考えている(p.72)〉とか、〈「人間交際」は、諭吉にあって、英語のソサイアティあるいは仏語のソシエテの訳語として用いられたものである。彼の実学論を評するに当たって最も重要なのは、彼を日本における最初の社会学者であるとみる視点ではないのか(p.181)〉と述べています。諭吉の実学の姿勢が、日本初の社会学者という考え方につながっているわけです。その実学については、例えば、〈『学問のすゝめ』の締め括りの言葉は、「人にして人を毛嫌ひするなかれ」ということになる。繰り返すが、これが「実学」なるものの精髄なのである。言葉による交際圏を広さにおいても深さにおいても大きくしていくのに貢献できる学問、それが諭吉にあって実学とよばれていた(p.190)〉とあります。この視点は、本書における数少ない欠点だと思われます。
 なぜなら、江戸の日本思想史を少しでも眺めた者にとっては、江戸の経世論が社会学を含むことは常識だからです。「経世」とは「経世済民」のことで、現代でいう政治学・経済学・社会学を含んでいるのは、江戸の思想史の本をいくつか読めば分かることです。西部自身が、p.203において、〈諭吉と常朝との呼応〉を示しておきながら、山本常朝を差し置いて、諭吉を最初の社会学者としてしまうのはさすがに無理があります。山本常朝や伊藤人斎や荻生徂徠は社会学を論じていないけど、福澤諭吉は社会学を論じているという論理的な根拠を示すことは、さすがに無理だと思います。
 中野さんは、『日本思想史新論』を書いたこともあり、p.225で、〈本書には、福澤を理解するための秘訣がいくつも示されている〉と述べ、〈第一の秘訣は、福澤を社会学者とみなすというものである〉と語っています。諭吉を日本で最初の社会学者とするのではなく、社会学者(の一人)としてみなすことで、さりげなくフォローしているわけです。このフォローが意図的なのか、無意識的に書いたことが、本書の構成的にたまたまフォローになっているのかは分かりません。しかし、中野さんは、〈世評では、西部先生が伝統の保守を説きながら、いわゆる日本思想に言及することが少なく、もっぱら西洋思想を参照することを批判する向きがある(p.229)〉ことについても反論し、師匠を擁護しています。
 この流れは、素敵な師弟関係だと素直に思います。師匠の残した知識の上に立って、弟子が適切に知識の追加・修正を行っているわけですから。

 本書は、現代日本の40代で類い希なる知性を持つ4名(中野剛志、三橋貴明、柴山桂太、施 光恒)が集結している大変贅沢な一品となっております。たった4名と侮ることなかれ。団塊の世代で言えば、その数の多さにも関わらず、真に恐るべきは佐伯啓思さん1名くらいなのに対し、40代の層の厚さには頼もしさを覚えます。しかも、各4名のそれぞれが、確固としたキャラクターを持っており、今後の活躍に期待が持てます。
 インタビューをしている森健氏が、〈筆者の関心は彼らの志向性が奈辺にあるのかにもあった。なぜ言論活動に取り組もうとし、何を動力として活動するのか。それもまた疑問の一つだった〉と述べているように、4名の言論に対する姿勢はそれぞれに異なっています。

 中野さんは、〈僕にとって最悪なのは、自分をごまかして死ぬことで、それだけはいやでした〉と述べているように、中野さんの姿勢は、自分に正直に生きることに重点が置かれているのだと思われます。

 三橋さんは、〈単に嘘つきの評論家がムカつくんですよ。だって、明らかにおかしいんですから〉とか、〈私はIT営業時代から、人にわかりやすく噛み砕いて伝えるのに人生懸けてきた〉などと語っています。三橋さんの姿勢は、嘘つきを論破し、正しいことを分かりやすく人に伝えることに重点が置かれていると思われます。

 柴山さんは、〈いかんせん慎重で遅筆なうえ、複数の視点をつなごうとするので、どうしても時間がかかるんです〉とか、〈自分としては、現実を論評するときには、できるだけどんな時代でも通用するような不動の核、社会を見る確かな目に行き着きたいという意識があった〉と述べています。柴山さんの姿勢は、整合性のある理論を示すことができる思想に重点が置かれていると思われます。

 施さんは、〈私の関心は、本当に日本に根付いている伝統、慣習、文化の中には社会をよくする方向性があり、それを見つけて伸ばしていくべきというスタンスなんです〉とか、〈自国の文化伝統と近代的ないしは欧米的と言うべき、政治経済システムをうまく折衷し、外来の知を翻訳し、土着化して近代化に役立てる〉などと語っています。施さんの姿勢は、各国ごとの文化に根付いたあり方を、日本は日本の伝統に合ったあり方を目指すことに重点が置かれていると思われます。

 最後のあとがきに相当する部分では、三橋さんが、〈ここにいる五人はみんな死ぬんですよね。十年後、みんな生き残っていないですよ〉と述べています。あと一人は、藤井聡さんです。そのセリフに対し、中野さんが、〈たしかに生命的に殺されることはないでしょう。でも、言論的に抹殺される可能性はある〉という考えを示しています。確かに、彼らの言論は、正しいが故に、卑劣な者たちの反感を買う恐れがあります。私は、彼らの言論活動が功を奏し、順当に5名とも10年後も元気に言論活動を続けていることを期待しています。

『表現者49』

| コメント(3)

 今号の特集は、「アベノミクスで日本は甦えるのか」です。例によって、気になった論考にコメントしていきます。

 

<アベノミクスという政策体系>榊原英資
 榊原さんは、〈日本のいわゆるデフレはいわば「構造的」なものであり、中国等東アジア諸国との経済統合によって起っているものなのだ〉と述べ、〈「不況脱却」は必要だが「デフレ脱却」は必要ないということになる〉と語っています。この御時世にデフレ脱却が必要ないというなら、それなりの論理が必要だと思いますよ。結局は、東アジア共同体を推進した悪しきイデオロギーによって、思考が歪んでしまっているということなのでしょう。〈実際二00二~0七年にはそれに近いことが実現されているのだから〉ともありまが、デフレ脱却せずに不況脱却しても、給料が上がらなかったでしょうが。

 

<座談会 アベノミクスは国家の経綸たりうるか>
 脇雅史さんが、〈江戸時代に、地域があれだけ活性化したのは、移動の自由がなかったからではないかと思う〉と述べています。これは、参考に値する意見だと思います。
 例えば、荻生徂徠の『政談』には、〈古の聖人の治めの大綱は、上下万民を皆土に有り付けて、その上に礼法制度を立つる事、これ治めの大綱也〉とあります。民を土地と結び付けることの重要性が指摘されています。ただし、商人については、〈これ元来不定なる渡世をするもの〉とあり、〈商人の潰るるというにはかつて構うまじき事也〉と語られています。さすがですね。

 

<「アベノミクス」が隠す「日本のディレンマ」>佐伯啓思
 佐伯さんは、〈実はアベノミクスが本当に功を奏するかどうかはかなりあやしい。超金融緩和はバブルを引き起こし、これは金融市場を不安定化するであろう。公共投資はまたいずれ市場からの反撃にあうだろう。TPPや市場競争戦略は、社会の基盤を弱体化するであろう〉と述べています。これは、注意しておくべき論点だと思います。

 

<市場誘導という挑戦>柴山桂太
 柴山さんは、〈市場主義からの転換をはかるとは、いったんは失われた政府の司令塔としての地位を取り戻すということであり、官民の協調体制をあらたに再編するということである。そのためには、規制緩和(ディレギュレーション)ではなく、金融・産業のゆるやかな再調整(リレギュレーション)が、グローバル化ではなく「脱グローバル化」が目指されなければならない〉と述べています。まったくその通りだと思います。

 

<アベノミクスに対する三つの批評>伊藤 貫
 伊藤さんは、かなり特異な意見を提示しています。〈地方の過疎化と人口の大都市集中という弊害を避けるため、日本を三段階[0%、八%、一五%]の消費税地域に分けるのはどうだろうか。人口と所得が減少している県の消費税はゼロにし、人口と所得増加が顕著な県は消費税一五%にするのである。このような税制を実行すれば、公共事業のばら撒きに頼らなくても、人口と経済活動は自然に低税地域に移るのではないだろうか〉というわけです。
 個人的に、メチャクチャな提案だと思います。例えば、福岡と佐賀の県境に住んでいるケースで考えてみます。この場合、今までは福岡の店にも佐賀の店にも行っていたのが、できるだけ佐賀の店に行くことになるでしょう。そうすると、福岡の中央付近の店はある程度大丈夫でしょうが、県境に近い店は潰れる可能性が増大しますよね。そんな現象が日本全国で起こったら、大混乱になってしまうでしょう。そんな奇策に比べたら、公共事業のばら撒きは、なんと優秀な政策なのだと皮肉の一つも言いたくなりますね。

 

<銃撃戦の鳴り響く国>寺脇 研
 寺脇さんは、映画『リンカーン』について、〈改正に必要な多数を得るために手段を選ばず、裏で政治ゴロを使って買収、脅迫といったえげつないやり方で民主党議員を切り崩していく。政策の実現のためには汚いことも平気でやってのけるタフさこそ、この映画におけるリンカーンの政治的力量発揮場面なのである〉という評価を行っています。その上で、〈翻って我が国。憲法を改正しようとするのなら、それが難しいといってハードルを下げるために改憲手続をいじろうとするなどはいかにも姑息だ。本当に命懸けで憲法を変えようというのなら、議会の三分の二の賛成が必要とあらばそれだけの多数を獲得する政治力を持つ努力をこそすべきではないのか〉と述べています。
 私が無知なためか、何を言っているのか分かりません。だって、素直に読めば、正規に取り得る手順は姑息だから止めて、買収や脅迫の方を採用しろって言っているわけですよ。正気なんでしょうか?
 私ごとき政治の素人でも、ハードルを下げるのは硬性憲法の理念に反するとか、現在の憲法については改憲ではなく廃憲が相応しいとか、もっとマシな意見を思いつきますよ・・・。

 

<安倍経綸のトリレンマ>西部邁
 論理的にアベノミクスについて分析を行っており、素晴らしい意見だと思います。特に、〈短期金利が下落するかわりに長期金利の上昇(国債価格の下落)が進むせいもあって国内の民間投資需要にして不活発になるならば、インタゲ政策によって増えた投資資金は、外国の証券市場に向かったり、後発国の低賃金を求めて外国への直接投資に使われるということだ。経済のグローバライゼーションにたいして、「国債資本移動への取引税」というような形での規制を施さないかぎり、この資本流出は不可避であろう〉という意見は秀逸です。「国債資本移動への取引税」については、反対意見も多いでしょうが、私は検討に値すると思います。
 また、〈「脱戦後」は「脱近代主義」のことにほかならぬと肝に銘じないかぎり、日本国家論が成り立つわけもない〉という意見も、その通りだと思います。

 

 『TPP亡国論』から2年と少し。もうそんなに前になってたんですねぇ・・・。論理的に完膚なく、TPPへ邁進することの愚を明らかにしたのにも関わらず、安倍自民党はTPPという日本的なものを破壊する行為へ向かって行っているように見えます。
 この『反・自由貿易論』は、これまでの世界情勢を踏まえて、自由貿易を批判的に検討しつつ、TPPへの警鐘を奏でています。
 中野さんは、〈経済学者は、自由貿易理論が極めて限定的で非現実的な条件を前提としていることを伏せたまま、「経済学の理論は、自由貿易はメリットをもたらすとしている」という結果だけを主張して、貿易自由化を正当化することが少なくありません。これはほとんど詐欺に近い行為と言ってもよいのではないでしょうか(p.29)〉と述べています。その通りだと思います。
 本書は、反・自由貿易だけではなく、反・グローバリズムでもあります。〈グローバル化こそが世界的経済危機の原因であるなら、その解決策は「グローバル化を制御すること」であるはずです。安定的な世界経済秩序を再構築するためには、グローバル市場に経済を全て任せるのではなく、政治が介入してその市場を管理し、グローバル・インバランスを是正しなければなりません(p.104)〉というわけです。
 本書で特に感慨深かった箇所は、p.124の「農村にあった直感と智恵」です。もちろん、農村には農村特有の陰湿さもあるわけですが、それらを含めても、農村には先祖からつながる知恵があるのです。ここの文章は、大人としての品格がにじみ出ていると感じました。〈各地の農協を訪問して、特に印象深かったのは、どんな小さな町村の農協であっても、その地の組合長に選ばれている方はひとかどの人物であったということです(p.124)〉と語られています。また、〈神楽は中国地方だけでなく、東北、九州地方など農業が盛んな地域を中心に日本各地に存在し、神楽団体は全国で700近くもあるのです。そして神楽のような地元に根ざした伝統芸能が、高齢化と過疎化を抑制し、山間部の小さな農村を生き生きとしたものにしていたのです(p.128)〉ともあります。素晴らしいですね。中野さんは、〈TPPを巡る騒動は、まさに「日本的なもの」が破壊されていく過程でした。そして、反対派が何とかして守りたかったのも、この「日本的なもの」だったのです。各地の農村を訪れたおかげで、私ははっきりとそれを知ることができました(p.129)〉と述べています。
 本書の結論は、インターナショナルへと導かれています。〈経済を「グローバル化」ではなく「国際化(インターナショナル化)」する。これこそ、我々が、日本人のみならず人類全体が目指すべき世界秩序の構想なのではないでしょうか(p.192)〉と語られています。この結論に私は感動を覚えました。なぜなら、私が心から尊敬するヨハン・ホイジンガが、ナチスの猛威が振るう危機のヨーロッパにおいて、圧倒的な絶望の中で希望を語った言葉と重なったからです。ホイジンガの『朝の影のなかに』の、ホイジンガの残した言葉を以下に示して、本著の感想を終えたいと思います。

 いずこの地にてであれ、よしんばひよわなものであれ、真正のインターナショナリズムの芽が出たならば、それを支え、水を与えよ。生きた水、おのれじしんの国家意識の水を与えよ。芽は、その水をうけて、つよく育つであろう。インターナショナルな感覚、これは、すでにそのことばからして、ナショナルなものの保持を想定しているのである。だが、そのナショナルなものとは、たがいにみとめあい、差異のうちに差別をつけない態のものでなければならない。インターナショナルな感覚は、新しい倫理の器となるであろう。その倫理にあっては、集産主義と個人主義の対立も止揚されるであろう。それがのぞめるほどまでに、いつかはこの世界も、それほどまでによくなるであろうとは、これはむなしい夢であろうか。たとえ夢であるとしても、しかし、わたしたちは、理想を高くかかげなければならないのである。

 

『朝の影のなかに(中公文庫)』ホイジンガ (著), 堀越 孝一 (翻訳) より敬意を込めて抜粋。

 

 『TPP 黒い条約』は、7名の論者がTPPのいかがわしさについて論じた本です。論者は、中野剛志さん・関岡英之さん・岩月浩二さん・東谷 暁さん・村上正泰さん・施 光恒さん・柴山桂太さんの7名で構成されています。
 各論文とも素晴らしいので、TPPについてだけではなく、考え方の参考にもなると思います。各論文への反論はないのですが、最初の中野剛志さんの「序にかえて」で、少し違和感を覚えたところについて述べておきます。
 まず、TPPについての歪んだ「論の進め方」について、〈私には、こうした傾向は、日本人の国民性によるものではないかとすら思われる(p.5)〉と語られています。そうなのかなぁと疑問に思って読み進めると、今度は、〈日本の文化や日本人の国民性を省みない、性急かつ無批判な近代化が進められたのである。これこそが、日本および日本人の混乱の原因である(p.5)〉と語られているのです。論の進め方が歪んでいる理由は、日本人の国民性によるものなのか、国民性を省みなかったからなのか、どっちなんだろうと思った次第です。ここが分からなかったので、本人に確認したところ、前者の国民性は、明治以降の日本の国民性を指しているとのことでした。
 また、p.7には、〈私がTPP参加を執拗に批判してきたのも、そこに近代日本の弱点である「似而非近代性」という、とてつもなく大きな問題が横たわっているのを感じてきたからに他ならない〉とあります。私はここに違和感を覚えました。この書き方ですと、近代日本の弱点は、まだ「似而非近代性」であって「近代性」に達していないことだと読めてしまうからです。ここについても確認したところ、中野さんは近代性を全て否定しているわけではなく、特に近代の個人主義には価値を見出しているとのことでした。「似而非近代性」から「近代性」へ至ることで、(デカルトに始まる懐疑主義などを介して)個人主義に到達できるという見解でした。この考え方は、京都大学の佐伯啓思先生とは相違があるところだそうです。私は、佐伯先生の考え方に近く、個人主義を含めた近代性そのものに問題があると思っているわけです。
 この意見の相違は、たいへん面白いと感じました。すなわち、近代における個人主義と、反近代の日本流の無私の対決と言えるかもしれません。有私と無私という図式ですね。この点については、今後も念入りに考えていきたいと思います。

 先崎彰容の『ナショナリズムの復権』を読みました。
 本書は、ナショナリズムが全体主義でもなく、疑似宗教でもなく、民主主義でもないということを示そうとしています。その上で、著者なりのナショナリズムの「復権」の意味するところも示しています。これらの試みが成功しているかは、正直微妙なのですが、こういった試みも必要なのだろうとは思います。
 本書では、ナショナリズムに関するいくつかの書物を参照しています。
 やっぱり、柳田国男は偉大ですよね。
 吉本隆明については、私はまともに読んだことは実はないんですよね。他の著作から、噂というか、雰囲気は何となく伝わってくるのですが、まったく読みたいという気がおきないんですよね。本書でも吉本について言及がありますが、やっぱり読みたいという気がおきなかったです。どうしたもんだろ? ま、いっか。
 本書で評価すべきは、ナショナリズムについて、柳田国男や江藤淳を参照して、「子孫」・「死者」・「時間の積み重なり」というキーポイントを提示していることです。このワードは、考察に値する価値が含まれていると思います。
 本書は、2000年に出た『貨幣・欲望・資本主義』に「補論」を追加して文庫化されたものです。
 『貨幣・欲望・資本主義』を私が読んだのは、およそ10年前です。時の経過に驚いています。
 「補論」では、〈「資本主義」とは、何よりもまずは「資本」の自己増殖運動〉と定義されています。さらに、〈「資本(キャピタル)」とは、まさしく「頭=頂(キャップ)」となる「資金」であり、将来に向けて先頭をきる資金である。文字通り「頭金」なのである〉と説明されています。本書では、この資本および資本主義に対し、著者独自の鋭い洞察が光っています。
 特に、グローバリズムに対する批判は重要です。著者は、〈グローバリズムの波において特徴的なことは、一方で、経済の世界的なネットワークが作り出され、資本が自由に世界を流動すると同時に、他方で、国家間の激しい対立が生じ、ときには戦争にまで至ったということである。グローバリズムの時代とはまた、国家間対立の時代でもあるのだ〉という指摘です。この指摘は、重く受け止めておくべきでしょう。
 今回、改めて文庫版を読んでみて、著者が一貫して正しいことを言い続けてきたことに敬意を表します。しかし、この正しい意見がほとんど顧みられることなく、リーマンショックを発端とする「百年に一度」の金融危機へと突入し、日本もそれに巻き込まれてしまったわけです。これは空しいと同時に、とても恐ろしいことだと思います。論理的で筋が通った意見ではなく、グローバリズムへの根拠なき熱狂が日本列島を覆っていたわけですから。さらに恐ろしいのは、そのことの反省もほとんど人々の頭に浮かんでいないという事態です。そんな恐ろしい時代においては、著者のようなまともな感性によって記された作品を読むことで、何とか自身の精神をまともに保とうとすることが大事なのだと思います。
 日本経済新聞「経済教室」面に「やさしい経済学―名著と現代」と題して2007年1月から7ヶ月間にわたって掲載されたシリーズの文庫版です。
 良くも悪くも日本経済新聞社的と評したいところですが、はっきり言うと、悪い意味で日本経済新聞社的な内容です。18名について解説がなされていて、良い論考もあるとは思いますが、なんだかなぁと思う論考も多いのが実情です。
 例えば、8章のヒュームの『人性論』の解説には、〈談合を和の論理で正当化する人は、消費者や国民をないがしろにしてはばからない。独占禁止法や談合防止法が必要な所以である(p.142)〉とあります。うんざりですね。談合は絶対悪なんでしょうか・・・。当たり前の話ですが、談合に限らず、世の中の仕組みのほとんどは、功罪を併せ持っているわけです。談合という制度が、独占を防ぐ役割を担っていたという側面もあるわけです。ヒュームは私の好きな人物の一人なのですが、その解説でこんな低レベルな意見を聞かされるとうんざりしてしまいます。
 また、13章のケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』の解説もひどいものです。ケインズの解説を読もうと思っているのに、突然に〈筆者の考えを述べてみたい(p.220)〉と勝手に自分の考えを語り出しています。うんざりです。その考えも、〈支出が乗数効果を生むなら、税負担は同規模のマイナス効果を生むはずである(p.220)〉という杜撰な論理で、公共投資を批判しているのです。もう「日本経済新聞」という名称は止めにして、「原理的新自由主義新聞」に変更すれば良いのではないでしょうか(投げやり)。

 本書は、漫画家の荒木飛呂彦さんの映画評論です。荒木さんの選ぶBest20も載っていて、面白く読むことができました。
 本書のすごさを個人的に言うと、少なくともBest3までは観てみたくなりました。Best20全部じゃないところが、逆にリアリティがある感じだと個人的には思うのだ。
 本書ではかなり謙遜していますが、荒木さん本人も破格な天才だと思います。例えば、〈ここまでの書き方からすると、僕がサスペンスの奥義を会得したかのように見えるかもしれませんが、そんなことはありません。いまだに優れたサスペンス映画を観ながら、自分も勉強している。今でもその途上にいます〉という台詞です。この言い方は、非常にうまいですね。
 さらに、あとがきでは、〈僕は、「人間」とは、家族や仲間、友人、恋人のことを何よりも大切にしている存在で、それこそが人生に目的を与えてくれるといってもよいと思っています。しかし、何かとても大切なことを決断するとき、あるいは病気になったとき、お腹が空いたりしたときには、結局のところ人間は「ひとりぼっち」なのです〉とあります。うん、天才だ。
 荒木さんは、〈「ひとりぼっち」でいることの恐怖に打ち震えるからこそ、人は、身近な付きあいから人類の共存共栄、平和まで、あらゆる人間関係を大切に考えます〉と言い、続けて、〈そしてそこに、サスペンス映画やホラー映画が存在する哲学的な意味もあるのだと思います。それらはときに、人間に与えられた恵みにさえ感じます〉と語っています。ここには、破格なレベルに達している感性と知性の融合がみられます。天才の語る言葉の妙味を味わうのは、贅沢なことだと思います。

 題名が長いですね(笑)
 題名は長いですが、内容はコンパクトにまとまっていて、読みやすかったです。三橋さんの本を読むと、希望が湧いてきます。ニヒルに構えて絶望的なことを言うより、事実に基づいて希望を語るのって、大変偉いことですよね。
 本書に文句を付ける気はまったくないのですが、異論がある部分について述べておきます。
 まず、〈「正しい問題認識」に基づいた「正しい政策」を実施する待望の政権がようやく現れる――市場はそのように判断し、大きな期待を抱いたのでしょう(p.6)〉という部分です。さすがに、これは言い過ぎでしょう。株価に関しては、雰囲気が先行している感は否めないと思います。ただ、それを利用して、実際の景気回復につなげれば良いとは思います。
 次ぎに、〈共産国家であれば、「銀行からこれだけ借りろ」とか「従業員の賃金を上げろ」などと命令することも可能でしょうが、日本は民主主義国家ですから、様々な政策によって環境を整え、企業の意欲を高めていくしかありません(p.16)〉というところです。これは、間違っていると思います。命令することは、民主主義的に民衆による歓呼の声が高まれば、ポピュリズム的に行われるようになります。命令を避ける性向は、民主主義ではなく、自由主義です。ですから、自由主義者が、環境整備や意欲を高めることを社会主義的だと批判することは理に叶っています。そのときは、社会主義だろうが自由主義だろうが、正しいことは正しいと言うだけのことになります。
 また、三橋さんは、〈マスコミのミスリードによって誤った認識が流布し、的外れな政策につながっているのが、今の日本なのです(p.102)〉と述べています。これは、まったくその通りだと思います。私は、公務員も農家も官僚も批判する気はありませんが、マスコミの卑劣さは許せないものがあると思います。