『官僚の反逆(幻冬舎新書)』中野剛志

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 本書の背景には、〈つい最近まで官僚だった者たちが「外国の力を国内に意図的に引き込んで、日本の政治を動かしてやるのだ」と公然と言って憚らない世の中となったのである(p.14)〉という事態があります。こんな官僚が政治に関わっている国は、普通に考えてやばい状況にあります。本書ではこの異常な状況に対して、鋭い洞察が示されています。
 中野氏は、〈改革であれば事態を悪化させるものであっても正当化出来るというわけではない(p.54)〉と至極まっとうなことを述べています。あまりに当たり前なのですが、今の日本は、改革案の検討もまともに行わず、改革の結果に対する反省すらまともに行っていないという危機的状況なんですよね。
 中野氏の意見で注意が必要だと思われる箇所は、〈自由民主主義を守るために、暫定的に自由民主主義を否定せざるを得ないこともある(p.19)〉というところです。〈自由民主政治は本質的にナショナルである(p.190,191)〉という点を考慮すると、国家の自尊自立を守るために、暫定的に自由民主を否定せざるを得ないこともあるというのが正確な言い回しだと思われます。
 中野氏は民主政治について、〈間接民主的な「自由民主政治」」(p.145)〉と〈直接民主的な「大衆民主政治」」(p.145)〉の二つのタイプに分類していますが、ここら辺の定義にも注意が必要です。間接民主政治は、どちらかというと貴族政治(本書に即して言うならエリート)と民主政治の混合として捉えるべきだと思われます。プラトンが『国家』で考察しているように、民主政治が自由と融合したとき、むしろ大衆迎合型の政治になってしまう可能性を指摘できます。大衆化に抗するには、自由そのものではなく、エリート(貴族)の要素が必要なんですよね。エリートは規範を引き受けるところに生まれるわけですから、束縛の不在である自由とは重ならない部分もあるわけです。
 また、〈奇妙なことに実際には、新自由主義的な構造改革もグローバル化も民主政治の支持、しかも熱狂的な支持を得ていたという例が少なくないのである(p.142)〉とあり、〈新自由主義によって破壊される民主政治もあれば、新自由主義を歓迎する民主政治もあるのである(p.144)〉と指摘されています。この見解は、きわめて重要だと思われます。

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