2013年5月アーカイブ

 本書では、ニーチェの哲学についての解説がなされています。賛同できる箇所と異論がある箇所があるので、気になったところにコメントしていきます。

 

<p.6 はじめに>
 『ツァラトゥストラ』は、超人(候補者)のための書なのであり、それを自覚している者にとってだけの書なのである。そんな強者は(ニーチェ自身を含めて)これまで地上にはいなかったし、これからもいないであろう。だから、誰のための書でもないのだ。

→ 中島は意外にも常識人であるため、ニーチェの意図から離れた地点で超人について語ってしまっています。ニーチェはある種の常識人ではなかったので、真剣に、大真面目に、超人を説いているのです。これは、実際に驚くべきことです。
 ここを捉え損なうと、ニーチェを誤解するか、ニーチェに飲み込まれることになります。

 

<p.31 第2章 ニヒリズムに徹する>
 ニヒリズムは、もっぱら「キリスト教の神が死んだ」すなわち「もともとキリスト教の神はいなかった」という衝撃に起因するはずなのだが、それを非キリスト教徒であるほとんどの日本人が大真面目に「われわれの問題」としてとらえ、しかもそこにほとんど疑いを抱かない。

→ まったくその通りです。〈われわれは「ニヒリズムの克服」などという軽口をたたくようになるのだ(p.42)〉という皮肉も正しいです。それゆえ、一部の保守主義者がいうように、保守主義によってニヒリズムを超えたり、そこから顔を出すといったことは、原理的に出来ないのです。そこが、ニーチェと対峙する際に、決定的に重要なポイントになります。

 

<p.33 第2章 ニヒリズムに徹する>
 ニーチェを娯楽として、息抜きとして、生活の飾りとして、教養として、読むのもいっこうに構わないのだ。だが、そうなら「私はニーチェを単なる娯楽(生活の飾り、息抜き、教養)として読んだのであって、私の人生観はまったく変わらなかった」と語るべきであろう。

→ こういうことを言ってしまう人物、つまり中島は、強烈な娯楽は人生観を浸食してしまう可能性について極めて鈍感です。だから、私はこう言うのです。「私はニーチェを読み、それを娯楽の位置に留めた。よって、私の人生観は、ニーチェの哲学とは決定的に異なることを理解し、私の人生観はより良くなった(別の言い方をすれば、私の人生観はニーチェと異なることによって補強されたのだ)」と。

 

<p.52 第2章 ニヒリズムに徹する>
 格率が定言命法に妥当するか否かは、間主観的妥当性を必要とせずたった一人で理性に問いかければいい。

→ ここは疑問が残ります。例えば、中央公論社『世界の名著39 カント』の『人倫の形而上学の基礎づけ』には、「道徳の原理を提示するための記述の三つの仕方」が以下のように示されています。

(1)汝の格率が普遍的法則となることを汝が同時にその格率によって意志しうる場合にのみ、その格率に従って行為せよ。
(2)汝の人格の中にも他のすべての人の人格の中にもある人間性を、汝がいつも同時に目的として用い、決して単に手段としてのみ用いない、というようなふうに行為せよ。
(3)すべての人間意志がそれのすべての格率によって普遍的に立法する意志であるという原理

 本件は、(1)だけなら間主観的妥当性は必要ありませんが、(2)と(3)を考慮すれば、間主観的妥当性は必要な条件になると思われます(この点は間違っていたら修正します)。

 

<p.87~88 第4章 人生は無意味である>
 「誠実」という言葉を金科玉条のように祭り上げるのはやめたい。だが、ニーチェの場合、「誠実」とは神の声(キリスト教)あるいは理性の声(カント)に従って生きるという意味(これが「誠実」の伝統的・正統的意味であろう)とはおよそ異なった響きを持っている。

→ 永井均の『これがニーチェだ』には、〈むしろ神など存在しないと信じることこそが、キリスト教的に誠実な態度なのである〉とあります。また、〈キリスト教によって育てられた敬虔な無神論が生まれる〉ともあります。その上で永井は、〈私は二つの問題を感じる〉と述べて、さらに哲学的思索を進めています。そこでの洞察も素晴らしいものです。
 ここでの中島の哲学的感度は、残念ながら永井より少なくとも二段階は格下だと言わざるをえません。そもそも、本書そのものが、永井の『これがニーチェだ』と比較すると・・・。いや、これ以上は言う必要はないですね。

 

<p.100 第4章 人生は無意味である>
 ツァラトゥストラが死ななければ、彼は永遠回帰を体現できないであろう。彼が死ぬことによって、彼は「一つの生」をまっとうし、それを永遠回繰り返すという世界に入る(それを認識する)ことができるのだ。

→ これは・・・、マジですか?
 ここは、完全にニーチェを読みそこなっています。こういう風に永遠回帰を捉えてしまうと、ニーチェは「最後の審判」や「天国と地獄」と同じタイプの支配システムを構築したことになってしまいます。ですから、ニーチェの永遠回帰をこのように捉えることは、ニーチェへの誠実さのために、決してしてはならないのです。

 

<p.111 第5章 「人間」という醜悪な者>
 「神は死んだ!」というニーチェの叫び声には「騙された!」というトーンが強烈に響き渡っている(これを聞き分けない、あるいは聞き分けようとしない研究者がいることが不思議である)。

→ たしかにそうなんですが、それだけだと足りないのです。再び永井の『これがニーチェだ』を引用しますが、ここでは〈神の死がどうにかしなければならない一大事として語られている〉のです。

 

  色々と述べましたが、意見の相違によって自身の見解を補強できたという面で、本書は読むに値しました。中島や永井の意見を参考にしつつも、ニーチェとは、ある意味において、自分の意見を持って、一度対決しておく必要があると思います。

 本書は、亀山郁夫さんとリュウドミラ・サラスキナさんが、ドストエフスキーの『悪霊』について語ったものです。特に、『悪霊』におけるスタヴローギンとマトリョーシカの二人の結末についての裏話に興味をかきたてられました。
 ドストエフスキーには考えてみるべき思想が含まれていますから、小説をどう捉えて消化するかは結構重要というか、せき立てられてしまいます。興味のない人は、全然興味ないんでしょうが、気になる人は気になりますよね。
 スタヴローギンの自殺については、小説内だけでは理由の特定は不可能な気がします。こういった本で、裏話からドストエフスキーの意図を考慮することで、見えてくるものがあります。なぜ、スタヴローギンは自殺したのか? それに対する私なりの仮説はありますが、それは置いておきます。
 サラスキナさんは、〈スタヴローギンは本当に悔いていないし、マトリョーシャを可哀想だと思っていません。彼女を陵辱したことを悔やんでおらず、ただ彼女が彼に拳を振り上げ、脅しつけようとした思い出に苦しんでいるだけです。これは幻であり、白昼夢であり、彼に穏やかな気持ちを与えることはありません〉と述べています。でも、これって理由になってないですよね。ですから、スタヴローギンの自殺については、謎として読者の心に残されるんですよね。よって、読者は、その理由を自身で構築することを求められます。その理由の如何によって、その読者の思想があらわになるわけです。それがドストエフスキーの思想と呼応するかは、また別の問題になりますけどね。
 本書では、邪悪性について、〈自分自身の病める自我の統合性を防衛し保持するために、他人の精神的成長を破壊する力を振るうことである〉と定義されています。
 邪悪な人間がいっぱい出てきます。人間の邪悪さを見るのって、ほろ苦いですね。体験すると、苦いどころじゃないですが。
 真実はときとして残酷ですが、残酷な真実を知っておくことは、大人になるための大事な条件ですよね。
 マーク・スタウト氏の『良心をもたない人たち』を読んでみました。記述がけっこう客観的であり、それでいて面白く読み進められました。
 私も、おそらく「良心をもたない人」と仕事の上で関わったことがありますが、こちらの精神にダメージがきてかなりきつかったです。今は関わりあいにならないようにしていますが、そうした人たちから自分を防衛するためにも、知識として知っておくことは役に立つと思います。特に、頭の良いサイコパスは非常に対処が難しいですし。
 誰もが良心に訴えてうまくいくわけではないという残酷な事実を知っておくことは、良心を持つ人にはつらいことかもしれませんが、必要なことだと思います。

 本書は題名が『保守の辞典』ですが、辞典という観点から言うと少なくない問題点が指摘できます。

・言葉の定義以上のことが長々と語られていること。
・「伝統」という言葉で言えば、【はじめに】、【保守】、【伝統】、【公共活動】などで、少しずつ表現をかえて定義されていて、辞典としては構成がまとまっていないこと。
・辞典なのに、時制に即した表現が多いこと。例えば、アメリカの大統領がブッシュとして論じられている箇所がある。辞書なら、時制に影響されないような抽象的な表現を行うべきでは?

 辞典という観点から言うと、西部邁が以前に出した『学問(講談社)』の方がずっとふさわしいと思われます。119のキーワードが簡潔に論じられているからです。
 本書に書かれている内容はともかく、辞典という観点からすると、『保守の辞典』は辞典としては使いにくいと言わざるをえません。本書の内容は『表現者』に載っていたものですが、『保守の辞典』として単行本化するのでしたら、大規模な再構築が必要だったと思います。

 東谷暁さんの『経済学者の栄光と敗北』は、ケインズ以降の有名経済学者の経済思想が簡潔にまとめられていて面白くてためになります。
 経済学って、他の学問に比べてかなり酷い論理と成果して出せていないですよね。例えば政治学なら、第二次世界大戦後は民主主義万歳の愚論が跋扈していますが、それを批判するための政治論理は既に過去の偉大な思想家によって用意されているわけです。ですが、経済学の場合、市場経済への懐疑的批判といった点で参照に値する人物などが非常に少ないわけです。重要な人物としては、ケインズとか、ポランニーやミンスキーとかですね。さすがにマルクスもってきてもどうにもなりませんしね・・・。
 本著では、14名の経済学者の人生と理論が適切に紹介されていますので、今後読んでみたい人物と、読まなくてもいっかと思った人物が分かってよかったです。