『日本思想史新論(ちくま新書)』中野剛志

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 中野剛志さんの『日本思想史新論』を読みました。日本思想の健全性を明確に論じており、面白くてためになります。
 先に、二点だけ違和感を覚えたところを述べておきます。
 一つ目は、構造改革批判として、p.18で〈世界第二位の経済大国の地位からも陥落した〉と述べている箇所です。構造改革が批判されるべき事柄であることには同意しますが、その根拠に経済大国からの陥落を言うのはあまり宜しくないと思います。国民数や国土面積や鉱物などを含めた国家条件を考えるに、日本国家が世界第二位以上の経済大国でい続けることは、メリットよりもデメリットの方がはるかに大きいと思われるからです。
 二つ目は、伊藤仁斎について、p.74で〈仁義礼智は厳密には定義できないし、すべきではないというのが仁斎の考えであった〉と述べている箇所です。私には、これは間違っていると思えるのです。人倫日用を重んじる仁斎は、多角的に言葉を捉えようとしているのだと思います。例えば仁については、『童子問』には〈仁は愛を主として、徳は人を愛するより大なるは莫し〉とあり、『語孟字義』には〈道とは、天下の公共にして、一人の私情にあらず。故に天下のために残を除く、これを仁と謂う〉とあり、『古学先生文集』には〈仁は愛のみ。けだし仁者は愛をもって心とす〉とあります。これらの意見を総合的に視ることで、仁という言葉を明確に指し示すことに成功している、と私には思えるのです。
 
 次に、論理構成として素晴らしいと思えた箇所を以下に挙げてみます。

<p.85>
 多くの現代人が「これこそ、これからの正義の話だ」と有難がって読んでいると知ったら、仁斎は苦笑したのではないだろうか。
<p.181>
 それを単なる封建反動としてしか解釈することのできない後世の学者たちは、プラグマティックなセンスにおいてはもちろん、国民国家という政治秩序に関する理論的な理解、さらにはナショナリズムがはらむ危険性に対する洞察においても、正志斎よりはるかに後れているのである。
<p.200>
 子安の解釈は、福沢諭吉と会沢正志斎の双方に対する根本的な誤解に基づくものに過ぎないのである。

 上記の文章は、ここだけ読んでも何のことか分からないと思うので、是非本書を読んで前後の文脈を確かめてください。見事な論理展開、およびこの結論の妙味を味わうことができると思います。

PS.
 本書の批判として、『文明論之概略』と『帝室論』『尊王論』では、福沢諭吉の皇統に対する考え方が変わっているのだという意見がありますが、間違っています。p.198の〈王室の連綿を維持し、金甌無欠の国体をして〉という文章は、1874年のものであり、『文明論之概略』は1875年の刊行だからです。

<追加>
 本書に対し、「仁斎・徂徠が「プラグマティズム」などという言葉・「今言」を全く知らなかった事実」を持ち出して批判している意見が出ているので、間違いを指摘しておきます。
 言語学用語に、意味しているものである「シニフィアン」と、意味されているものである「シニフィエ」の区別があります。記号と意味の区別と言ってもよいですし、中野さんは「言葉と言葉が指し示す対象」と述べています。
 荻生徂徠は『弁道』で、〈今文を以て古文を視、しかうしてその物に昧(くら)く、物と名と離れ、しかるのち義理孤行す〉と言い、〈礼楽刑政を離れて別にいはゆる道なる者あるに非ざるなり〉と述べています。「物」とは具体的な文物や制度などであり、「名」とは道などの抽象的な名称のことです。徂徠は、今の文章理解によって古文を読むため、物と名が合致せずに理論だけが先走っていると批判しているのです。シニフィアンが同じでも、シニフィエが違うと言っているのです。
 一方、中野さんは、実学とプラグマティズムは、シニフィアンが違っていても、シニフィエが同じだと言っているのです。
 両者とも、シニフィエの次元で意見を述べているのです。それを、シニフィアンが違うとトンンチンカンなことを言って批判している気になっている人がいます。本書を読んでも内容が理解できておらず、徂徠を読んでも内容が理解できていないと言わざるを得ません。

コメント(7)

大枠ではモト氏とほとんど意見が変わらないと思うが、少し論じておくと

>日本国家が世界第二位以上の経済大国でい続けることは、メリットよりもデメリットの方がはるかに大きいと思われるからです。

のくだりですが、どう控えめにみても日本国の供給力は資源がないなりにも凄まじいので、まともな経済(デフレではない経済)を保つ場合、否応が無く経済大国に『なってしまう』というのが正確。
無論、将来的にはエネルギーや工業原料の残量によって供給制約が発生する可能性もあるが。

また、国力論と日本思想史新論を読んだならば、少し前の恐慌の黙示録を読むのもオススメします。
大恐慌と向き合った経済学者達の考察において、中野氏の『本質を見抜く力』の骨頂が垣間見えるいい著作だと思います。

>日本国の供給力が凄まじいのは、働かせ方の問題もあるんですよね。

ここにも大きな誤解があると思うんですよ。
GDPはものすごく頑張らないと伸びない、みたいな考えがある気がするんですね。
朝日の『くたばれGNP』と同じ流れ。
実際には、働き方がキツくなる理由にはデフレがあります。
なぜなら、デフレ経済下では供給過剰なので、人員切捨て圧力がかかる。
また、利益が減少するので賃金安圧力がかかる。
その二つの圧力と強いシナジーを持つのは『少人数に薄給で激務をやらせる』という勤務形態なんですよね。
だから完全失業者が300万人ちかくいて、ニートが100万人に達している現在でも、『仕事がむちゃくちゃ忙しい』ということが起こるのは、別に変な事象じゃなくて、デフレ下ではごくごく普通のあり得る事象なんですよ。
これがもう少しまともになる(インフレになる)ならば、失業者や無業者の参画も増えてかなり勤務は楽になり得るし、失業率が下がると勤務環境が改善に向かう自明の関係があります。

また、インドやブラジルなどを以って日本の凋落を論じる人がかなりいるんですが、あの二国はいまだに先進国の需要をあてにしている部分がかなり大きい。そこを脱却できるまでは少なくとも、日本悲観論を弄するのは早いと思います。

世界第二位になるべきか否かというのは潜在GDPによる評価でなければなりません。
潜在GDP=供給力の観点からすれば、経済が巡航速度に乗っている場合、日本は必然的に世界第二位にならざるを得ない経済規模にあるというわけです。
なので、『世界第二位じゃなくてもいいじゃん』という思想については理解を示しますが、経済が巡航速度に乗るという前提に立つなら、その結果は世界第二位ということになってしまいます。(強調しておきますが、世界第二位は目標ではなく、デフレ脱却を前提とする場合不可避な結果なのです)

また、モト氏の印象と相反することに、過労死認定はデフレ突入後に大きく伸びています。
それはデフレ下において経済合理的に薄給激務が強いられるということの最大の証明であり、またデフレを脱却すれば改善するものであることを指します。
そして労働待遇の改善には失業率改善が不可欠であり、それはデフレ脱却なくして成功するものではありません。

平均労働時間で計るには問題がいくつかあって
?パートタイマー・アルバイターの増加の影響。
?サービス残業の存在。
ここがネックになってしまう。
デフレ下では採用リスクを抑えるため、非正規雇用が増加し、その結果?によって平均労働時間が減る。
加えて、賃金安圧力に対応するため、企業は経済合理的にサービス残業を常態化、?によって平均労働時間が減る。

また、バブル崩壊以降で過労死・過労疾患に対する基準改定が行われたのは1995と2001であるが、基準改定のみを根拠とすると1997-1998の過労死増、1998-2000の過労疾患増、2008-2009の過労死増を説明できない。
統計を照らし合わせれば、物価変動と大きく呼応しているのが分かると思う。

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