『神やぶれたまはず(中央公論新社)』長谷川三千子

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 長谷川三千子さんの『神やぶれたまはず -昭和二十年八月十五日正午』を読ませていただきました。たいへん素晴らしい作品です。安易な感想など恐れ多いのですが、自分なりに考えたり思ったりしたことを述べてみようと思います。
 まず、序において長谷川さんは、〈わたしがいまここでしようとしてゐるのは、その瞬間をもう一度ありありとわれわれの心に甦らせ、その瞬間の意味を問ひ、そしてその答へを得ることである〉と述べています。その瞬間とは、昭和二十年八月十五日正午のことを指しています。この大東亜戦争の敗戦の瞬間を徹底的に考え尽くすことで、日本人がわれわれの歴史を再び歩み出すことができると考えられているのです。
 こういったテーマでは、関連する情報を雑多に紹介するだけとか、今後も考えて行きましょうという掛け声で終わることが多いのですが、本書は違います。長谷川さんは、感情面と論理面の両面において、極めて高度な答えをはっきりと示すことに成功しています。このテーマについて論じた歴代の各論者のそれぞれの意見に対し、その意見が出て来た背景を正確に把握し、その意見の限界を的確に指摘し、その意見の先へと論理を進めています。本物の天才が緻密に思考した成果であり、実に美事だというしかありません。
 他にも、第八章の『カラマーゾフの兄弟』の大審問官に対する見解、および第九章のイサクの視点からの見解、これらは凄まじいの一言です。

 本書の論理を追体験した上で、本書では(おそらく長谷川さんの優しさゆえに)語られなかった思想の可能性について述べておきます。
 第九章で長谷川さんは、〈戦後の吉本隆明氏が熱心な反天皇制主義者となつたことは、少しも不思議でない。それはただ当然のなりゆきであつた〉と述べています。〈神からの拒絶〉による〈絶望や汚辱や悔恨がいりまじった気持〉、そこから導かれる〈生きることも死ぬこともできない状態〉におかれた人間は、〈神に背を向けて歩み去ることしかできないであろう〉というわけです。
 これは、当然のなりゆきではありません。〈生きることも死ぬこともできない状態〉というジレンマにおいて、吉本氏は結局、生きることを選んだわけですから。
 この吉本氏のおかれたジレンマの状態において、大きく分けて三つの選択肢があると思うのです。一つ目は、『改訂版 世紀の自決』に示されているように、死ぬという選択肢です。二つ目は、長谷川さん自身が『旧約聖書』のイサクの視点に立って、〈イサクは黙つてモリヤの山を後にし、二度とふたたび神に祈らうとはしなかつた〉と述べているような立場です。つまり、生きることを選び、かつ、黙って祈ることをやめるという選択肢です。三つ目は、生きることを選び、かつ、反天皇制主義者となってグダグダと呪詛を吐くという選択肢です。
 この三つの選択肢を鑑みるに、自死を選ぶ者・黙する者・呪詛を吐く者の順で、明らかに精神の高潔さに差があることが分かると思います。そして、最も高潔な者は死んでしまうため語れず、次の黙する者も黙するが故に語れず、最も高潔でない者の言葉が世に響くことになってしまったのです。
 この深刻な事態そのものが、長谷川さんという稀有な語り部を待つまで、日本の戦後が本当の意味で終わることのなかった大きな理由の一つだと思うのです。つまり、三番目の呪詛を吐く者に対し、死を選んだ者と黙した者の沈黙の声を救う人物の登場を待たなければならなかったのです。
 長谷川さんは第十章において、〈大東亜戦争敗北の瞬間において、われわれは本当の意味で、われわれの神を得たのである〉と述べています。このことを、別角度から論じておきます。すなわち、『神やぶれたまはず』によって、日本の歴史における本来の意味が示されることによって、大東亜戦争敗北の瞬間は、われわれが本当の意味で、われわれの神を得たことが明らかになったのである、と。

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