『心と他者』は哲学書です。分かりやすい文章で、一歩ずつ哲学を進めています。本書では、著者である野矢の意見に対し、師である大森荘蔵のコメントも記載されています。
例えば、p.106の〈独断的に私の意見を述べておくならば、いっさいの身体運動や状況と切り離された純粋に心の状態ないしできごととしての意志なるものなどありはしない、と私は考えている。〉とあります。この意見に対し、大森は〈これは私の意見〉とコメントし、野矢は〈はい。〉と返しています。微笑ましいですね。
本書の中で、私が素敵な表現だと思った箇所を紹介してみます。
何か〈神〉は勘違いしているのじゃないか。
勘違いしているのである。(p.103)〉
人間たちは人間どうしのつきあいをこのような心ある描写を用いる形で定着させてきた。なぜ、そうした生き方をしているのか、根拠などありはしない。ただ、長い歴史と伝統があるのみなのである。(p.117~118)
現在のわれわれにとって、人間はけっしてたんなる物ではない。あるいは物プラス心というのでもない。人間は物とは根本的に異なった〈心あるもの〉なのである。(p.118)
たんなる世界の眺めであったものが私の心の眺めとなるには、心ある他者の存在が不可欠なのである。(p.136~137)
私は心を登場させるその契機をこそ、〈他者〉と呼びたい。他者がいなければ世界はただ透明にその姿を現すだけであろう。他者の存在によってはじめて、世界は透明性を失い、心という襞をもつ。(p.145)
それゆえ、たんにアメとムチを与えるだけではなく、アメやムチが与えられる理由もまた、明らかにされねばならない。(p.321)
上記に挙げた記述は、前後の文脈とあわせて読むと、その妙がより深く味わえると思われます。良書なので、「心」って何だろうとか考えたことのある人は、少なくないヒントが得られると思うのでお勧めです。
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