『レジーム・チェンジ(NHK出版新書)』中野剛志

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 本書は、現在の日本の大問題であるデフレ脱却へ向けた論理と政策を述べた本です。構成がしっかりとねられていて、非常に分かりやすいです。
 p.171の〈今、日本はデフレですから、やるべきことは当然、国債発行による資金の吸い上げです〉という箇所など、『表現者』という雑誌を読んでいる人なら分かりますが、長年まともな人は言い続けてきたことなんですよね。
 大筋で正しいことが書かれてい本書ですが、同意できないところもあります。p132には〈「デフレ・レジーム」とは、要するに、市場原理主義であるだけではなく、反民主主義でもあった〉とあり、p132~133には〈デフレ・レジームが公共投資を目の敵にするのは、それが、「市場の原理」に反する「民主政治の原理」の典型だから〉という部分です。私は、民主主義的には、市場の原理が賞賛されることもあれば、非難されることもあるとしか言えないと思います。日本の構造改革では、市場の原理は民主主義において賞賛されてきたわけです。
 中野さんは、デフレ・レジームは反民主主義であり、それゆえ、そこからの脱却を唱えているのだと思います。しかし私は、デフレ・レジームは民主主義的に日本の人民に歓呼の声で迎えられてきたのですから、民主主義(それゆえ民意)への批判とともに、そこれからの脱却を唱えるべきだと思うのです。小泉政権下の構造改革など、ほとんど大失敗だったことが明らかになっていますが、民主主義的に民衆の歓呼の声によって迎え入れられたため、いまだに小泉元首相は人気者というありさまです。
 トクヴィルの『アメリカのデモクラシー(岩波文庫)』には、〈あらゆる種類の山師は民衆の気に入る秘訣を申し分なく心得ているものだが、民衆の真の友はたいていの場合それに失敗する。そのうえ、民主政治に欠けているのはすぐれた人物を選ぶ能力だけではない。ときにはその意志も好みもないことがある〉とあります。なるほどな、と思えますね。

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民主主義的に求められたものが、反民主主義的であることは往々にしてあります(その最も象徴的な事例としてヒトラーがしばしば引用される)。
ブルードンが『民衆は首領を求める』と言ったように、所謂「お上主義」というものが洋の東西を問わずあって、それに対する批判を民主主義(機能的な民主主義と言ってもいいだろうか?)から加えることは別におかしくないと思います。

デフレレジームの礼賛が云々・・・についても同じことで、民主的に求められた反民主的施策を、民主主義の観点から批判するのは別に変じゃなくて、むしろ現代民主主義国家が常に戦ってる課題でしょう。

?民主主義(ひいては、機能的な民主主義)の定義

個人的には『議論を前提とした多数決』としています。
また、その範囲を特に『国民』(nation)という範囲に限定したものと設定しています。
以上故、多数決が成立するかどうかのみならず、議論の自由度の奈何が非常に重要なファクターと考えます。(そのため、記者クラブなんぞがある日本は程度の低い民主主義国家というわけですけれども)

?デフレ・レジームの反民主主義的性質について

中野氏が反民主主義的と糾弾するのは、デフレ・レジームの中でも特に『グローバル化』一点です。
国民という単位を超越した意思決定(およびその固定)が含まれるからですね。
自国の権力で行う民主主義弾圧をファシズム等とするなら、グローバル化は他国の権力で行う民主主義弾圧というわけです。
(ただ、デフレ・レジームの骨格をなす新自由主義は、古典派の評価を原点としており、古典派は主にグローバル化を肯定する枠組みだったので、デフレ・レジームはその性質としてグローバル化を不可避的に顕します)

後半の民主主義に関する叙述はまったくもって同意するところです。
故にプラトンの哲人政治思想に関してもその奈何はどうあれ同情するところがありますし、トクヴィルの指摘した知識人の重要性ももっと注目されるべきと考えます。

『国民の定義』の問題でしょうか?
僕個人としては『民主政国家において唯一民主的に決定できないことは、誰を国民と規定するかどうかである』と考えており、国と国民は循環的に定義され、またそれゆえ、民主政を統治体制とする国家において民主主義とは不可避的に国民主義となる・・・という解釈です。
もし国民主義でない民主主義があるとすれば、それは国家の否定に他ならないと考えます。実際、外国人参政権は採用されている国でも地方政治に限るのが普通なはずです。
歴史的経緯としても、現代の統治形態としても、民主主義と国民主義は補完的かつ同時的であり、分かつほうが不自然でしょう。

あえて国民主義的でない民主主義を考えるなら、コスモポリタニズムと合体した民主主義を想定することになりますが、これは『世界国』とでもいうべき政体の出現にいたらざるをえず、結局元の木阿弥になりますし。

>帰化条件や参政権を含め、国民の規定は民主制によって決定できます。

その規定を決める国民はどうやって決めるのですか?
という風に遡って行くと、どうしても歴史や慣習に基づいた非民主的国民決定にたどり着かざるを得ない。
そして、その非民主的国民決定が、また後々の国民範囲を制限するわけです。(外国人参政権に対する各所の反発などはその典型ですし、どの国も帰化に一定の条件を設けています)

ギリシャの件にせよ、岩波 哲学・思想辞典の記述にせよ、それこそ私が指摘する、民主主義による反民主的施策になるわけです。

国家統治を行う民主主義は、必然的に国民主義であります。それに抗うことは出来ません。非国民主義であろうとすれば、同時に非民主主義になります。(ギリシャはその代表例ですね)
国家統治において民主的意思決定とは、国民的意思決定のことなのです。

地球市民的民主主義を展開するならまず地球市民とそれを統治する地球政府(世界政府)が成立しなければならない。
それって単に地球国(世界国)が成立するだけで、民主主義が国民主義と補完的かつ同時的であることの反証にならない、という話です。まあ世界国が成立するかどうかという点は置いておいて。

>その国民が、歴史や慣習に基づいたことを民主的に選び取る場合もあれば、歴史や慣習に反したことを民主的に選び取る場合もあるというだけの話です。

国民の範囲の拡大は、歴史にあたらないのですか?
例えば、これは極端な例ですが、住民票を国籍と同等扱いし、多重国籍を認める決定を(非民主的国民決定にさかのぼることが出来る国民によって)なされたとして、それは『より多くの人々を国民として認めよう』という歴史の動きであり、歴史に反するというのはややおかしい話です。
実際には、皆国民の資格というものをもっと厳密に縛っている(=慣習に縛られている)ので、そういうことは起こらないのですが。
それで、もし国民の範囲が以上の例で拡大したとして、それは国民の拡大を示すだけで、民主的意思決定プロセスが国民に付与されるという事態はそのまま。相変わらず民主主義と国民主義が補完的かつ同時的に成立しています。

>「国民主義的でない民主主義を考えるなら、コスモポリタニズムと合体した民主主義を想定することになりますが、これは『世界国』とでもいうべき政体の出現」と述べた舌の根も乾かないうちに、「地球国(世界国)が成立するだけで、民主主義が国民主義と補完的かつ同時的であることの反証にならない」と述べるような人に対しては、何を言っても無駄です。自分で白だと言ったことを、次の瞬間には黒だと言うような人とは、議論をする意味がないので、そのような場合、今後は相手をしません。

この部分は本当に意味不明なのですが、モト氏の述べた『民主主義+グローバリズム』というのが、国家を超えた民主的意思決定を指すと思ったので
「国家を超えた民主的意思決定って、結局もっとでかい国にならないと成立しないんじゃね?」
ということを指摘したにすぎません。
つまりモト氏は、反国民主義的民主主義を定義しようと頑張るも空しく、国民の拡大か国家の拡大に行き着いていて、結局国民主義と民主主義の補完性・同時性から逃れることが出来ていないわけです。


民主主義による反民主的施策とは、民主的意思決定の放棄のことです。国民主義と民主主義の補完性ならびに同時性に関する議論とは、やや離れた点にあります。
そこをごっちゃにされてはまとまるところもまとまりません。

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