『楢山節考(新潮文庫)』深沢七郎

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 『楢山節考』は、姥捨て山の話です。この話を通読することによって、ヒューマニズムと反ヒューマニズムの関係を考察することができます。
 姥捨てという掟のあるこの村では、楢山へ到着したときに雪が降れば運が良いとされ、年を取っても歯が全部残っていることは恥ずかしいことであり、楢山へ早く行くことが山の神さんにほめられることなのです。
 現代人の中には、これらのすべてに嫌悪感を抱く人もいるでしょう。しかし、それは、その人がヒューマニストであり、それゆえ、卑劣な人間であることを暗に示していることになるのです。姥捨ての構造を注意深く考察すれば、そう言わざるをえないと思うのです。なぜなら、ヒューマニズムの立場から姥捨てを非難することは、相手の置かれた立場に自身を重ねて考えるという、人としての最低限の礼儀も守っていないことを意味しているからです。ある種の境遇に立たされた人に対し、それを別の恵まれた立場から非難するということは、人間として最低の行為の一つです。
 姥捨てをしなければならない状況に立たされているか、姥捨てなどしなくてもよい状況に立たされているか、それは、当人の努力などほとんど関係のない端的な時代のせいであり、つまり、運なのです。その運に対しての考え方によって、人間の程度が知れるのです。
 さらに、姥捨てという掟によって、人間の精神の偉大さというものが、その掟があることによって浮かび上がるのです。また、その姥捨てに対する態度によって、その時代状況から離れた人物の精神のあり方も浮かび上がるのです。
 姥捨てとは、人間の精神が偉大であることがあり得るという、偉大な物語の一つだったのです。それゆえ、もし人間の精神に偉大さがありえると思うのなら、その人は、ほとんど必然的に、反ヒューマニストとなるのです。

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