『哲学の密かな闘い』は、永井均が最近数年間に書いた論文を集めたものです。
本書については色々なことが言えると思います。本書をただ読むのではなく、本書における永井均の意見について考えることで、哲学することができかもしれません。例えば、本書の導入部の記述について、私なりに哲学(もどき)をしてみようと思います。
「人生」における「悩みのレッスン」について、永井は次のように語っています。
変な比喩ですが、真っ暗な宇宙の中に一台のテレビだけがついているさまを思い浮かべてください。テレビの番組が社会にあたり、テレビがついていることが生きていることにあたります。どの番組も全然つまらないかもしれません。これから始まる番組が面白いという保証もありません。でも、テレビそのものを消してしまえば、ただ真っ暗闇です。もう一度つけることはもうできないのです。番組の内容とテレビがついているということは、実は別のことです。ですから、「なぜ生きているのか」という問いは、番組の中身を超えた問いなのです。
番組のつまらなさが、テレビがついていること自体の輝きを上回ってしまう場合もありうるでしょう。それでも、つまらない番組を見ないために、その世界の唯一の光を、無限に時間の中に与えられた唯一の例外的な時を、抹殺してしまってよいでしょうか。それは一種の「越権」ではないでしょうか。
これが、人が生き続ける理由だと思います。
ここの言説には、思わず頷いてしまいそうになる説得力があります。ですが、ここで一文一文をしっかりと見ていくと、間違い、もしくは嘘が含まれていることが分かります。
番組の内容とテレビがついているということは、確かに別のことです。この差異を考慮して答えるなら、「なぜ生きているのか」という問いは、番組の中身を超えた、番組の中身における問いだということが分かります。「テレビがついていること」という「番組の内容」における問題なのです。
永井は「テレビがついていること自体の輝きを上回ってしまう場合」を示しながら、「越権」を提示するという無理のある論理を展開しています。なおかつ、それを、「人が行き続ける理由」だと述べています。
間違っています。それが「越権」であるのは、「テレビがついていること自体の輝き」を最高位に置いている人物にとってのみなのです。「テレビがついていること自体の輝きを上回ってしまう場合」がありふれていることを知っている人にとっては、それは「越権」ではありえないのです。永井は、ここで永井の言う意味での「哲学」ではなく、永井均の宗教を語ってしまっているのです。
「テレビがついていること自体の輝き」を「人が生き続ける理由」に結び付けてしまうことは、哲学的に間違っていますし、思想的には幼稚です。「テレビがついていること自体の輝き」は、「人が(現に)生きている理由」ではありますが、「人が生き続ける理由」ではないのです。それゆえ人は、自分が生き続けるために、思想における理由を探し求めるのです。
永井の言う哲学においては、「人が生き続ける理由」を示すことはできません。それゆえ永井は、ここで、「善なる嘘」を語っているのかもしれません。そうであるなら永井は大人として意見を述べたのであり、私は幼稚にも「邪悪な真理」を語ってしまったことになります。
PS. 『なぜ人を殺してはいけないのか?』の永井均の文章より
私の用語としての「善なる嘘」は、事実に反している(ことは知っている)が、それが事実であるかのように語ることで世の中がよくなるような言説のことである(その逆を「邪悪な真理」という)。
コメントする