2014年4月アーカイブ

 『漫画は思想する』に、『アホガール(3) (ヒロユキ)』―内面と外面と―を追加しました。

 本巻でも、思想的な論点が示されている(はず)です。

 ほ、ほんとだよ(あさっての方向を見ながら)


『表現者54』

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 今号の特集は、「ITで人は幸せになったのか」です。
 気になった論文にコメントしてみます。


【「学問とは連れ合いの看病のこと」なのか 西部邁】

 人生経験の重みを感じることができる論文です。
 今の私では、決して書くことができない重みがあります。圧巻です。


【座談会 大衆=情報化社会の虚を暴く】

<p.025>
 もう一つは日本語の問題ですが、「大衆」という言葉が、マルクス主義の影響もあって良い意味で使われている。

→ ここには注意が必要かと思われます。
 「大衆」という言葉は、多くの僧の意味です。平安中期以後は、僧兵を大衆と称することもあったようです。つまり、「大衆」という言葉は、日本の歴史において、日本語として良い意味で使われていたわけです。
 ここには、保守派の唱える大衆論に、(参照すべき点が多々ありながらも)易々と与するわけにはいかない理由があるように思われるのです。


【幻想としての情報化社会 東谷暁】

 この論文も、人生経験の重みを感じさせてくれます。


【私の保守思想 死のトポス 中島岳志】

<p.154>
 
 デカルトは「我思う、故に我あり」と言いました。彼は、あらゆる存在を疑った末、「今自分が何かを疑っているということだけは疑えない」と考え、「思う」という行為によって、「我」が「ある」ことを証明できると考えました。
 しかし、死は「思う」こと自体を消滅させます。「我思う、故に我あり」という認識に立つと、「思わない我」は存在しないことになります。そうすると、私という主体は霧散霧消し、「我なし」という状態に突入することになります。

↓↓↓

( ゚д゚)

 (つд⊂)ゴシゴシ

(;゚д゚)

 え~~~っと(汗)
 デカルトが何を問題としていたのかがポイントになります。
 「我思う、故に我あり」という視点(「世界」でも「パースペクティブ」でも良いですが)に立つなら、そもそも「我なし」という状態に突入することが、原理的にできなくなります。
 「我思う、故に我あり」という視点とは別の視点を設定することによって、「我なし」という状態に突入することができるようになります(このことは、デカルトの「我思う、故に我あり」が意味しているところを感動をもって味わった者にははっきりと分かると思います。逆に、そうではない者にはほとんど分からない可能性があります)。
 つまり中島は、論者の問題としている土俵(「状況」でも「問題意識」でも良いですが)を意図的にずらして、自身の見解の補強としてしまっているわけです。この人の得意技なんでしょうか・・・? 私の記憶が確かでしたら、そんな手法を前にも使っていたような気がしますが・・・。


 野田又夫さんの『哲学の三つの伝統』は、〈三つの源から流れ出る三つの流れ〉として、〈ギリシア古代哲学、インド古代哲学、中国古代哲学〉が分かりやすく説明されています。この三つの哲学と、日本の思想・哲学との関係についても、分かりやすく解説されています。
 しっかりした哲学的素養の上で、日本の思想・哲学と、他国の哲学の検討なども為されており、非常に興味深いです。例えば、織田信長とマキアヴェリの比較があり、〈豊臣秀吉が若くして仕えた織田信長は、全く非宗教的な人物であり、速い決断と果敢な行動を示しました。もし信長がイタリアに生まれておればマキアヴェリの感嘆を得たであろうと思われます。二人はほぼ同時代人であります〉と解説されています。他にも、ホワイトヘッド哲学と西田哲学との相違が示されています。〈手ばやくいってしまえば、第一に、形而上学の中心軸を、西田哲学は倫理的宗教的な自己の存在にとっているのに対して、ホワイトヘッド哲学は生命的自然に関心し、美的調和を世界において見ようとしている、といわれるであろう。第二に、そのことと関連して、西田哲学は矛盾の自己同一という弁証法的論理を哲学の論理とし、ホワイトヘッド哲学はどこまでも数学的形式的論理を哲学の論理とするのである〉と説明されています。


 論理学者であり『不思議の国のアリス』の作者でもあるルイス・キャロル。そのキャロルの論理学集である『不思議の国の論理学』を読んでみました。
 眼目なのは、やっぱり「亀がアキレスに言ったこと」ですね。ここの論理構造は、こういう風に示されないと、おそらく一生気づかない種類のものです。それらを鮮やかに記述するということで、論理的なセンス(それも天才によるセンス)を見ることができます。さすがですね。
 「あとがき」には、キャロルの文章を日本語に訳す苦労が編者によって語られています。この本を読むことで、言語における普遍性と特殊性の複雑性の一端には触れることができると思います。そして、それがとんでもない化け物だということも。