一時期ハイデッカーの弟子でもあったレーヴィットの『共同存在の現象学』を読んでみました。オルテガの『個人と社会』に若干似ているかなという印象を受けましたね。もちろん、ハイデッカーの影響も比較的強い作品だとも思います。
「共同世界」や「周囲世界」という用語は、存在論における常套句ですね。例えば、〈人間は、じぶんにとりわけ重要であるもの――みずからの人間的生――について、周囲世界ではなく共同世界に依存している。だからこそ人間は、とりわけて共同世界において、また共同世界から、「自立性」を、すなわち存在者が有する実在的な自体的存在を経験するのである〉とあります。
そこでは、他者が問題になるわけですね。〈「共同世界」は、こうして、だんじて純粋にそれだけで出会われるのではない。それはつねに或る構造連関の内部で出会われる。その構造的な分肢は、他者たちと共に―世界内存在する―自己なのである〉というわけです。
「他者」という概念が登場すれば、他者へのさらなる考察へと進んでいきます。〈他者たちとその相互の関係は、原理的にいって、或る者自身と、他者たちに対する或る者固有の関係に、さかのぼって関連づけられている。そこから生まれるのは、経験的にはよく知られた区別、親密な者と疎遠な者、身内の者と未知な者という、他者をめぐる根本的な区別である〉というわけですね。
この「自己」という概念と「他者」という概念から、次のような現象学的な帰結が導き出されています。すなわち、〈いわゆる自己中心主義と他者中心主義という実体化された性質をはなれて、その事実的な現存在様式に立ちもどるなら、両者がその意味からして、他者に対する或る者自身のことなったふるまいかたを意味しているしだいが見てとられる。我―欲的―であることも無私的―であることも、他者―に対する―ありかたである。自己中心主義は、したがってまた、他者に対する明確な自己中心主義的なふるまいとして表現される必要すらもない。自己中心主義は、自己中心主義なしかたで強調された顧慮のありかたにあっても同様に、否むしろそこにおいてこそ主張され、顕示される。ニーチェの分析術は、そのすくなからぬ部分において、一見したところ無私的なものとみえる。さまざまな徳の仮面を剥ぐところにあるのである〉というわけです。
つまり、〈≪私自身≫であってはじめて、自己中心主義的でも他者中心主義的でもありうるのである〉ということになります。そのため、〈自己中心主義から他者中心主義的な装いという仮面を剥がすこころみは、しばしばくわだてられる。その施行は、けれども、自己中心主義の慎ましく偽装された装いのうちに、ひどく極端な無私性を発見するという、くわだてられることの稀なこころみ以上に原理的にいって見こみのあるものではない〉と語られているわけです。
これらの関係性の洞察に伴い、「歴史」が登場します。〈これほどまでに自立化した共同相互存在の世界を解きゆるめる正当な動機を与えるのは、その世界が形成された歴史である。関係が生成するのは一般にただ、相互に対してさしあたりは自立的なふたりの個人が出会うことによってである。そして関係が解消しうるのも、ただまた、一方と他方のこの根源的な自立性が、関係にそくして―いない規定として関係においてあらわれることによってなのである〉とあります。
レーヴィットの述べている≪私自身≫は、個人主義とかではまったくなく、現象学的に、世界がそうなっていざるをえないから、現にそうなっていることを、端的に現している表現なのです。≪私自身≫においてしか、自己中心主義的な振る舞いも、他者中心主義的な振る舞いもできないという、あまりに当たり前過ぎて、それゆえ神秘と呼ぶしかないような現象についての言及なのです。
コメントする